2005/07/21

ツーリング計画

なにかしら忙しくなるとツーリング計画を立ててしまう。今考えているのは青森までの東北ツーリング。途中に仙台にいる姉のところに寄り、平泉に立ち寄り、青森を目指すコース。のべにして一週間くらいの旅程になる。平泉に寄るのはNHK大河ドラマの影響を受けたから。いけたとしたら中学の卒業旅行以来の訪問となる。

泊まるところは全て親戚宅を利用する予定。具体的には仙台と青森の黒石。ただ黒石を起点にどこまで足を伸ばすかが未定状態。それ以前にこの計画自体が空想のまま終了する可能性も高いのだけど。

東北道の車が少なく見晴らしの良い素敵な道を走る空想を巡らせている。空にはぽっかりと夏の雲が漂い。前方には少し濃いめの海が広がる。
そんな光景はないのかもしれない。様々な出来事と忙しさから逃れたいという気持ちが強いのかもしれない。確かにそういう面はあるとは思う。でも僕はそれが悪いことだとは少しも思わない。

このツーリング計画が実行できる可能性は今のところ半々だ。休みについてはリフレッシュ休暇という制度が会社にはあるのでそれを使うつもり。問題は、実際に行くという強い気持ちを持つことだと思っている。ただ、短い期間とはいえ残すものも大きい。さてさてどうなることやら。

2005/07/20

日記として書く「公私」のこと

ブログは広い意味で日記の一形態でもあると思うので、書かれていることはあくまで個人的なことが多いと思う。個人的な事項でなくてもその内容は多くは主観的なことだろう。最近僕は「公私」の切り分けについて考える時、この主観的ということについて思いが行くことが多い。ながく僕に染みついた一つの考え、それは主観的なものは「私」に属し、客観的なことは「公」に属する。意見とは主観的なものでなく、そこに公の視点がはいってこそ人が聞くべき「意見」となる。だからこそ、僕は人前で自分の意見を飲み込む。まずは吐き出す自分の考えがこの場にふさわしいか否かを考えるのだ。

でも最近少し考えが変わってきた。先だってこのブログで書いた記事「他者が僕に」はそういう気持ちで書いた。あの記事はあくまで僕の事だけど、恐らく他の人にもあることだろうと思ったのだ。ただそれでも主観が強すぎたかもしれない。別の言い方をすれば、「意見」とは主観の中に他の人を想定すること成り立つと僕は思っている。他の人だったらどう考えるのだろう、という他者の視点を主観に挿入することだと思う。

「公私」の切り分けは時代性がそこには存在する。きわめて恣意的なものだとさえ思う。ある時代では単なる愚痴と受け取られていた言葉が、ある時代では意見として多くの人の心を掴む。例えば、介護についてがそうだった。石綿についても永く個人の問題として受け取られていたことだろう。

イラク人質事件では「自己責任」という言葉が飛び交った。その他にも「自助努力」という言葉もでた。文字通り「公私のけじめ」もあった様に思う。それらの言葉は一連のあれらの出来事が「私」の要素が大きいとのおおかたの考えからきたのだろう。その反面、現在では少子化による国民の「性」に関すること、漢字の読み書きの程度のことが、「公」として話がされているのだ。勿論国家が国民の「性」への関与は今に始まったことではない。ただ、いずれにせよそれらの話は「有効性」「無効性」もしくは「効率」の面からなされることが多い様に思える。

北朝鮮拉致の話の中で、ある社会学者は国際政治の有効カードの話をだした。確かに国際政治とはそういったものかもしれない。でもそれらの背景にも同様に「有効性」の観点からの視点が強いのではないだろうか。「有効性」の視点からの考えは選民への考えにつながる、と僕は思う。役に立つ立たないの基準で落ちるもの達の声を誰がどのようにして聞き遂げるのであろう。介護が必要な方は無効なのだろうか。そんなことはないと多くの人は語るだろう。そのような方々に向けて様々な法律を整備しているではないかと答える方もいることだろう。でも僕の言いたいことはそういうことではない。それは僕自身の心の中にもあることを認める部分、有効性無効性の社会に暮らすものの奥底にある、それらの方々に向ける目にある僅かでもある侮蔑の目線のことなのだ。

