2006/03/30
桜の季節 桜の本質とは
佐藤俊樹氏の「桜が創った「日本」」では、「桜の美しさの理想(イデア)として、もともと存在していたのである。」とある。
しかしこの文章は誤解を生みやすい。何故なら「桜」のイデアがあるとして、それは外部に存在するものでもなく、ましてや日本民族だけが追い求めたわけでもない、と思うのである。
勿論個別事項として「桜」に特化してイデアを考えれば、日本のアイデンティティ及び日本の風土に結びつき、僕らが記憶する「桜」はナショナリズムの近代歴史観の中で大きく咲かすことも可能であろう。それに「桜」の美しさを求め、園芸品種として新たな「桜」を造り続けてきたのも事実であろう。でも地域ごとに自生する植物があり、その地域に生活する人間がそれを愛でたとしても自然なことであると思う。つまりは「桜」という個別事項ではなく、人間が他の生物を愛玩する本質にこそ、「桜」を愛でる本質があると僕は思うのである。そしてこの本質は人間のエロス性に深く結びついていると僕は思う。
「桜」の美しさの理想(イデア)は「もともと存在していた」とは、近代日本の文脈の中で過去の詩歌の中から発見したに過ぎない。
もしくは「書き言葉」の中から造りだされた「吉野」のイメージが増幅され、それがたまたまソメイヨシノの特性に多く合致したのだと思う。
イメージが増幅された「桜」の美しさは観念化していくことになる。それはソメイヨシノ登場後に、実体として逆に集束されていくことになるが、もともと観念化した「桜」の側面を持っていたがゆえに、今でも妖しげな姿を僕らに見せているのだと思うのである。
佐藤俊樹氏はソメイヨシノが日本各地に植えられた理由として、成長が早いこと、目新しいこと、価格も安く丈夫、をまずあげられている。
まず「公園」の景観を考慮して植えられたとする視点は、ソメイヨシノの全国展開に日本の同一性という乏しい想像力しか持っていなかった僕に別の姿を与えてくれた。この書籍については 「桜の季節」の記事シリーズの中で別途感想文を書きたいと思っている。でも今はまだそこまで辿り着いていない。僕は自分の「ざわつき感」 の正体を見極めていないのである。
2006/03/28
桜の季節 ソメイヨシノのことなど
「桜の季節」と題したこのブログ記事の「桜」とは、ソメイヨシノのことに他ならない。僕自身が生まれたときから「桜」とはソメイヨシノであった。僕の「桜」のイメージはソメイヨシノによって形成されたものであって、逆に言えばソメイヨシノの特徴をあげることで「桜」のイメージが具体的に示されることになると思う。
ここでソメイヨシノについて、一般に知られていることを整理することは今後の展開にとって大事なことだろう。勿論、整理といってもそれが正しいかどうかは僕にはわからない。特に歴史的なことについての言及はここでは一切行わない。
概ねはWikipedia「ソメイヨシノ」を参照、または引用した。
- 江戸末期から明治初期に、江戸/東京の染井村の植木屋が「吉野桜」として売り出した。
- 1900年(明治33年)「日本園芸雑誌」において「染井吉野」と命名。
- エドヒガンとオオシマザクラの交雑種。
- 花弁は5枚一重で、葉が出る前に花が開き、満開となる。
- 満開時には花だけが密生して樹体全体を覆う。
- 花色は、咲きはじめは淡紅色だが、満開になると白色に近づく。
- 花見の期間は概ね10日間
- 接ぎ木や挿し木で増やすクローン植物。
- クローン植物として全て同じ木であるがゆえに、一斉に開花し、一斉に散る。
- 成長が早い(見栄えまで10年)が、寿命も短い(60年説がある)。
(但し弘前市には樹齢100年を超えるソメイヨシノも現存する)
- 単品種集中で植えらている場合が多い。いわゆる群桜状態。
- サクラ前線の対象桜(一部地域を除く)。
- 東京での開花宣言は靖国神社にある基準木3本のうち2本の開花で宣言する。
- ソメイヨシノが最初「吉野桜」で売り出したのは宣伝効果のため。
- 現在の日本で植えられる桜の7割潤オ8割を占めるといわれている。
- 人間の管理を大きく必要とする。
- 他のサクラよりてんぐ巣病(てんぐすびょう)にかかりやすい。
