2009/10/31

PC版GREEのリニューアルで思うこと

今更こんな話をするのは遅れているとの意見が出るのは承知の記事(笑)

11月初旬にPC版GREEが正式にリニューアルする。すでに試験的に運用されているので、使われている方も多いに違いない。今回のリニューアルの主旨は一言で言えば、『リアルタイム性重視にリニューアル』と言うことらしい。

具体的には幾つか機能追加と逆に機能削減があるが、方向としては「日記」+「足跡」のコミュニケーションからTwitterのようなリアル(今、何を)への変更だと言える。この考えはWebの世界では新しくもない。すでに数年前からWebコミュニケーションの流れであると言われ続けてきた。

結果的に「日記」はサブ的な位置づけへと転落することになるし、その為PC版の日記が持っていた幾つかの機能もなくなる。競争が激しいWebビジネスのことを考えれば、GREEの今回のリニューアルは別面で見れば遅いのかもしれない。
ただ、それまでは携帯に資本投資を集中し、一定の成果を上げてきたことを考えれば、GREEとしてはこれも計画の通りなのだろう。

生き残りをかけて厳しい戦いをしている。その為に変化をし続けなければならない。またその変化が正しいかどうかは誰にもわからない。
さらに変化は必ず利用者の不満をかうことにもなる。誰もが喜ぶ変化などおそらくないと思うし、切り捨てられたと感じる方もいることだろう。そしてその感覚は常に正しいと僕も思う。そしてビジネス的にGREEは離反率も予測を立てているに違いない。

ただGREEが自信を持って行うリニューアル、それは1千万を超えるユーザー数を背景にしているが、PC版にリニューアルが本当に今回のような『リアルタイム性重視』で良いのか、それがビジネス的に正しいのか?
つまりは携帯で培われてきた文化がPCでも同様に適用するのか?
そう考えると、まだ直感の域をでないが、違うのではないのかと言う思いも確かにある。(携帯でしか使えなかった伝言板がPCでも使えるのは嬉しいが)

つまり、携帯とPCの双方がコミュニケーションするための道具としたとき、両者はそれぞれの文化で棲み分けが今よりもっと明確になっていくのではなかろうか。携帯とPCとで同じものを同じように使えるようにする方向は正しい。しかし携帯とPCでの利用する環境および動機などは違うのではないのか。その違いが『リアルタイム性重視』という一つの方向でまとまるとは思えないのである。

利用者は携帯でGREEを利用するけど、場合によりPCでも利用する、そして両者の使い分けはその時の動機によって分ける、と言った選択肢を狭める結果となりはしないかと危惧しているのだ。それらをTwitter的なショートメッセージ化する方向での統一は誤りではなかろうか。少なくともPCに関しては。

どういう結果になるのか僕には正直わからないし、それなりに成功するかもしれない。(とGREEの経営者たちは言うことだろう)
ただ今回のリニューアルで、日記を中心としての素晴らしい書き手がGREEから少なくなるとしたら、とても残念なことだと僕は思っている。
(Webサービスと言っても、結局は人で成り立っているのだろう?)

*蛇足*
携帯で日記を書く場合、携帯に読みやすいように言葉を使い改行も行われる。PCの場合も同様だ。僕は殆どPCで文章を書いているので、おそらく携帯の人にとっては読みづらいことだろう。逆にPCからすれば携帯で書かれた文章は読みづらい。でもそういうのはそれほど大きな問題でもない。読まれる文章は結果的に何で書かれようとも読まれる。

2009/10/27

サルガド写真展のパンフレットを買わずに追分団子を買って帰った話

セバスチャン・サルガドの写真展に行った際、売店でパンフレットを購入しようかと考えた。価格も2200円なので写真展のパンフレットとしてはそれほど高くはない。そのつもりで手に取りパラパラとページをめくる。多少写真が小さいのは価格を考えると致し方ない。しかもパンフレットにはサルガドの言葉とか評論家の解説なども載っているから読み物としてもおもしろい。そんなことを考えてパンフレットの後ろにある解説を読んでみた。

名前は忘れてしまったが女性漫画家の解説と言うよりは個人的な感想文だった。彼女の感想は次のようなことが書かれていた。サルガドはフォトジャーナリズムを芸術の域まで高めた、ほかの芸術はもっとわかりやすくすべきだ、云々。

何を言っているんだろうこの人は、というのが正直な僕の感想。でもネットでサルガドのことを調べてみると案外に芸術家であるとの評価を持っている人が多いのに気がついた。どういうことなのだろう。