アマルティア・センは公共的価値を「基本的な潜在能力」と考えている。「潜在能力」として例示するのは、『適切な栄養を得ていること、避けられる病気にかかっていないこと、早死にしないこと、文字が読めること、自尊心を持ちうること、友人をもてなすこと、会いたいと思う人に会えること、コミュニティの生活で一定の役割を果たすこと』(公共性 齋藤純一著 から引用)と言っている。
そしてそれらの潜在能力が脅かされるとき、もしくはできないとき、潜在能力の「略奪」として把握すべきだとセンは述べている。

それらが「略奪」されたとき、された側が声を上げる場所としての公共領域の必要性を僕は感じる。それらの領域は共同体ではなく、まさしく差異が共存する領域でなくてはならない。また、そこからの声が政治に結びつかなくてはならないと思う。

実はネットを使い始めた頃、僕は属性をできうる限り排除できるネット空間に公共領域の立ち上がりを期待した。ここには発信者の属性が見えず、それ故にその構築が可能だろうと思ったのだった。でもそれには自分も含め、ネットという環境以前に必要とする何かが未成熟な状態だった様に思える。

2005/07/17

今どきの名前

親戚に男の子が生まれた。名前を聞いてみると「英」と一字書いて、なんと読むかと逆に聞かれたので、「ひで」と素直に読んだら違うという。じゃあ、「えい」とこれはあり得ないだろうなぁと思いながらも聞いたが、やはりそれも違う。これでお手上げ。わからないから教えてと言ったら、なんと「はなぶさ」と読ませるそうだ。「英」で「はなぶさ」とは誰も読めないんじゃないかと言ったら、それが今の時流だという。ああ、そういうものかと少し笑う。

今時の子どもの名前は少し前と較べても全然違う。そういえば少し前に「悪魔」という名前で物議をかもした事もあったっけと思い出すが、ふと思ったのが、こういう名前が多く登場するのは、命名が親が子どもに託す願いであるとすれば、子どもが唯一無二の存在であることを名前でも現そうとしているのでないか、ということだった。
だから名前はどんどん読みづらくなる。滅多にない名前を考える方向になるからだ。それはそれで、子どもを思う親の気持ちだから尊く、それ以上に人様の子どもの名前は僕にはどうでも良いのだが、ここで思ったのが、名前に唯一無二、つまりは周りに同じ名前が滅多にいない名前を付ける時代の雰囲気というのがあって、その時代の雰囲気というのが、逆に唯一無二でない状況、社会における人の軽さみたいなものを親が感じ、それだからこそ子どもにそういった名前を付けるといった事もあるのでないかと言うことだった。

以前、人に聞いたところによると、女の子の名前の最後に「子」を付けるのが流行ったのが大正の終わり頃かららしい。それまでは「てい」とか「さだ」とか、ひらがなが多く最後に「子」はつけなかった。「子」を最後につける事は、昭和初期になんらかの雰囲気があってのことだと思う。僕はその点においても無知なので、理由は正直わからない。でもその当時は「子」をつけることは、現代の名前と同じくらいに、当時の言葉で言えば「新しく」「モダン」な事だったことは理解できる。

時代の変わり目に、恐らく人は自分の子どもの先を幸せにと願い、時代の雰囲気を先取ろうとそういった名前を付けるのかもしれない。昭和の初め、女の子の名前に「子」がつくのは、新しい女性像がそこにあったのだろう。これはあくまで僕の想像で、統計だとか調べたこともないので根拠は全くないのだが、それまでの名前、例えば「てい」、「さだ」、「ちよ」が二語だったが、それに「子」をつけて「さだこ」、「ちよこ」と3語に変わる。「こ」は単純に2語の後ろに組みやすい語だと言うことだ。「子」をつけるのが主なのでなく、たぶん3語にすることが大事だったように思う。「子」は一般に神道では女性をいうらしい。でもそれが理由であれば、もっと前から「子」をつける風習があっても良いと思う。

実は僕の想像はここで終わる。3語にすることで、その時代の雰囲気を現す事になると思うのだが、雰囲気は色々と想像ができるのだが、それぞれの想像と3語が上手くつたわらないのだ。まぁ、不明なことがあるのはよいことだ。今度ゆっくりと図書館で調べてみよう。