しかしその関連以前にも桜はこの国に好まれていた。ソメイヨシノが新参の園芸品種だとしても、それは長年桜を好んできたこの国の人たちにとって、桜だと認めたからこそ、ここまで栽培されてきたのだと思うのである。
現代においてその関連性を導き出すことは、事実かもしれないが、極めて簡単であり、あまりにも単純かつ安易でもある。そして僕の 「ざわつき感」を考える際に不要のような気もしている。
「吉野桜が普及する前に、「吉野の桜」という名が日本語の世界で普及していた。そういう名の地層、想像力の地層の上に、「ざわつき感」の要因の一つと言えるかもしれないのは、ソメイヨシノの花見期間の短さである。佐藤俊樹氏はその著書の中で、加えて群桜の結果、鑑賞する場所が狭いのもあげていた。つまり一度に大勢の人が狭い場所に集まる。短期間だからこそ、そこで催される風景は一種狂乱じみてくるのである。
ソメイヨシノは根付き、広まっていったのである。」
「ソメイヨシノが広まることによって、ソメイヨシノの咲き方に特にあう言説が選択的に記憶され「昔からこうだった」
と想像されるようになる。いわば想像が現実をなぞっているわけだが、義政や芭蕉や東湖の句はもう一つ重要な事実を教えてくれる。
ソメイヨシノの出現以前に、ソメイヨシノが実現したような桜の景色を何人もが詠っていたのだ。この桜が現実にした光景は、
想像上ではすでに存在していた。桜の美しさの理想(イデア)として、もともと存在していたのである。」
(佐藤俊樹 「桜が創った「日本」」から引用)
その文章を読み、僕の中に単純に浮かんだものは「祭り」であった。もしかすれば僕の「ざわつき感」は、「祭り」が同じ場にいる人に与える感覚に似ているのかもしれない。まずはそんな事を思ってみた。
2006/03/27
桜の季節
見知った人に好きな季節はと尋ねると、季節は春、桜の咲くころ、と答える方が多いように思う。
それぞれの季節にはそれぞれの趣があると思うが、やはり僕もこの季節が一番好きである。
でも桜の季節が好きという気持ちは、例えば自分の趣向に合ったものを思い浮かべる気持ち等とは何か異なるようにも思える。生活する中で、この季節になると自分の奥のほうから、少しずつざわつき始めてくるのを感じるのであるが、そのざわつき感は趣味のものを目の前にする感覚とも違う。
このざわつき感は一体どこから来るのだろう。満開に咲く桜の樹の下で、外面は落ち着き払ってベンチに佇むとは裏腹に、僕は一向に集中できない。
「馬のような屍体、犬猫のような屍体、そして人間のような屍体、屍体はみな腐爛して蛆が湧き、堪らなく臭い。それでいて水晶のような液をたらたらとたらしている。桜の根は貪婪な蛸のように、それを抱きかかえ、いそぎんちゃくの食糸のような毛根を聚めて、その液体を吸っている。」この一文は、桜を比喩としたあるイメージだけの産物ではない、と僕は思うのである。おそらく梶井基次郎の発想の根底には、僕と同じざわつき感があるように思える。そしてそのざわつき感が沸き立つ理由を梶井基次郎は桜の樹の下の屍体に結びつけたのだと思う。
(梶井基次郎「桜の樹の下には」から引用)
勿論この感覚は僕だけのものではないはずである。でも桜が淡い桃色の花弁を、誰に見とがれることもなく、それこそ一斉に咲き乱れる姿は、僕の思考を混乱させ麻痺させるに十分である。このざわつき感をしばらく考えてみたいと思う。
2006/03/26
剥がされた文字の跡
元は幼稚園だった。かつてここでは子供達の歓声が住宅地の中で明るく聞こえていたことだろう。それが今では静かで、静けさが一つの音となって薄暗い光と影の狭間に吸い込まれている。何があったのかは知らない。でもこの文字が剥がれた跡はその「何か」があったことを雄弁に語っている。
文字は、言語は、壁に刻まれる。刻むのは年月、時間という塵の集積で計れる一つの概念。昼下がりの陽光を浴びて、それは浮かび上がる。
2006/03/23
ITmediaの記事「買収でボーダフォンはどうなる?」を読んで
ソフトバンクがボーダフォンを買収した出来事はある一部の人達にとっては悪夢とまではいかないが、出来れば嘘であって欲しいと思ったことだろう。一部の人達とは携帯同業他社の経営者達のことである。彼らが恐れたのはソフトバンクという会社ではない、孫正義という一人の男にである。
