2006/07/30

Flockを使ってみる



Flockを試しに集中的に使っている。
「Flockは、Firefoxのコードをベースにして開発された「ソーシャルブラウザ」であり、ブログ、FlickrやPhotobucketとの写真の共有、del.icio.usやShadowsを使った「お気に入り」などの連携機能が組み込まれている。
昨年11月にFlockのプレビュー版を試したときには、興味深くはあるが少し粗削りな印象を受けた。 Flock関係者の懸命な努力により、今回のFlockベータ版は、ブログ作成や写真の共有、またはdel.icio.usなどのサービスの利用に時間をかけるユーザには必携といえるほど、しっかりと作り込まれている。」
   (OTP  「快心のFlockベータ」から引用)
Flickrとdel.icio.usを使う(特にFlickr)僕にとっては最適なブラウザだと思う。
 FirefoxにExtensionを組み込めばFlockと似たような機能を持つことが出来るが、やはり一体型となっている分連携の良さはFlockの方が上を行く。Firefoxで人気が高いExtensionは概ねFlock用のExtensionとしてサイトに載っている。僕などはそれほど利用しない方だが(重たくなるので)、それでもFirefoxで組み込んでいるExtensionの総てはFlockにも組み込むことが出来た。

一部サイトの紹介では、「Google Note」の組み込みが出来なかったと書いてあったが、僕は問題なく組み込むことが出来た。それ以上にFlickrとの連携が素晴らしい。一部、例えば「Group」と「Explore」の一覧表示が出きない、などの不満もあるが、総じて言えば、よりFlickrを楽しむことが出来る。

Flickr利用者にとって、最適なブラウザだと僕は思う。ちなみに「PortableFirefox」と同様に外部メモリーに収納可能な「Flock」もある。(Pocket Flock)
以前、ネットと言えばブラウザによる「ネットサーフィン」と「メール」であった。メールと言えば「POP」を指す時代のことだ。その頃、Netscapeなどの「メール」一体型ブラウザが便利だと、僕のまわりで使っている人も多かった。「Flock」をしばらく使っていると、何故だかその頃のブラウザを思い出した。

勿論現在のブラウザが標準装備として一体化するのはメールではない。「ブログ作成」であり「RSSリーダー」であり、様々なネット上で展開するサービスとの連携強化となる。それがネットにおける時代の変化ということなのだろう。「Flock」で気に入った機能,について簡単に説明する。



画像表示ボタンによりFlickrに投稿した写真の一覧を上部に表示する。
設定により、コンタクトを取っている人達の新たな投稿写真を見ることが出来る。
一覧の写真にマウスを持って行けば、大小二つのボックスが現れる。これはブログに投稿する写真の大きさの選択となる。



Flickrのコンタクト画面で、気になる人の画像にマウスを移動すれば、「View Photostream」表示が現れ、その部分をクリックすれば、上部の写真一覧は、その人の投稿写真一覧に切り替わる。



同様に人の写真サイトでも即座に一覧を参照することが出来る。今まで以上に快適に、色々な人の様々な写真を参照することが出来る。



Flockの標準装備機能のブログ作成、ブラウザ上部の写真一覧からドラッグ&ドロップで、写真をブログ作成画面に持ってこれる。ただしパソコン上に保存してある画像を使う場合、一旦Flickrなどに投稿しなければ、ブログに掲載することが出来ない。
Flickrでのブログ投稿機能と較べてみたが、コード生成はFlockでの方が良いと思う。でもFlickrからのブログ投稿と同様に作成時の通知(Ping)機能は行わない。(僕個人としては、通知はどうでもよい機能ではある)



いわゆるRSSリーダーも標準機能としてついている。ネット上で気になる記事を選択し、右クリックで「Blog this」を選択すると、その箇所が引用されブログ作成画面が立ち上がる。しかし、それ以外で簡単に「引用」を設定する事は出来ないので、「引用」を行いたい場合、自分でコードを書き込む必要がある。

ブラウザの「お気に入り」は「del.icio.us」等の連携のためか、他のブラウザと較べ独特で慣れが必要となる。今まで試しに使ってみたが、「試し」ではなくなりつつある。現状においても、僕にとっては最上のブラウザであるのは間違いない。ただ、折角のブログ作成機能ではあるが、ネット上のテクスト再利用の視点だけでなく、もう少し融通性を持たせて欲しかったと思っている。

2006/07/21

映画「ダヴィンチ・コード」を見てトムハンクスの毛髪が気になる



映画「ダヴィンチ・コード」を見た。僕はこのベストセラーになった原作を読んではいない。邦訳される前から何かと物議を醸し出していた作品として注目はしていたが、いざ邦訳されると、やはり同様に注目している方が多く、書店で積まれている書籍を見た瞬間に読む気が全く失せてしまった。

