2006/02/24

二枚の夫婦岩の写真(二枚目)


meoto-iwaOriginally uploaded by Amehare.

干潮時に夫婦岩が陸続きになることを初めて知った。風もなく波もない海を背景にして、前回の夫婦岩との風景の落差に一瞬違うのではないかと錯覚した。でもそれは満潮時を想像するまでもなく確かに夫婦岩である。

根元が露わになった姿は頼りげなく、僅かな力で崩れ落ちそうな印象をもたらせる。この印象は前回のそれを対象として想起させ、僕にとって「夫婦岩」の存在の意味を新たに考えさせる。

全国には幾つもの「夫婦岩」がある。それらの共通項は、大きい岩が「男岩」であるということ。そして双方の岩はしめ縄で繋がれ鳥居だということである。勿論それら全国の「夫婦岩」は伊勢二見の夫婦岩を模したものであろう。でも幾つもの「夫婦岩」に抱く人々の願いは模したものではない、と僕は思う。

岩の大小にこだわるのが僕の中の近代教育の賜物であれば、それらは何の役にも立たない。それよりも僕の問いは、なぜ僕の中では物事に対して純粋性を求めるかということである。
例えば、夫婦岩に対する歴史的誕生の意味は現在のそれとはまったく違うと僕は感じる。おそらく単なる普通の岩が夫婦岩として造られたとき、その動機の中に潜む宗教性・政治性・社会問題を正確に解明することは不可能だと僕は思うが、現在のそれとはまったく違うとは容易に想像できる。ただ人は利用し続け現在に至ったのかもしれない。つまり現前する夫婦岩は様々な人の思いの中で交わり雑種化した存在なのだと思う。でもあたかも「夫婦岩」の発生当初の純粋性が損なわれていないかのように、僕は見たいと願うのである。

雑種性は純粋性に論理的に先行する。僕はその意味を深く理解しなければならぬ。

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