2004年の総務省管轄の周波数帯割り当て協議のことを覚えていられる方も多いことだと思う。新規参入を目指したソフトバンクは念願の800メガヘルツ帯を申請したが、結果から言えば総務省の認可が下りなかった。あの時孫正義氏が吐いた名言を忘れることが出来ない。
「切手代(郵政民営化)より携帯電話代が多くの国民にとっては重要だ」
ITmediaの記事「買収でボーダフォンはどうなる?」を読んだ。記事の中では「価格破壊」という言葉でADSL回線事業参入時の孫正義氏を語っているが、それは片手落ちというものだろう。価格を安くすると言うことが、何を意味するのかを記者は認識していない。今でも価格設定が営業施策上最重要項目の一つである以上、先行者より価格を安くすることは新規参入者にとっては必須のこととなる。それは他のADSL回線事業者も当然に理解していたし、多少はNTTに較べ安めには設定していた。でもYahooBB並には出来なかった。何故YahooBBでは出来たのかという視点に欠ける。
価格を破壊的に安くするということは、それに見合った業務フローを造ると言うことでもあり、それ以上に新しいビジネスモデルを開発すると言うことだと僕は思う。そして技術革新はADSLという技術ではなく、そのビジネスモデルにあったと思うのである。何故孫正義氏のビジネスモデルが当時の他の回線事業者にとって革新たり得たのか。それは他の事業者が自分のビジネスを設備産業と考えていたことに起因すると僕は思う。当時の、そして今でも、大手の通信事業者の経営者は元NTT出身者でもある。NTTは電電公社時代から官民一体となり通信事業を繰り広げてきた。通信設備を新たに建設もしくは増設するには膨大な費用と期間がかかる。よって事前の計画は重要で、多少の需要変化は無視し、概ねは事前の設備計画に沿って行われる。初期の携帯電話の月額使用料が高かったのは、設備費用の膨大さもあることながら、その設備計画によるところが大きい。つまり徐々に設備を増やしていく事情から、初めは高めに料金を設定し加入者を増やさないようにしているのである。無理に一言で現せば、設備産業を従事する者達にとって、設備計画が主であり、その利用者は従といえる。その考えを孫正義氏は覆したと僕は思っている。つまりは設備産業であること自体は変わらないが、それ以前にサービス産業であったという意識の芽生えと言っても良いかもしれない。
勿論ADSL事業については、他の事業者達がADSL技術は光ファイバーまでの過渡的な技術であるとの認識が、YahooBBへの対応が遅くなったとも認める。しかしそこにも、他の通信事業者達の技術偏向の姿勢が見受けられるのである。設備計画重視という姿も、ある意味では技術者主導のビジネスとも思うからである。
孫正義氏はADSL事業によって、他の回線事業から見れば、価格破壊以前に通信事業者の設備計画に対する常識を尽く破壊した。それに対する嫌悪感は彼らの中には根強い。それが2004年の周波数帯域割り当て協議におけるソフトバンクへの対応の大元にあると僕は思う。あの時、ソフトバンクの孫正義氏だけが周囲と較べ異質であった。そしてその異質な存在の参入時期を遅らせる、そういう心理が協議会と他携帯事業者の双方にあったように僕は思っている。
その孫正義氏がボーダフォンを買収した。いずれは携帯事業に参入すると見ていたが、実はこんなに早く参入するとは想像だにしていなかった。孫正義氏は記者の料金についての質問に「今は詳細についてコメントする段階ではない」と答えている。
ITmediaの記事では安い価格の提示を予測している。その根拠としてバックボーンネットワークの自社設備利用が可能であることを述べている。確かに現在の利用者数を鑑みると安い料金設定は必須だと思う。よって少しは料金改定は行われることだろう。でもその幅は価格破壊のレベルではなく、一般的な値下げレベルだと僕は思っている。理由はノンリコースローンはボーダフォンのキャッシュフローを担保にしていることが大きいが、資本の投資配分として設備拡張のほか今後の展開、例えばIP化、に向けての諸々の設備増強に向けると思うからである。
さらに番号ポータビリティ実施後の顧客囲い込みとして、料金値下げの方向は個人利用ベースではなくて、例えば家族割等の人との繋がりの中で料金を大幅に割り引くような事になっていくと思っている。つまりここで単独で料金値下げを行ったとしても、特定のグループでの割引もしくは長期割引競争の陰に隠れてしまう結果になる。