映画はトム・ハンクス主演だというので見に行ったようなものだ。実を言えば彼の以前の出演作「ターミナル」を見て、彼が歳をとった姿に驚いた。それでも「ターミナル」 のあの無国籍風の男はトムハンクスでしか演じられないと納得したのを覚えている。

僕が好きな映画、「ビッグ」で見せた、あの子供っぽい目つきと笑顔、そして大きな鍵盤の上で曲をタップで弾く軽妙な動き、あれらを印象的に覚えている僕にとっては、トム・ハンクスの俳優としての存在感をそこに求めて眺めてしまう傾向がある。勿論「ビッグ」から20年近い年月が経っているのは理解しているし、彼がその年月に俳優として幅を広げてきたのも見ている。それでもトム・ハンクスの役者としての本質、もしくは魅力は、映画「ビッグ」で見せた姿にあると思うのだ。彼から少年ぽい眼差しを無くしてしまったら、彼から軽妙な雰囲気を無くしてしまったら、それは単なる普通の中年男優でしかない。

トム・ハンクスは、存在としての喜劇性を感じさせる役者だと僕は思う。彼が演じる役は、深刻な状況にいても、どこか軽さとおかしみがある。そしてその雰囲気が映画の中で逆説的に現実感をもたらせる。それが今回の「ダヴィンチ・コード」では、彼の良さが現れていない。全くとは言わないが、あれだと誰が演じても同じではないか、そんな感想を持つ。だからか、 妙にトム・ハンクスの頭の禿げ具合が目立ってしょうがなかった。

「ダヴィンチ・コード」のトム・ハンクスは、正直言えば映画興行の担保として担ぎ出されただけで、彼が演じる必然性はそこにはない。だから見終わった後に彼が出演していることを忘れるほどでもあった。また彼が演じる教授が、様々な事物から連想を働かせ、真実へと推理している様は、 CGを多用し見ている方も理解しやすいのだが、妙に現実感が乏しく、何か回答がどこからともなく出てきた、 手品のように種も仕掛けもあるような、そんな気分にさせられた。

だから原作を知らない僕は、映画の半ばまで、トムハンクス演じる教授が黒幕ではないかと疑ってしまったくらいである。 そう、映画途中で僕が密かに願ったこと、悪役としての黒幕トム・ハンクスを僕は見たかった。トム・ハンクスを気にせず、映画としてみればなかなかに面白かった。でもどうも評判はあまり良くないらしい。また話題としてキリストに関することに集中しているかのようだ。

確かに、例えば「南京事件」を背景にサスペンス映画が造られた時、 描き方により、映画として僕は見ていられないかもしれない。解釈はその人が持っている、文化的・歴史的資源によるところが大きいとも思う。 でも映画の感想は、他もそうかもしれないが、自分の立場で行うなうしかない。

僕にとってはこの映画はサスペンス映画ではない。この映画は一人の女性が自分が何者であるかを知る過程を描いた映画だと思う。一見何も関係ない事柄が繋ぎ合わさり、結果的にわかるのは自分のことだった。そしてトム・ハンクス演じる教授も同様である。彼もこの事件を通じて自分を知るのである。だから映画では、二人の過去の記憶が時折挿入されている。

歴史サスペンスとして見たとき、思い出すのはウンベルト・エーコの「薔薇の名前」である。そちらのほうは書籍も映画も何回も見て、または読んだ。それと「ダヴィンチ・コード」を較べるのは何だが、映画を見る限りに置いては、謎は「薔薇の名前」の方が圧倒的に深いように思える。

原作を読んでいない僕が言うのは何だが、「ダヴィンチ・コード」が流行った理由の一つとして、そのわかりやすさが挙げられる様に思える。で、僕の結論で言えば、わかりやすさは真実からほど遠い。勿論、一つの出来事に対し様々な物語があると思うし、原案ではその中の幾つかをつなぎ合わせて出来たのだと思う。物語作家としての才能には敬服するが、これほど売れたのは、その伝説を逆手にとっての、巧みな商業主義があってこそだと思うのである。