例えばだ、今回の写真展にこんな写真があった。ルワンダ紛争から一年後の1995年に撮影されている、ある学校にある数百のツチ族の遺体の写真。サルガドらしくその写真には吐き気を及ぼすような嫌悪感は少ない。しかし、この写真を芸術作品と言えるのだろうか。

その漫画家に聞きたいことは、彼女が考える芸術の定義そのものだ。仮に僕がフォトドキュメンタリーの一人だったとしよう。社会の問題点を僕の視点で切り取った写真が高く評価されたとしよう。その際、僕がその社会の問題を写した写真を観客が見て芸術性が高いと言われたとき、僕はジャーナリストとしてどう思うのだろうか。芸術という称号を与えられて喜ぶのだろうか。そんなことはない。逆に、芸術性が高いと言うことで、ジャーナリズムとしての写真の価値が下がるように感じることだろう。はっきりと言えば、自分が芸術家だろうがなかろうがそんなことはどうでも良い。それが一部の人たちにとって褒め言葉になるのだとしても、そういう称号に何の意味があるというのか。

芸術としての称号を与えることは作品を特別な位置に高める、という凡庸な考えはどこから来るのだろう。僕には殆ど理解できない。そして、それを基準にしてものを語る感想ほどつまらぬものはない。

それから芸術はもっとわかりやすく云々について、誰にとってわかりやすくなのだろうか。彼女がそういう風に思い語ると言うことは、その漫画家にとってわかりやすいということなのだろう。一般的にと言うのであれば、その基準などを明確にすべきであろう。そうでなければ単なる愚痴でしかない。さらに言えば、いわゆる芸術家たちはあなたのことを考えて創作活動を続けているわけでもない。

などと、その感想文を読んで頭の中で思った。お金を出してこの手の感想を読まなくてはならない道理などどこにもない。だから僕はパンフレットを買うのをやめた。

帰りに渋谷の東急東横店のれん街にて追分だんご本舗のみたらし団子などを約2000円分買った。これがセバスチャン・サルガドのパンフレット代わりだと僕は思った。

2009/10/26

東京写真美術館 セバスチャン・サルガド AFRICA展



セバスチャン・サルガドの撮る写真は美しい。そしてまさしくそのことが彼の写真の問題であると僕は考える。そして彼の写真が世界に多く受け入れられた理由としてその美しさがあるのも間違いない。

サルガドは現在でも活躍している著名なフォトジャーナリストでもある。その彼の30年間に及ぶアフリカでの撮影をまとめた写真展が東京写真美術館で開催されているので行って来た。美術館で入手したカタログには「フォトジャーナリズム」ではなく「フォトドキュメンタリー」とあった。そして彼はその「フォトドキュメンタリー」の先駆者でもあるらしい。

「フォトジャーナリズム」と「フォトドキュメンタリー」の区別は、両者は報道写真(フォトジャーナリズム)の範疇に入りながらも、前者がニュース性を求めることに対し、後者は写真家の視点を残しながら淡々と現状を切り取っていく姿勢にある。故にフォトドキュメンタリーの場合、写真家のスタイルが全面に出ることになる。セバスチャン・サルガドのスタイルを僕が簡単に説明することは難しい。ただ一目瞭然なのは、モノクロで広角レンズを多用し画面を大きく構成しているということだろう。

写真には不可視な何かが写っている。その何かを写真家はカメラのシャッターを押せば写りこまれるというわけではない。清水穣は、「それは写真に写っている対象の真実でもなく、写真を見て感じる我々の心理や感情とは無関係」として、その上で、「写真の奇跡は、見えないものが写るということである。見えていなかったものが写っているといっているのではない、写っているのだが見えないのである」とした。そしてその何かを写真的不可視であると語る。

写真として成立するためには、その不可視な何かが写っていなければならない。それを写真性と呼ぶのであれば、それでも良い。ただこの何かは写真家の思惑を超えて在るわけではなく、写真家とは無関係に在るのだと僕には思える。写真家のダイアン・アーバスは常々カメラは自分の思い通りにならないと言い続けた。思い通りにしようと望むこと自体、それは不可能なことなのだろう。

写真家が出来ることと言えば、多くの写真を撮ること、そして多くの写真を見ることしかないのでなかろうか。その上で、不可視の何かが写りこまれている写真の選択にのみ写真家の自己表現があるといったら言いすぎだろうか。

写真は写すものを美しく見せる、とは確かスーザン・ソンタグの「写真論」での言葉だ。彼女の写真論の基軸には「他者の苦痛へのまなざし」があるように思う。そしてこの基軸の言葉はそのまま次の写真論のタイトルにもなった。

