小松左京がSF小説「日本沈没」を書いたのは今から30年以上も昔の話である。小松左京は見事に僅かな科学的可能性を基に日本を沈没させた。でもそれ以前に日本では多くの識者による「日本問題」の洪水に見舞われている。
それぞれの識者達の「日本」はその後どうなったのであろうか。危機感を募らせる書籍の標題は商業的でしかなかったのであろうか。図書館でこれらの書籍の背表紙を見るだけで、そういう思いにとらわれる。
小松左京が描きたかったのは、「日本沈没」のその後であったと、後のインタビューで彼自身が語っていたのを覚えている。つまりはこの小説は序章でしかない。ただ残念なことに「日本沈没」第二章は書かれることがなかった。そして、それぞれの「日本問題」でも、同様に、その後の「日本」を書いている書籍は少ない。
そして今年7月に「日本沈没」が新たな映画として放映される。その時点で多くの方が何を語るのか想像するのは容易い。それぞれの「日本問題」は欲望のままに語られ、さらに商業的に消費されることで、逆に問題としてのリアリティがなくなっていくことだろう。
でもそれを懸念することもない。今までがそうだったように、「日本」は消費尽くされることなく、僕等に課題を投げ続けているからだ。それぞれの「日本問題」とは、それぞれの生の欲望への不全感が元にあると僕は思う。
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