トム・ハンクスのことを語るつもりで脱線をしてしまった。

2006/07/20

友人との会話で思うこと

友人と電話で久しぶりに話をした。話は最近の状況から仕事の話になった。すると友人は何かわだかまりを持っているようで、自然に彼の話を僕が聞く格好になった。

友人は建築関係の仕事をしている。また最近は石綿(アスベスト)除去も行っているとのことだった。ある時彼が追加工事の一環として玄関扉の拡張を請け負ったときの話をしてくれた。追加工事とは主となる本工事があり、別途必要に応じ発生する工事のことを追加工事と称するようなのだが、この追加工事で彼は玄関枠を広げるために壁を切り取って欲しいと言われたそうである。

彼に指示したのは工務店で、工務店側はコンクリートの壁だと説明していた。そこで友人はコンクリートの壁を切り取るべく電動工具で作業に入った。友人は今まで何度もコンクリートの壁を切り取ったことがある。その彼が壁の外枠から、内部のコンクリートへと電動ドリルが入ったとき、今までだとそれなりの手応えがあるのに、今回は何の手応えもなくドリルが中に入っていったそうである。おかしいと思った友人が壁の内側を確認すると、そこにはアスベストの耐火材があり、実際はコンクリートの壁ではなかった。

早速その事を工務店担当者に彼は言いに行った。そうすると担当者は、彼を凝視し、断言口調で、「いえ、あれはコンクリートです」と言い返したそうである。

「そんなことがない、確認した」と、友人は何回か言ったそうだが、帰ってくる答えは「あれはコンクリートです」、の一点張りだったらしい。埒がない言葉のやりとりに、友人もうんざりしていたが、最後に担当者が「コンクリートです」と言い終えたとき、彼は薄ら笑いを浮かべていたそうだ。その表情を見たときに友人は、「あぁ確信犯なんだ」と思ったという。

その笑いは、「もういい加減に空気を読めよ」、と言っているような、そんな笑いの様にも見えたと彼は言う。アスベストが人体に影響を与えるのは、それが飛散し口から体内に入る時である。だから吹きつけ石綿などと違い、成型しているアスベストは劣化しない限り、危険性は薄いかもしれない。それでも工事を行うくらいであるから、ある程度の年数は経過し劣化している可能性は高い、しかも壁と共に切ることで、そこからアスベストが飛散することにもなる。友人はあわてて最低限の防御を行うべく、車載しているマスク等を取りに行き、それらを装着して作業を始めたのである。

本工事では事前に申請書を提出し、アスベストの調査を行い、その調査結果に見合った体制と設備で除去作業を行う。また管理者の立ち会いもあり、チェックも厳しいとのことだが、それが追加工事申請となると、事前調査なども行わず、かなりチェックも甘くなるらしい。そこで彼が請け負った玄関枠拡張などの細かな工事は、追加工事として、アスベスト除去の申請などしないで行うのが多いと聞いた。つまりアスベスト除去工事は手続きを含め流れが面倒なのであり、それにあわせて工事日程を組むと、工程そのものが成り立たなくなる恐れがある。よってそういう箇所は追加工事として別途申請するのが、現実には多いそうである。

また別の作業で、オフィスビルの床の撤去を請け負ったとき、その工事も追加工事だったらしいが、床を外したらアスベストが耐火材として敷き詰められていた。それも工務店側は申請もしていないらしい。その撤去工事の中で、アルバイト学生達がほうきで掃除をしているのを見たとも言っていた。確証は持てないが彼はおそらく事実を話しているのだろう。

「君には関係ないのはわかるけど、これらの話をすれば俺は怒りの気持ちが抑えられなくなるんだ。これ以上話すと君に怒りをぶつけるかもしれない。」

おそらく些末な工事であるから、その工事に微量のアスベスト除去が存在したとしても、無視できると現場は考えるのだろう。でもそれらを押し通すとき、現場で働く者たちを、付近に住む人達を、おそらく全く考えてはいない。それと同時に、「これが現実だと」、したり顔で話す人の欺瞞さに、友人は腹が立つのかもしれない。

丁度この話と似たような事件がつい最近にあった。「男前豆腐」の大豆がら消却事件である。産業廃棄物である大豆がら125Kgを会社敷地内で消却したことについて、担当者は「産業廃棄物とは知らなかった」と答えているが、主業務から出る廃棄物の種類が不明であるとは考えづらい。別の新聞記事では、「量が少ないから問題ないと思った」とあったが、
その方が正確なのだと思う。

「量が少ないから問題ない」と思ったのは担当者個人の感想であり、それは友人が話した追加工事におけるアスベスト除去の話に繋がる。事の有無を量の多少に単位をすり替えるたのは、自分がしている行為の社会的位置づけが、個人としても組織としても把握が出来ていない証左だと僕は思う。しかしそれ以上に、僕が友人の話から最初に思ったことは、友人の怒りの気持ちを僕にぶつければよいと言うことだった。僕には、「君には関係ないけど」という発想自体が、これらの行為の根本にあるのではないかと、思うのである。