彼女はこの「他者の苦痛へのまなざし」の中でセバスチャン・サルガドのある一枚の写真「集団移住者の群れ」に向けられた批判を肯定している。批判とは「スペクタクル的で映画的とされる美しい構成をもった大きな写真」を写したことで、個々の問題と悲惨さが無化され、かつ抽象化され、それらの問題解決に向かわないということにあった。
『現実がスペクタルと化したと言うことは、驚くべき偏狭な精神である。それは報道が娯楽に転化されているような、世界の富める場所に住む少数の知識人のものの見方の習性を一般化している』
(「他者の苦痛へのまなざし」 スーザン・ソンタグ)
記号としての写真は、これも清水穣の言葉を借りるのであれば、表象がない指向対象(レフェラン)のみの特殊な記号である。例えば雲の写真は雲が写真にあるのではなく、雲の指向対象(レフェラン)が写っているということになる。それであれば、他者の苦痛が写っている写真のレフェランとは何になるのであろう。

原理的に他者の苦痛を僕らは知ることは出来ない。それでも人間の社会構造はいかなる文化であろうとも同一であるという立場から、僕らは他者の痛みがどの様なときに起こるのかを把握する。苦痛の原因・苦痛の表象・苦痛の内実、僕らにわかるのはそのうち原因と表象となるのだろう。アフリカでの苦痛の原因の多くを僕らは知っている。貧困・飢餓・紛争・破壊・病気・虐殺などなど。そしてそれらの原因と表情に現れる苦痛とで、その写真に写る人の痛みを感じることとなるのだ。つまり苦痛の対象指向とは、写真の誰それに向かうと同時に僕らにも向かうのである。
『震撼させる写真が衝撃の力を必ず失うとはかぎらない。だが理解するということにかけては写真はそれほど助けとならない。物語はわれわれに理解させる。写真の役目は違う。写真はわれわれにつきまとう。』
(「他者の苦痛へのまなざし」 スーザン・ソンタグ)
つきまとうのは何か。それは僕らに向かうレフェランではなかろうか。仮に写真に写る不可視の何かが薄まったとしたとき、もしくはレフェランが弱い場合、その写真には何が現れるのだろう。無論、これらは可算名詞なのかと言った問いかけもあるとは思う。その点について僕には未だ分からない。ただサルガドの写真を説明する際、その言い方が適切のように僕には思えるのだ。

セバスチャン・サルガドが写した様々なアフリカの風景は美しい。砂漠を写した写真は何度見ても飽きない。10頭近くものシマウマが並んで池の水の飲む姿は、シマウマの模様が群れ全体で一つの調和をなし、それだけでも何らかのデザインとなっている。アフリカに住む人々の姿は躍動感に満ち、瞳は美しく、命の美しさを讃えているかのようだ。

そして内紛・紛争・虐殺に逃れた人々の難民キャンプの風景も美しい。ある写真では、兵士二人が砂丘に立ち、その足元には完全に腐乱し人間の原型をとどめていない死体が大の字になって倒れている。兵士の顔はその死体に驚くこともなく平然とした顔つきで立っている。その写真は不思議なことに嫌悪感を持つことがない。美しいのだ。兵士も、彼らが立つ風景も、そして無残に朽ち果てた死体も。

また別の写真では食料の配給を待つ女性が体を斜めにし顔をカメラに向けていた。彼女の目は不思議な模様を見せていた。説明文を読めば砂嵐と慢性の眼病で視力が失われているのだそうだ。しかし写真の構図とまっすぐにカメラを見つめるその姿は美しい。

セバスチャン・サルガドの写真はよく言われるように映画的である。それは僕らが美しいと感じる構図とコントラストによって構成されている。こうあるべきだという美しさのフレームワークに僕らは逃れることはできない。そしてそれは逆に僕らが望んでいる美しさでもある。美しい写真は、人間である限り同じ価値観を共有するという安心感を根拠無く与えるが、写真の衝撃とつきまとうものは殆ど無い。

スーザン・ソンタグの問題提議を無視することは難しい。ただサルガドへの写真評価に係わることは、批判する者も擁護する者も、両者の倫理観もしくは写真に係わる信念の対立とも言える。それらの闘争にどちらが勝っていると誰が言えるのだろう。

サルガドの写真にはレフェランの強さがない。もしくはレフェラン自体が欠けている。故に写されたものは、その写真に留まることになる。写された対象は写真の構図の中で留まり、よって対象とその構図からの美しさが全面に現れる。例えが悪いが、サルガドの写真は観光地の絵はがきに近い。しかもそれは廃刊となったリーダーズダイジェストなどに掲載される珍しくも美しい写真に近いかもしれない。

