2006/03/18

武田徹氏新聞記事「「死に顔」撮影は許されるか」を読んでの感想

3月16日付け産経新聞に掲載されていた武田徹氏「「死に顔」撮影は許されるか」を興味を持って読んだ。以下は紹介と僕の感想である。
記事の発端は、故人との最後の別れをするために棺を開けたとき、携帯電話で死に顔を撮影する人が現れ、参列者の顰蹙(ひんしゅく)をかっているということである。元々の発端記事は2月中旬の毎日新聞だったらしいが僕はそれを読んではいない。武田徹氏はご自身もその事に嫌悪感を覚えると前置きして次のように語る。
「しかし一方で、それが過去の経験の蓄積で形成された生理的感覚でしかないとも理解している。死に顔をケータイで撮影してはなぜいけないのか。普遍的な理由付けは困難だ。死者への冒涜だとか言われるだろうが、死者を悼み、送る方法に絶対的なルールはない。死に顔を撮影して所有することが死者を悼む上で必要だと本人が切実に思っているのだとしたら、そこに第三者が立ち入ることはできない。」
さらに武田徹氏は考えておくべきこととして、「自分の外観は誰のものか」と問いかける。そして「顔は本人を他者から識別できる情報なので個人情報に含まれる」と結論づける。その上でこの問題について妥当な考えを述べる。
「個人情報の扱いについては本人の自己決定に委ねるのが原則。そうである以上、もしも「死に顔を人に見せないように」との遺言があれば棺は開けるべきではない。遺言がなくても、故人を愛していた人達が死に顔の扱いについては決定して良いだろう。」
僕にとっては携帯の新たな話題はここで終わる。ただ武田徹氏にとっては、「顔は個人情報」からジャーナリストとしての立場よりさらに話は続く。つまりは、個人情報として本人の自己決定に委ねられるとしても、「社会に広く問題を伝え、その出来事の意味を歴史に記録するために報道されるべき個人情報がある事情」により、様々な出来事の当事者の顔写真は理解されてもよいと語る。そして、どこでも土足で踏み込んでも良いわけではないと前置きして、「ケース・バイ・メースで対応を使い分ける臨機応変の「柔らかな」論理がその対応には必要なのだ」と繋げている。

そして「死に顔」を撮影する人が、それらの基準もしくは深く死者を悼む気持ちからではなく、単に興味本位で撮影し記録情報として扱われ、携帯メールさらにネットに晒されることに懸念を表明し、故に嫌悪感を覚えると結ぶ。それらの一連の武田徹氏の意見は個人情報保護と繋がっている。この話題はそこまで射程距離を持ち話をするべきとする武田徹氏の意見は聞くに値すると僕は思う。

ただ僕にとってこの話題は、「故人を愛していた人達が死に顔の扱いについては決定」で終わる話ではないかとも思える。個人情報保護法の個人情報の定義は明確ではないが、死者の個人情報がその遺族の生存者の個人情報として保護されることは認めている。勿論、法律云々の問題ではないと考えられる方も多いことだと思う。でも武田徹氏の言われるとおり「普遍的な理由付けは困難」なのである。

武田徹氏がこの話題を個人情報保護に結びつけることは、自らジャーナリストとしての立場によるところが大きいと思う。本記事を読めば、武田徹氏の中では、ケータイでの「死に顔」撮影はジャーナリストの「生き顔」撮影に、どこかで繋がっている様に思えてくる。そしてそれらの線引きは、武田徹氏にとれば、公共の利益と歴史への記録に値するものとなり、判断は「臨機応変の「柔らかな」論理」となる。でもそれらは誰が判断するのであろうか。掲載する時点での判断はジャーナリストに委ねられる、そう武田氏は言っているかのようである。それが現実であり概ねは問題ないとしても、医者とは違い、ジャーナリストは自らが宣言するだけで成り得る属性でもある。武田徹氏の様なジャーナリストだけであればよいが、そうとばかりは言えないようにも思える。それについてさらに具体的な話があれば良かったとも思う。

武田徹氏がケータイの「死に顔」撮影に嫌悪感を覚えたのは、「過去の経験の蓄積で形成された生理的感覚」であるのは間違いないと思うが、それは武田氏個人だけで形成されるものでもない。親類家族から、周りの人から、受け継がれてきたものである。それは民族としての文化である、と僕は思う。

また「死者に対するタブー」、死者に触れるタブー、死者の名前を呼ぶタブー、等の様々なタブーを保ち続けている民族も多い。日本にも同様なタブーは現在でも通用するところは多いと思う。(例えば戒名とか、死に装束、死者を不浄とする感覚)

また愛するもの達の「死」は生者達の多くに自責の念をもたらせる。「ああすればよかった」「あの時こうしていなければ」「何故あそこでとめなかったのだろう」など、生者の自責の念は、死者との関係が深ければ深いほど強い場合が多い。フロイトは「トーテムとタブー」で自責の念は「死を願う気持ち」にあると語った。フロイトの説を全面的に受け入れるつもりはない。愛する者の死を受け入れない気持ちが、自分の行動可能性に対し自責の念を生じさせる場合もあると思うからである。

「死者に対するタブー」は逆に、「死者」に対する欲望の裏返しかもしれない。タブーとすることは、タブーとしなければならない事由がそこにはあると思うのである。つまりは、自らが経験することなく、ただそこに在る「死」というものへの不安と畏れが興味の対象となり得るとも思うのである。ケータイでの「死に顔」撮影は、その押さえきれない興味の結果なのではないだろうか。

ただケータイでの「死に顔」撮影行為は、葬祭に集う人達の中で、撮影するという行為が「死者」に触れるというタブー、つまりは不浄である感覚を呼び起こすこと、および死者を悼む心と自責の念にかられる親族の気持ちに追い打ちをかける仕打ち、の二重の意味で嫌悪感を抱かせる行為のように思えるのである。そしてその嫌悪感は、文化を汚す行為とも受け取られるように思う。

押さえきれない興味の発露としての撮影であれば、撮影者は文化的背景を単に知らなかったのかもしれない。それであればその事を教えてあげれば済む話である。そして知った後に、その文化を受け入れるか、もしくはその文化に疑問を持つかは個人の自由でもある。ただ疑問を持つ場合は、現行の個人情報保護法により遺族が撮影の判断を持つと伝えればよい。さらに武田徹氏の言われるように、その事で撮影者を差別すべきではない。自分と考えが違う、文化が違うと思えばよいと思う。

撮影者は自分と異なる文化集団(つまりは「死に顔」撮影に嫌悪感を抱く集団、日本では主流だと思う)の儀式に参加する場合、相手が不快に思う行為は慎むべきでもある。そしてその中にいて疑問を露わにすることは、相手に対する侮辱であると知るべきでもある。それは自分の自由を守ることでもあり、それ以上に公平な態度だと僕は思う。

僕はこういった話題は普遍性からの歩みでは、武田徹氏の言うとおりに明確な理由付けは困難で終わることが多いように思う。これらの話題は文化・慣習など、さらには身体もしくは性に根ざすことが多い。それらは歴史性が暴かれ、もしくは相対化された事柄もあるが、多くは僕らの現実社会の中で暮らしに密接に繋がっているのだと思う。故に普遍性を求めるのではなく、文化を尊重する精神を求めることが大事なのではないかと愚考するのである。

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