確かにYahoo等のソフトバンクが所有するコンテンツの力は大きいし、それらを効率よく利用することでボーダフォンに良い影響力を与えることになると思う。ただ現状のシェア及び売り上げに貢献する決定的な力になるとも思えないのである。そのくらいボーダフォンと他社とは、ネットワーク・技術・営業・端末・サービスの面で遅れていると思うのである。さらに、ソフトバンクがコンテンツに関して他社より有利だとしても、それらは追従が可能でもある。遅れた分がコンテンツの有利さで相殺するとも思えない。
孫正義氏が「10年後」の言葉で語るのは、正確に現状を押さえている証左だと僕は考える。また、ソフトバンクが保有するコンテンツ及びそれらを開発運用する知識ベースの財産が真に力を発揮するのは、現状の「携帯電話」の機能追加路線上にはないと思うのである。それは携帯端末がIP端末化され、個人情報管理端末として様々な状況下で主体的に使われる、そのような時になり初めて、通信事業者ではないソフトバンクの潜在力が発揮できると思うのである。「10年後」という言葉は、孫正義氏にとって携帯電話ではない携帯端末の、そのような先をみてのビジョンの様にも思える。
といって「10年後」まで何もしないと言うことではないし、それまでに様々な実験的なサービスを展開していくことだろう。失敗するサービスが多ければ多いほど、次の技術革新の糸口が見つかると思うし、ソフトバンクはそのような会社だと思う。
また記事ではブランド変更について、Jフォンからボーダフォンへの切り替えに混乱があり、その結果新規獲得者数が減っていった経緯があると述べている。確かに、メールアドレスのドメイン変更を含め顧客側に手間を与える事態になった。それにより混乱があったのも事実である。でもそれ以前にJフォンの凋落はあったのは間違いない。そしてその一つに「写メール」の成功が背景としてあると思う。
「写メール」の成功は良いことではあるが、その成功に固執する結果、新たな展開への投資配分が出来なくなりジレンマが生じる。つまりは「写メール」を拡張する方向に走りがちになり、それによって得た利益を、企業としての弱点を解消する事に効率よく使うことが出来なかった。そこにJフォンの敗因が隠されている様に思えるのである。さらにボーダフォンへのブランドの変更よりは、買収などの事務処理上、一時会社機能の停止による遅れのほうが、目に見えないが大きかったのではないだろうか。
今回ソフトバンクの買収により、ブランドの変更は行われるとのことであるが、僕は行うべきであると思うし、それも出来るだけ早く行わなければならないとも思う。多少の混乱は付き物であるが、新たなイメージを顧客に持たせる意味でも必要である。さらにその時、共に展開するキャンペーン及び料金を含めたサービスをどのようにするかで、ここ数年の状況が決まるとも思えてくる。
ただし、ADSL事業展開で成功したソフトバンクのモデルは、他通信事業者にとってもモデルとなったのも事実であろう。あれから時間もかなりすぎた。しかもKDDIを含め、各社にとって携帯事業は負ければ会社として持続できない状況下にある、当然に様々な事を考えていくことだろう。ADSL当時とは環境も何もかもが全く違う。厳しい競争がさらに展開していくことになっていくことだろう。そしてその中で、あらたな携帯の姿とサービスを模索し、さらに提案してくれる事を望んでいる。
追記:久しぶりにビジネスの記事を書いた。ライブドアと堀江元社長の話題が多かったが、彼については全く記事にする気がしなかった。ビジネス(に対する考え方)に関して彼らと僕とは何もかもが違う。といっても一緒に並べること自体が無理というものかもしれないが(笑
2004年の総務省管轄の周波数帯割り当て協議のことを覚えていられる方も多いことだと思う。新規参入を目指したソフトバンクは念願の800メガヘルツ帯を申請したが、結果から言えば総務省の認可が下りなかった。あの時孫正義氏が吐いた名言を忘れることが出来ない。
「切手代(郵政民営化)より携帯電話代が多くの国民にとっては重要だ」
