2012/03/31

「労働」と「仕事」

休日出勤をした。工事立会いだったので一旦問題があり連絡がくれば早々に現場に行ける距離に居続ける必要があったが、たまたま会社の近くだったのでいつもの机に座り仕事をする。待機のような状態でも机に座れば仕事はきりがないほどある。でも、と思う。この山ほどの仕事は成果から見ると僕でなくても良い。会社での仕事は概していうと成果物からの視点で見れば一様である。成果に至る過程は個人の持っているものに委ねられるが結果として
の成果は変わり映えはしない。それに僕がいなくても誰でもできる。それが重要であればあるほどバックアップは用意されているし用意されるべきでもある。

その人しかできない仕事、その人がいなければ成り立たない仕事を考えてみる。無医村に赴任したたった一人の医者の医療、技能が卓越した職人が造りだすもの、芸術家の造りだすアート、そのように考えていくと「労働」と「仕事」の違いが明確になっていく。あくまでも僕にとってだが。「労働」を軽んじているわけでは決してない。成果が一様な会社の仕事=労働は暮らしてゆくために必要なことだし、実際に僕も含めて極めて多くの人たちは生
きるために労働する。

問題なのは「労働」と「仕事」のヒエラルキーを明示することではなく(そんなものはない)、そうではなくて現代において「仕事」の領分が「労働」に取って代わられていることにあると僕は思う。大量生産そして消費されるミュージシャン・俳優・芸人もしくはアイドルたち、彼ら彼女らの一部は自分たちのことをアーティストと自称している。クリエイティブもしくはデザイナーは広い意味でつかわれることはなく、単に職業の一つの名称になっている。(考えてみれば全てカタカナで呼ばれる人たちだ)彼らの共通点を一つあげるとすれば、彼らが生産する成果物は会社での成果物と同様に寿命が短いという事だ。

これは一体何を意味するのだろう。

2012/03/29

冬になると黒とかグレー系が多くなる。最近特に冬は黒を着ている人が多い。昨年コートを買いに行ったときに、店員から最初になくなる色が黒だと言われ勧められた。初めから黒を買うつもりがなかったので「黒はいいです」と言ったら、「黒は若い人が着ているから抵抗がありますよね」等ととんちんかんな答えが返ってきて思わず苦笑いをした。いつから黒が若い人の色になったのだろう。でもそういう眼で見てみると確かに若い人の多くは黒を着ている。僕の時代はネイビーだった。ネイビーが男性の洋装の基本色だった。まずはそこからズボンだとかの他の洋服を合わせていった。黒だと他の色を合わせる楽しみはおそらく半減するのではなかろうかと余計な心配をする。また黒は色ではないと僕は教わった。モノトーンでの色あわせはシックになる。でも色を楽しむという感覚は薄いように思える。それに僕自身モノトーンの群衆に見飽きてしまったのある。4月になればもっと多くの色が溢れてることだろう。そう期待しながら春を待ちわびている、と思っていたら来週は既に4月。多くの色の世界がまずは人間界ではなく自然界から溢れ出す。

空気感

会社の同僚が長い休暇から戻ってきた。タイに行ってきたのだという。タイに行ったことがない僕は思わず聞く「タイの空気感はどんなのですか」。実を言えばこの質問に期待通りの回答を得られたことは殆どない。大概の回答は、一瞬僕の問いに戸惑いながらも乾燥しているとか湿気が多いとか温度が高い低いとかそんな感じとなる。聞き方が悪いのだと思うが、聞きたいことに適切な日本語が見つからない。その中でも「空気感」という造語に近いこの言葉が一番適当なのである。案の定同僚も「乾燥している」との答えが返ってきた。

なんだろう現代において異国に行く意味とは。その土地に住む人々との交流、確かにそうだ。視覚情報はネットを検索すればいくらでも手に入る。だから視覚からのみ得られる情報でないことは確かだろう。その場所に行かなければわからないこと、全身に感じる空気の流れ、匂い、光(視覚から得られる光ではなく触感で感じる光のことだ)、街のざわめき、などなど。それらの全ての情報を通して感じる何か。僕にとって空気感とはそういう事を言うのである。

誰でも異国に行けば全身の感覚は通常よりも鋭くなる。だから同僚もその空気感を得ているはずである。問題なのはその空気感を得ることは長くは続かないと言うことだ。人間はすぐに異国の空気感になじむ。異国と行っても同じ人間の術の世界でもある。なじまないわけがない。そしてなじんだ後、視覚が再び越権的な強さを取り戻すのである。後はもう惰性なのかも知れない。どこかのパンフレットに載っている景色を確認するだけの。

旅の目的

大事なのは触覚を研ぎ澄ますことだ。嗅覚と聴覚を磨き、結果的に8割以上と言われる視覚からの情報を出来るだけ少なくすること。

2012/03/28

久しぶりに

久しぶりに友達と会うことになりそうだ。その友達とは数年あっていない。昨年から再開したメールのやりとりで久しぶりに会いたいと書いたら春になったら会っても良いと返事が来た。でも最近は体調がよくないらしい。彼女は乳癌で腫瘍があった乳房を全摘出手術をしている。手術後は放射線治療だとか投薬だとかで、その治療の都度具合が悪くなる日々が続いているらしい。ただ幸いなことに半年ごとの検査では再発はないとのことだった。

彼女と最後にあったのは全摘出手術をすることが決まった時だった。実を言えば、その時に僕は彼女の全摘出する乳房を触った。おそらく彼女自身以外では最後にその乳房を触った最後の人かも知れない。柔らかくとても素敵な感触の乳房だった。この乳房に腫瘍があるとは僕にはとても思えなかった。誤解をする方もいるかもしれないので言えば、僕らは最初から最後まで友人関係だった。会えばお互いの出来事を話し合った。だから僕は彼女の生活のこととか、特にご主人のこととか、子供たちのこととか、彼女が好きだった人のこととか、その人との別れのこととか、多くの彼女の身に起きたことを自分のことのように知っている。また出会えば同じようにお茶でも飲みながら話をすることになるのだろう。

何故か理由は知らないが、ある意味僕は彼女に選ばれたのだと思う。彼女自身の存在の証として。誰かが言っていたが、人の出会いは一期一会なのだそうだ。その本当の意味をその人が知っているかはわからない。でもある程度の年齢を重ねれば、また彼女と僕のような状況になれば、その言葉は単なる言葉だけではなく実感が伴って感じると言うよりはまさしくそのままの情況として在るように思うのだ。