2005/07/15

他者が僕に

他者が僕に不愉快にさせる言葉を発したとする。その際僕は相手にその言葉を発した理由を聞くことだろう。でも相手から納得のいく言葉が得られないとき、もしくは無言で黙られたとき、僕は苛立ちを感じることだろう。それは僕にとっては理不尽だと、相手を罵るかもしれない。その際、僕は何に苛立ちを感じたのだろうか。それは自分の意識の中に他者が了解されずに存在することだと思う。了解を受けていない相手が、それでも僕の承認を求めている姿。その姿は「問題はお前にある」と雄弁に語っているかのように僕は受けとる。でも僕は相手を認めたいのだ、しかし了解への糸口を拒否し、それでもなお、承認して欲しいと言っているこの相手は、僕に一つの難問を提示しているかもしれない。それを解かないと先には行けないというような、そんな問題の一つとして。

相手を不愉快にさせたのは、相手にとっては僕であるはずだ。如何にして僕は相手を不愉快にさせたのか、それを聞き、僕は一体何をしようとするのだろう。関係のない相手であれば、もしかすると無視するかもしれない。例えば、街中で知らずのうちに鞄を前を歩く人にぶつけてしまった時のように、振り返る相手の痛がる顔を見ても自分に関係するとは少しも思えないだろう。少し歩いて、あの相手の痛みは僕が与えたものだと気がついても、もうそれは遅い。その際相手が罵る言葉も僕宛には聞こえない。街中の喧騒の一こまとして瞬時に忘れ去られる出来事になることだろう。でもこの相手は無視できる相手ではないのだ。

相手から、僕が不愉快にさせた理由を何故聞きたいのかと問われたとき、この状態が僕にとって理不尽なことであり、それを知ることで僕は貴方を承認したいからと答えるだろう。でもそれはタテマエでしかない。恐らくホンネの部分では、僕は相手に自分の正しさを承認させようと目論んでいるのだ。たぶんその時の僕の行動はこうだ、まず不愉快にさせたことを神妙にして聞く、その次に不愉快にさせたことに対し謝るが意図的でないことを告げる、そのうえで、僕の行為が相手に不愉快にさせるに至ったことを相手の問題として切り出すのである。考えてみれば嫌らしい行為かもしれない。でもそれを行うことで、僕は僕自身のことを守るしかない。

相手は僕の行為を見越している。そう考えるしかない。見越した上で、僕が自分を守る過程の中で、実は相手に謝りながらも相手のことを傷つけることも見逃さないのだろう。仮に意識せずに相手に不愉快にさせた僕の行為が、自分の信念に基づくものであったとしたら、相手の言い分に簡単なことでは納得はしないと思うのだ。それは単純な出来事から無限に続く疑心暗鬼への一歩へと踏み出すことでもあるのかもしれない。そのうちに、お互いの言葉は、どうしてこうなってしまったのだろう、という溜息にも似た呟きになっていくことだろう。その時は、その呟きさえ相手に気づかれないようにと、臆病になっている自分を想像できる。

僕はいったい何を守ろうとしているのだろう。人が生きるということは信念を持つことだと僕は思っている。人は信念の為に死ぬことも出来るかもしれない。その信念は自分の体験とか経験により確信をもって自己の中にあるものなのだ。でもひとたび考えれば、現実の喪失に対しても見失わないほど強い信念を僕は持っているのだろうか。特定の相手を大事に思う気持ち、それも一つの重たい信念と言えるのではないだろうか。それであれば、僕が守っている信念とは、実際はそういうものでなく、単なる生理的な自己保身に近い感情に近いのかもしれない。もし双方とも同じ信念であれば、僕の中で衝突したとき、どちらかが残るかは冷静になればわかるはずだろう。

自分を殺してでも相手を気遣うことが僕に出来るのだろうか。僕の信念は個別のものだ。それゆえ相手の信念も個別のものだと信じ対応しているところがある。でも信念が個別だけだとすれば、「ほんとう」ということ自体無意味となる。仮に相手が「ほんとう」の何かを持って、僕に対応しているのであれば、そしてその「ほんとう」を崩したくないとするのであれば、僕はただ自分の信念を含め自省しなくてはならない。確信をもった信念も一瞬に崩れ去るときがある。僕はもしかすると、そういう崩れを体験しなくてはならない状況に来ているのかもしれない。そんなことをだらだらと考えてみる。