ただその観光地の絵はがきに数十万人の難民が生活するキャンプも写され、その中で暴動・殺戮が頻繁にある姿があったとしたら、見る者は美しいと同時に一種の違和感を感じることだろう。そういう種類の違和感が、サルガドの写真を見終わった後に残り続ける。それはまとわるといった種類ではないが記憶には残る。

確かに写された人々の個々の問題はサルガドの写真では無化するほかはない。それはサルガドの写真の本質に係わる部分だからだ。だからといってアフリカの現状を伝えていないというわけでもない。サルガドの写真は写真であることを抑えることで、逆にアフリカの状況を伝えているのだと僕には思える。

※写真は、「パガラウ放牧キャンプのディンカ族、南部スーダン、2006年」
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セバスチャン・サルガド アフリカ
生きとし生けるものの未来へ

東京写真美術館
■会 期:2009年10月24日(土)→12月13日(日)
■休館日:毎週月曜日(休館日が祝日・振替休日の場合はその翌日)
■会 場:2階展示室
■料 金:一般 800(640)円/学生 700(560)円/中高生・65歳以上 600(480)円

2009/10/24

Windows7

昨夜Windows7をインストールした。会社から帰宅しすぐに始めた。

僕のPCはDELL製ノートブックで製品名はinspiron1520。DELLサイトを見るとこのノートはWindows7対象製品扱いではなかった。しかもOSはWindowsXP。ただこれを購入するときに、VISTAもしくはXPが選択可能になっていて、僕はXPを選んだのだから、当然にVISTA対応PCでもあると考えていた。VISTA対応PCであれば問題なくWindows7をインストールできるはずだ。あとはやってみて何か問題があればその都度対応すればよい。いつもの気楽なノリで始めたのである。

実を言えば、なぜか昨日は気持ちが穏やかではなかった。こういう時は1ヶ月のうち何日かある。イライラとする訳ではなく、ただ気持ちが定まらずに落ち着かないのだ。おそらく僕のそういう気持ちの状態を他の人は分かることはないだろう。僕だけが感じ、そして大抵は普段通りに動きながら、内心はじっとこの落ち着きのなさが通り過ぎるのを待つのだ。

昔、友人にそのことを話したら、それは男の月のものだと一笑にされた。冗談のつもりで彼は言ったのだろうが、僕はそれを信じている。生命が雌と雄に分化した際、雄は雌から造られた。生命にとっては子孫を産む機能を有する性の方が重要なのは当然なのだから、雄は言わば種を存続させるために雌から産まれたようなものだろう。逆に言えば、男性は女性の機能のほとんどを有している様に思う。子を産む以外は。だから、彼の冗談は僕にとっては冗談ではなく、その通りだと思ったのだった。

ただこれまでの過程の中で、社会的な役割分担の結果、些末な差異が男性と女性に現れているとも思っているが。

その落ち着きのない気持ちの状態の中でWindows7のインストールは行われた。
WindowsXPからのインストールはクリーンインストールとなる。つまり、PCの中のものは結果的にすべて消去することになる。だからまずはバックアップをとらなければならない。僕にとって重要なデータは、文書データ、音楽データ、そして写真のデータだ。そのうち文書データはネット上で常にバックアップはされている。さらに文章を書くのは、今ではほとんどがGoogleドキュメントなどのWebアプリを使っているから、バックアップする必要はない。メールデータも同じだ。写真データも同様にネットを含めて常にバックアップをしている。さらにソフト類もネットに繋がってさえいれば概ね復元は可能だ。

OSの再インストールをするときにはいつも思うのは、僕の個人情報はGoogleそのほかのサービスプロバイダーに握られていると言うことだ。その反面に僕は利便性を手に入れている。このモデルは今の社会に至るところにある。それが良いのか悪いのかはもう少し先に行かなければ分からないかもしれない。

ただデータの中で音楽データだけはその限りではない。僕は音楽の再生に
AppleのiTunesを使っている。音楽データだけで40GB近くある。そしてその殆どをiPodに入れている。容量が多いためネット上に置いておくことは全曲となれば難しい。だからこれに関してはきちんとバックアップしておかなければならない。そう、それに気がつけばの話だが。

