僕はおそらく人の代わりに木を撮している。だから僕が撮した木々の写真には人の姿を感じられるものが多いことだろう。この写真は枝の伐採の行為と切り取られた後が瞳に見える二重の意味で人を感じることが出来た。
写真を「撮る」と言うことは、「取る」に繋がるように思う。何から何に取るのか。それはまずは被写体の物語を自分の物語にずらすことから始まる。写真に撮られた姿は、被写体本来の物語を語りはしない。そう見えるかもしれないが、それはあくまで僕の世界に組み込まれた物語なのだ。被写体は抵抗も対話もなく突然に自分の主体をはぎ取られる。そう取ったのは、被写体の主体なのだと僕は思う。
写真を「撮る」と言うことは、「取る」に繋がるように思う。何から何に取るのか。それはまずは被写体の物語を自分の物語にずらすことから始まる。写真に撮られた姿は、被写体本来の物語を語りはしない。そう見えるかもしれないが、それはあくまで僕の世界に組み込まれた物語なのだ。被写体は抵抗も対話もなく突然に自分の主体をはぎ取られる。そう取ったのは、被写体の主体なのだと僕は思う。
だからこそ僕は人にカメラを向けることが出来ない。木々であれば、花であれば、猫などの動物であれば、山などの風景であれば、人とは交渉すべき術を持たないが故に、僕は彼らの世界に侵攻することが出来るのである。
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