2006/03/02

深夜の討論番組に反応して思うこと

最近テレビの話題を会社の同僚としなくなった。朝から夜半まで仕事をしているわけだからテレビを見る時間などどこにもない。それはわかる。でもそれでも以前はその範囲でテレビの話をしていたようにも思う。聞くとテレビは殆ど見ないという。ああ、それは僕も同じだと答えながら、「殆ど見ない」の内容が少し気になった。

僕を例にあげれば、週に5時間くらいである。これは多いのか少ないのかそれとも平均なのかがわからない。きっと平均などというのはないのかも知れぬ。つまりは自分の過去から現在までの推移の中で、徐々に見なくなっていった、その感触で 「見ている」とか「見ていない」などと言うのであろう。僕の場合、週5時間でも見ているのは事実なので、やはりテレビは見ていると言った方が正解なのかもしれない。などと愚にもつかぬ事を考える。

つい最近眠れぬと深夜にテレビをつけたら討論番組をやっていた。田原総一郎氏が司会の番組で、何を討論していたのかはすっかり記憶から抜けている。でもその番組の参加者で政治家の菅直人氏がテレビの権力性について語り、それは誤解だと田原氏とテレビ関係と思われる人が反論していた。

これは面白そうだと少し見たが、双方ともテレビに権力が「ある」「ない」のやり取りに終始して埒がない。反論側は、テレビ制作は視聴者が望むものを造ると言っていたが、おそらくそれが制作者側の実感でもあるのだろう。その意見に対し、視聴者とはいったい誰を指すのか、気になるのは視聴率ではないのか、などの使い古された物言いをするつもりも僕にはない。テレビだけでは、討論会で制作者側が言うとおりに権力など持たないと思うからだ。実態不明の視聴者と組んでひとつの番組を造り、そしてそれが管直人氏のいう所の権力となるのだと思うのである。

実態不明の視聴者と言ったが、実際はこの討論番組で言えば、少なくとも実態不明ではなく、そこに僕が視聴者の一人としているのは間違いない。何故討論番組を制作するのだろう。それはテレビというマスメディアの意見を代弁する仕組みであり、全ては制作者側の意図によってバイアスされる。

その中で参加者が語る意見の責任は制作者側ではなく、語った参加者の責任になる。勿論、テレビというメディアの中では画面に多く登場する者が番組の中で主体となるのだから、時間制限の中で、参加者は自ずから発言が過激になる。過激な意見は当然に口を挟む点が多くなり、それが討論の場を盛り上げる。

そしてそれは制作者側が望むところでもある。 そして視聴者である僕は、口を挟む点を目の前に差し出されることから、自ら進んで番組に参加して行くのである。僕がテレビの前にして、口に出さずとも、思いの中で番組参加者の討論にそれぞれ意見を言う、その意見は反論なき絶対的な意見でもある。

その僕の意見は誰に向けて差し出されるのだろう。少なくとも日々にささやかに降り積もる不全感を解消する、一種のカルタシスを得られる効果がそこにはあるように思える。つまりは自分の中の問題を別の形で解消するために、深夜の討論番組は消費されるのかもしれない。そしてめでたく視聴者である僕の中で番組は完成するのである。

僕は確かに深夜放送の討論番組に、テレビ局の場にいなくても参加していた。そうしてこのブログでその事を書いている。それは一言で言えば、討論番組が造り上げた物語への参加でもある。仮にその討論番組で失策があったとき、様々な伝達手段で批判が沸き上がることだろう。でもそれは見方を変えれば、制作者側が意図した物語に参加できない事への不満でもあり、批判することでまた別の新たな物語を造ることでもある。そうした場合、制作者側は視聴者のヘゲモニーを意識すると同時に、番組が視聴者と共に造っていると実感するように思える。つまりはテレビ制作者への批判は、どういうものであれ、テレビの中心性を強化することに繋がる、と僕は思う。

最近、日経ビジネスEXPRESSのサイトで大橋巨泉氏は次のように語っていた。
ビル・ゲイツもブッシュ家も、ニュースやスポーツ中継以外、テレビなんか見てませんよ。(日本も)勝ち組とか金持ちとかインテリがテレビを見なくなっただけなんですよ。負け組、貧乏人、それから程度の低い人が見ているんです。
(中略)テレビは今に「貧困層の王様」になるはずです。 
(大橋巨泉「金持ち、勝ち組、インテリはテレビなんか見なくなった」から引用)
米国は僕にとっての基準ではないので、別に大橋巨泉氏の言葉に反応するつもりもない。
一つだけ巨泉氏と僕との間で違う感覚があるとすれば、勝ち組とかそういう陳腐な物言いではなく、巨泉氏はニュースやスポーツ中継を他の番組と切り分けている点である。

僕の感覚では、テレビで放映する番組はニュース・スポーツ中継に分け隔てすることなく、番組制作の手順に則って流れていると思うし、内容に関しても制作者側の思惑の中で制作しているのではないかと思っている。つまり僕にとって、ニュースとスポーツ中継を分け隔てすることは出来ないのである。

さらに僕にとっては、巨泉氏が活躍された11PMの系譜は姿を変えて各放送局のニュース番組に受け継がれている、とも思っている。あれらのニュース番組はバラエティ番組ではないのだろうか。 僕にとっての問いは、ニュースやスポーツ中継を、その他のテレビ番組から切り分け、結果的にテレビを見ていないという感覚がどのようにしてできあがったのかと言うことである。

確かに1日24時間という人間の活動時間の取り合いをしている諸々のサービスが多くなった現在、テレビに割り当てる時間は以前より少なくなったのは事実だと思うが、それ以上に僕らの生活の中に浸透している事が、テレビを見ているのに見ていないと言う感覚を育てているように思える。また別の見方をすれば、テレビという存在は従来の電気製品としての受信装置だけでなく、ネット上においても存在している。僕にとってはその 「見ているのに見ていないという感覚」が怖いと思うのである。

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