もしかすれば僕自身が、消費者の一人として、これらの事を助長しているのかもしれない。具体的にどう繋がるのかは、想像力乏しい僕はすぐには思いつかない。でもこの社会で起きる様々な問題に、僕は外部にいたいと願うが、多くの問題はそうではない。友人とは今度会おう、会ってこの話をしよう、と告げた。でも話を終えた後に、なんとなく寂しいような、そんな気持ちを味わった。

2006/07/18

犬の散歩、それは恐ろしい体験

on fence

公園に行くと犬連れの人が目立つ。犬を飼うというくらいだから、連れて歩いている人は皆犬好きなんだろう、などと愚にもつかぬ事を思う。

犬好きは、公園の散歩などで、お互いに犬好きであることがわかる。猫好きの場合はそういうわけにはいかない。自ら「私は猫が好きです」、と宣言をしなければ、互いに知るよしもない。だからといって、そんな宣言をする人もいない。

一度だけだが、家で飼っている猫を公園散歩レビューさせようと思ったことがある。冗談ではなく真面目にそう思った。そして猫の散歩用の紐(ちゃんと売っている)を買ってきた。でも試みる以前に、しばらく猫と過ごし、それは叶わぬ夢であると思った。

でも今では、猫が犬の様に散歩をしなくても良いことが何よりも嬉しい。猫との生活は、必要以上に干渉しないこと。干渉せずとも、見ているだけで、側にいるだけで楽しい。

一度友人宅に行ったとき、その家で飼っている犬の散歩を頼まれた。何で僕がと思ったが、夫妻はそろって用事があるという。お互いに気心が知れた仲だし、別に頼まれたことで嫌な気分になることもない。外では黒くて大きな犬が、「キャンキャン」と散歩に連れて行けと吠え続けている。聞けばここ2・3日散歩をしていないらしい。

「ストレスが溜まっているんだなぁ」、などと友人が他人事のように言う。

「おいおい、それを僕に連れ出せと言うのか」、少しだけ怖じ気づき僕は言う。

友人はにやにやと笑っている。その顔で僕は苦笑し、なんて奴だと友人を見る。

一応歩くコースを教えてもらったが、見知らぬ土地で具体的に言われても、言われた方が困る。まぁ犬が帰り道くらい覚えているだろうと高を括る。僕はその時まで一度も「犬の散歩」なるものを経験したことがない。公園などで見かける姿は結構優雅である。しかしこの犬は凄かった。今までの僕の犬の概念が根底から覆されたのである。

犬の散歩があれほど力を必要とするとは知らなかった。おそらく犬にとっては見知らぬ人間、つまり僕などは初めから眼中になかったのだろう。静止の言葉も聞かず、逆に俺に続けとばかりに、僕を引っ張り、自分の行動を譲らない。これじゃあ犬の散歩か僕の散歩か区別が付かない。しかも友人宅からどんどんと離れていく。そんな時、不意に犬は立ち止まり、
鼻を地面にこすり臭いを嗅ぎ始めた。そしてその後の小便。そしてまた僕を引っ張り歩き始める。そして止まり臭いを嗅ぎ小便。その組み合わせを5回以上は繰り返したと思う。僕はただ呆れるばかりである。

まずは、よくもまぁこんなに小便が出るものだという驚き。この犬は必要な時に小便を出す特技でも会得しているのだろうか。もしくは出すと止るを自分の意志でコントロールできるのだろうか。それともこれが犬の特性なのかもしれない。もしそうだったらこいつは凄い。

犬の行動は、多分、自分の縄張りを小便で宣言していると思う。しかし公園での見かける犬の散歩で、同じ仕草を見かけたことがなかった。

逆に動物として縄張りを宣言するのは必要なことなのかもしれない、などとあらためて僕の前で臭いを嗅いでいる犬を見てそう思う。そうすると今まで僕が公園で見てきた犬たちは、あれは一体なんだったのだろう。見知らぬ土地で、犬に引っ張られ、どんどんと友人宅から離れ、しかもあたりは夕闇が近づいている。そんな中で僕は、そんなことくらいしか考えられないほど、この犬の従者になりつつあった。