2005/07/14

書籍「八月十五日の神話」感想でなく雑感

「八月十五日の神話」(ちくま新書 佐藤卓己著)はメディア論を中心にし、八月十五日が「終戦記念日」として日本人に受け入れられてきた理由を実証的に解明している。佐藤氏は学究者としての立ち位置を崩すことなく、あくまで実証的な態度で書いている。少なくとも僕にとっては良書だと思う。この問題を扱った他の書籍を読んでいないので較べることができないが、この書籍を出すのに日本は戦後60年の時間を必要としたのではないかという思いを持つ。

実証的な態度で書かれていると僕は言ったが、佐藤氏の背景に「敗戦後論」(加藤典洋著)の影響があるように思える。それは本書中に「八月十五日の神話」が重要な箇所で引用され、その考えが了解されているから感じるのであるが、だとすれば研究する佐藤氏の意識の中に加藤氏のいうところの「ねじれ」があったとしても不思議でない。多くの批判と論争を呼んだ「敗戦後論」について、僕としては加藤氏の意見に全てではないが納得することが多かった。だからこそ僕が佐藤氏のこの書籍に違和感を覚える事が少なかったのかもしれない。

八月十五日が終戦記念日となった理由の一つとして佐藤氏は以下のように書いている。
『進歩派の「八・十五革命」は保守派の「八・十五神話」と背中合わせにもたれあう心地よい終戦史観を生み出した。』
(「八月十五日の神話」 佐藤卓己著 P256から引用)
進歩派の革命とは丸山真男の「八月十五日革命論」のことであり、保守派の方は九月二日の敗戦を象徴する降伏文書調印を忘れ、敗戦を終戦に変える意味である。さらに佐藤氏は、「八・十五革命」は戦前から戦後への連続性を見えなくする効果があるとも言っている。具体的には、敗戦によって破綻したメディア企業はほとんどなく続いているのである。この点が佐藤氏がさらに追求したい核みたいなものだと僕は思う。ただ、この書籍ではこれ以上は続かない。

「八月十五日の神話」の感想とは、具体的な本書の内容を書き表すことではないと僕は思っている。何故僕が今この本を読むのかという問いかけ、それは時代の雰囲気が僕に要請しているかだとは思うが、その問いかけに対して僕がどのように答えるかだと思うのだ。そして読んだ後に何が自分に残ったのかという事。その二つの質問に答えることが、この書籍の感想に値するのではないかと思う。でもそれにはしばらくの時間が必要なのは間違いない。

歴史は政治でもある。以下に本書に現れた主な日にちを記した。どの日を選択するかは、その人の考え方によって変わることだろう。佐藤氏は、沖縄の「慰霊の日」と「平和の日」から以下のように言っている。
『お盆の「八月十五日の心理」を尊重しつつ、それと同時に夏休み明けの教室で「九月二日の論理」を学ぶべきだろう』(同書 P258から引用)

1945年6月23日 沖縄 守備軍組織的戦闘終結「沖縄慰霊の日」
7月2日  沖縄戦米国側終結宣言
8月6日  広島原爆
8月9日  長崎原爆
8月14日 ポツダム宣言受諾
8月15日 玉音放送 1963年閣議で実質「終戦記念日」と法的に定める。
8月16日 日本軍への戦闘停止命令
9月2日  ミズーリ艦上での降伏調印 米国等の対日戦勝記念日
9月3日  旧ソビエト北方諸島ほぼ占領 ロシア・中国の対日戦勝記念日
9月5日  旧ソビエト歯舞群島占領完了
9月7日  沖縄 残存日本軍降伏調印 「沖縄 市民平和の日」
1951年9月8日  サンフランシスコ講和条約調印
1952年4月28日 サンフランシスコ講和条約発効 日本占領終了
1972年5月15日 米軍沖縄占領終了

ちなみに僕は、8月15日のラジオ放送において、玉音放送(4分37秒)の他に放送委員の解説と再朗読、さらに内閣の国民に対する告論、ポツダム宣言受諾までの経緯と各文書の内容などを放送し、総放送時間は37分30秒に及ぶ時間であったことを知らなかった。終戦詔書の漢文混じりの難解な文体を、即時理解できる能力があったのかと単純に思っていただけだった。その意味では僕は全くこの件に関して無知であったと思う。