ここまで読んでくださった方であれば、すでにおわかりのことだろう。音楽データの幾つかを僕は消去してしまったのだ。

Windows7へのインストールは思った以上に簡単で早かった。新規インストールのボタンを押下すれば、後は殆ど自動的に行われた。全く問題がなく僕はWindows7に移行することができた。
Windows7の操作性はXPと較べると全く違う。VISTAを使ったことがなかったので最初は戸惑ったが、それも1時間くらい触っていれば慣れた。早さもXPと較べて違和感がなかったから、VISTAと較べればだいぶ早いに違いない。

音楽データの幾つかを消去してしまったことに気がついたのは、Windows7になれ始めた頃だった。特に一番ショックだったのは、「マーティン・スコセッシのブルース全集」。これはあのTSUTAYAにも置いていないと思う。(単品では幾つか置いてあるとは思うが・・・)僕はこれを図書館で1年以上待って借りてきた。しかもこの全集はiPodにも容量の問題があり入れていなかった。

そしてもう一つ、これは蛇足だけど、いつも使っているネットサービス「NHKオンデマンド」もWindows7対応になったいなかった。人形劇「新・三銃士」をみることができない・・・

Windows7には今のところ満足している。XPと同等の速度があり、機能的にも洗練されているのであれば文句はないだろう。ただPCとは自分のやりたいことをするための道具だとすれば、いくら道具が優秀でも材料がなければやはりものは造れない。無論、Windows7の理由でも何でもなく、僕の問題だとは知っているが。

2009/10/20

Nikon Small World

神々の創造はミクロに宿る。猫の造形は既に遺伝子の中に宿っているし、その遺伝子は数十億年と言う生命の繋がりの中で形成してきたのだから。
つまり神の創造は生命誕生のその瞬間にあることになる。ただその瞬間は地球と言う銀河系辺境の惑星があればこその起点でもある。ゆえに神の御手はさらに遡る事が出来る。最終的には宇宙誕生の瞬間にこそ神の奇跡が行われたと言う事になるかも知れぬ。それであれば、宇宙誕生以前の無の中で神は一体何処におわしたのだろう。

ミクロの世界への旅はゆえに広大な宇宙への旅に似ている。そしてどちらもが人間の領域を離れる旅でもある。しかしその領域も一旦写真に収められれば状況は一変する。写真として撮られることで、その領域は人間の場所に変っていくのだ。写真は、いわば植民地主義の尖兵の役割を担っている。それはキリスト教伝播の際に神父を最初に送り込むのに似ている。

写真はどこが神父に似ているのだろう。宗教と科学という区分けはあまりにも陳腐かもしれない。中世と近代と言う歴史区分はあまりにも欧米的だとの謗りを受けるかもしれない。それに僕自身がこのような時代区分に組しないのもある。ただカメラ及び写真技術の誕生と発展は近代と密接に絡んでいるようにも思えるのも事実だ。

カメラと言う道具は単に化学・物理的反応を起こす箱に過ぎない。問題は写真そのものにある。例えば、写真史を認識論を中心にして眺めると一つの疑問が浮かんでくるのだ。「一体何故僕らは写真に写りこまれた画像を過去の事実として信じるに至ったのか」という素朴な疑問が。現代では、写真は聖書に変る新たな伝道の書として僕らの眼前に提示される。その点において写真と神父はそれほど変わることはない、と僕には思える。

Nikon Small World写真コンテスト2009年度の発表が先だって行われた。
顕微鏡写真は色鮮やかで美しく、造形も変化に富んでいる。おそらくミクロの世界は人間の時間より早く進んでいくのだろうか。毎年のコンテストで発表される一連の写真群はどれもが違う。僕らの領域が未だ太陽系を超えられないと同じように、ミクロの領域も当然のことながらあるのだろう。

ただ顕微鏡写真の技術面は年々その未知なる領域をも侵犯している。
Nikon Small Worldの一群の写真を見るとき、その美しさに息を呑むのだが、それでいて衝撃を受けるということでもない。既に僕らの眼は、日々生み出される無限とも思われる写真によって、新たな映像に対する感受性が鈍っているのかもしれない。

いやそうではない、と僕の感性は告げる。既にこれらの世界は見知った世界なのである。土星の衛星タイタンの写真を見たときも驚きは特になく、そこまでに人間が到達したのかと言う感慨しかなかった。タイタンの姿は想像を超えていたが、それでも僕らが信奉する物理学の枠を超えて存在しているわけではない。人間は対象をモデリングしイメージとして捉える。その中に、これらの一群の顕微鏡写真もあるのだと僕には思える。

無論、美しいし、見ることによって何らかのインスピレーションを得られるかもしれない。これらも我らの世界の一部に変わりはないのだから。

http://www.nikonsmallworld.com/