この話の結末はどうなったのか。それはありきたりの話だが、友人がいつまでも戻らぬ僕等を気にして、犬が行きそうな場所に来てくれて僕は解放される。

二度と犬と散歩はしたくない・・・

2006/07/16

写真と遺影

従兄弟の遺影をじっと見つめていると、彼の娘さんが僕の側に来てささやく。

「良い写真でしょ」

僕は黙って頷く。一人で写っている写真が見あたらなくて、孫のお宮参りの記念写真を引き伸ばしたのだそうだ。どうりで少しはにかんだ嬉しそうな表情をしている。その時の従兄弟のことを想像し少しだけ微笑む。

遺影として生前の写真を飾るようになったのはいつの頃からだろうか。写真の普及と共にそれは広まったにせよ、そこには身体の中で特に顔を重視する眼差しと、写真が持つ何かが結びついたと僕には思える。
「いまはまさに郷愁の時代であり、写真はすすんで郷愁をかきたてる。写真術は挽歌の芸術、たそがれの芸術なのである。写真に撮られたものはたいがい、写真に撮られたということで哀愁を帯びる。醜悪な被写体もグロテストなものも、写真家の注意で威厳を与えられたために感動を呼ぶものになる。美しい被写体も年とり、朽ちて、いまは存在しないがために、哀愁の対象となるのである。写真はすべて死を連想させるものである。写真を撮ることは他人の(あるいは物の)死の運命、はかなさや無常に参入するということである。まさにこの瞬間を薄切りにして凍らせることによって、
すべての写真は時間の容赦ない溶解を証言しているのである。」

(「写真論」 スーザン・ソンタグ 近藤耕人訳 から引用)

写真に撮られたものはすべて今は存在しないものであるが故に哀愁を帯びる、というソンタグの言葉が特に具体性を持つのは遺影が最たると思う。逆に言えば、人物のポートレイトというのはどこかで遺影に繋がっているのかもしれない。

無論ソンタグは亡き人の写真を特定して述べているわけではない。でも僕が従兄弟の遺影をみて感じたことは、もう時を刻むことがない彼と、写真に撮された彼が、同質であるような、そんな奇妙な感覚であった。

人は遺影を見て、今は亡き人の面影を偲ぶと同時に、 凍結された写真の時間から喪失感を感じるのだと思う。遺影を見る人が、亡き人と関係が近ければ近いほど、 自身の記憶を呼び起こすことにもなり、浮かび上がった喪失感を感傷へと変質させていく。それは喪失によってぽっかりと空いた穴を埋めるというのでなく、逆に穴を日常の状態に置いたままにする、ということのように思える。

遺影として使われる写真は、多くの場合、初めは斎場に飾られることを目的にして撮影されたものではないだろう。例えばそれは様々なイベントの一つの記念であったり、旅行などの記録であったり、に違いない。でも一度遺影として使われると、その写真の意味と、向けられる眼差しは変わることになる。

遺影は家のどこかに常時飾られ、訪れた人は、撮された人物を見知っているか否かに係わらず、興味深く眺めることだろう。それは遺影に写った人がかつては確かに存在したという証でもあるが故に、凍結された写真の時間と今実際に眺めている時間の大きな隔たりを見いだすことでもある。

かつて彼はここにいた。そして今はもういない。

人が重大で悲惨な病気だと感じるとき、患者の容姿の、特に顔の変貌の強さに驚くときだと僕は思う。かつてのふくよかな生気に満ちた顔が、青白く、頬が痩せこけ、目は落ち込み、別人の様相を呈しているのを見たとき、人は声を失い、患者が抱え込んでいる病いが重大であることを意識する。

また愛する者に死が訪れるとき、その死が苦痛も恐怖もない、「安らかな死」 であることを祈る。実際はその死が安らかであるか否かを他者は知ることが出来ない。でも「死に顔」がまるで「眠っている」 かのような顔であれば、人は悲しみの中で僅かな救いをそこに見いだすのだと僕は思う。

近代で身体にどれほど考察を加えようと、未だに顔は別格となっている。主に遺影として現れる姿は、顔が全体のほとんどを占める。遺影とは顔の写真ということであり、それは顔がその人の総てを現しているという認識でもある。

遺影に使われる写真は元気だった頃の写真を使う。誰も死に瀕した状態の姿を遺影にはしない。穏やかな表情、もしくは楽しげに笑っている表情、どれもが良い表情をしている。しかし送葬の式場に集まる中で、それぞれの時間の中で過ごす人達の中で、遺影に撮された人の時間だけが既に刻むことはないのである。それを遺影という以前に、写真そのものが、それを見る人達に意識させるのだと僕は思う。

遺影が広まったのは写真技術の普及と共にだが、これはある意味自然なことだった、と僕は思う。今では、遺影に写真以外の技術を使うことも可能ではあるが、しかし写真以上に繋がりと喪失を感じさせるとも思えないのである。