以前の記事「木を撮ると言うこと」で僕は写真を撮るという行為の侵略性について少し感情を交え語ったが、その続きを書きたいと思う。
僕にとっては「人を撮れない」事が僕自身の主体を構築しているのも事実である。だからその主体は「人を撮る」という行為自体が観念として在ることにより存在できているのである。しかしその主体は定立するのでなく、「人を撮る」という欲望と「撮らない」という欲望の間を、カメラを構えるときに激しく振動しているのである。つまりは侵略性について語る僕は、「人を撮る」人たちと同根であるのも間違いない。だから、前回の記事は「人を撮る」事が出来る人たちへの批判では決してない。
もっと気楽に写真を撮れば良いではないかとの助言を与えたくなる人もいるかもしれない。その時僕は逆に聞きたいことがある。人を撮る時、躊躇なく撮れますかと、一瞬でもためらいはありませんかと、聞きたくなるのである。
仮にためらいなく撮れる場合、対象が家族・恋人・友人などではないとき、それは一種の盗撮行為に限りなく近いのではないかと思うのである。
ためらいがあるとき、そのためらいの元は何かと僕は続けて聞くことになる。そのためらいこそが、僕が言いたいことなのである。何故ためらいが出てくるのだろうか。何故人以外はためらいがないのであろうか。
もっと気楽に写真を撮れば良いではないかとの助言を与えたくなる人もいるかもしれない。その時僕は逆に聞きたいことがある。人を撮る時、躊躇なく撮れますかと、一瞬でもためらいはありませんかと、聞きたくなるのである。
仮にためらいなく撮れる場合、対象が家族・恋人・友人などではないとき、それは一種の盗撮行為に限りなく近いのではないかと思うのである。
ためらいがあるとき、そのためらいの元は何かと僕は続けて聞くことになる。そのためらいこそが、僕が言いたいことなのである。何故ためらいが出てくるのだろうか。何故人以外はためらいがないのであろうか。
でも僕は人を撮る構えの時以外はお気楽モードで遊んでいる。写真を撮るのは楽しいと思っている。
0 件のコメント:
コメントを投稿