見知った人に好きな季節はと尋ねると、季節は春、桜の咲くころ、と答える方が多いように思う。
それぞれの季節にはそれぞれの趣があると思うが、やはり僕もこの季節が一番好きである。
でも桜の季節が好きという気持ちは、例えば自分の趣向に合ったものを思い浮かべる気持ち等とは何か異なるようにも思える。生活する中で、この季節になると自分の奥のほうから、少しずつざわつき始めてくるのを感じるのであるが、そのざわつき感は趣味のものを目の前にする感覚とも違う。
このざわつき感は一体どこから来るのだろう。満開に咲く桜の樹の下で、外面は落ち着き払ってベンチに佇むとは裏腹に、僕は一向に集中できない。
「馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。」この一文は、桜を比喩としたあるイメージだけの産物ではない、と僕は思うのである。おそらく梶井基次郎の発想の根底には、僕と同じざわつき感があるように思える。そしてそのざわつき感が沸き立つ理由を梶井基次郎は桜の樹の下の屍体に結びつけたのだと思う。
(梶井基次郎「桜の樹の下には」から引用)
勿論この感覚は僕だけのものではないはずである。でも桜が淡い桃色の花弁を、誰に見とがれることもなく、それこそ一斉に咲き乱れる姿は、僕の思考を混乱させ麻痺させるに十分である。このざわつき感をしばらく考えてみたいと思う。
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