ITmediaの記事「買収でボーダフォンはどうなる?」を読んだ。記事の中では「価格破壊」という言葉でADSL回線事業参入時の孫正義氏を語っているが、それは片手落ちというものだろう。価格を安くすると言うことが、何を意味するのかを記者は認識していない。今でも価格設定が営業施策上最重要項目の一つである以上、先行者より価格を安くすることは新規参入者にとっては必須のこととなる。それは他のADSL回線事業者も当然に理解していたし、多少はNTTに較べ安めには設定していた。でもYahooBB並には出来なかった。何故YahooBBでは出来たのかという視点に欠ける。
価格を破壊的に安くするということは、それに見合った業務フローを造ると言うことでもあり、それ以上に新しいビジネスモデルを開発すると言うことだと僕は思う。そして技術革新はADSLという技術ではなく、そのビジネスモデルにあったと思うのである。何故孫正義氏のビジネスモデルが当時の他の回線事業者にとって革新たり得たのか。それは他の事業者が自分のビジネスを設備産業と考えていたことに起因すると僕は思う。当時の、そして今でも、大手の通信事業者の経営者は元NTT出身者でもある。NTTは電電公社時代から官民一体となり通信事業を繰り広げてきた。通信設備を新たに建設もしくは増設するには膨大な費用と期間がかかる。よって事前の計画は重要で、多少の需要変化は無視し、概ねは事前の設備計画に沿って行われる。初期の携帯電話の月額使用料が高かったのは、設備費用の膨大さもあることながら、その設備計画によるところが大きい。つまり徐々に設備を増やしていく事情から、初めは高めに料金を設定し加入者を増やさないようにしているのである。無理に一言で現せば、設備産業を従事する者達にとって、設備計画が主であり、その利用者は従といえる。その考えを孫正義氏は覆したと僕は思っている。つまりは設備産業であること自体は変わらないが、それ以前にサービス産業であったという意識の芽生えと言っても良いかもしれない。
勿論ADSL事業については、他の事業者達がADSL技術は光ファイバーまでの過渡的な技術であるとの認識が、YahooBBへの対応が遅くなったとも認める。しかしそこにも、他の通信事業者達の技術偏向の姿勢が見受けられるのである。設備計画重視という姿も、ある意味では技術者主導のビジネスとも思うからである。
孫正義氏はADSL事業によって、他の回線事業から見れば、価格破壊以前に通信事業者の設備計画に対する常識を尽く破壊した。それに対する嫌悪感は彼らの中には根強い。それが2004年の周波数帯域割り当て協議におけるソフトバンクへの対応の大元にあると僕は思う。あの時、ソフトバンクの孫正義氏だけが周囲と較べ異質であった。そしてその異質な存在の参入時期を遅らせる、そういう心理が協議会と他携帯事業者の双方にあったように僕は思っている。
その孫正義氏がボーダフォンを買収した。いずれは携帯事業に参入すると見ていたが、実はこんなに早く参入するとは想像だにしていなかった。孫正義氏は記者の料金についての質問に「今は詳細についてコメントする段階ではない」と答えている。
ITmediaの記事では安い価格の提示を予測している。その根拠としてバックボーンネットワークの自社設備利用が可能であることを述べている。確かに現在の利用者数を鑑みると安い料金設定は必須だと思う。よって少しは料金改定は行われることだろう。でもその幅は価格破壊のレベルではなく、一般的な値下げレベルだと僕は思っている。理由はノンリコースローンはボーダフォンのキャッシュフローを担保にしていることが大きいが、資本の投資配分として設備拡張のほか今後の展開、例えばIP化、に向けての諸々の設備増強に向けると思うからである。
さらに番号ポータビリティ実施後の顧客囲い込みとして、料金値下げの方向は個人利用ベースではなくて、例えば家族割等の人との繋がりの中で料金を大幅に割り引くような事になっていくと思っている。つまりここで単独で料金値下げを行ったとしても、特定のグループでの割引もしくは長期割引競争の陰に隠れてしまう結果になる。
確かにYahoo等のソフトバンクが所有するコンテンツの力は大きいし、それらを効率よく利用することでボーダフォンに良い影響力を与えることになると思う。ただ現状のシェア及び売り上げに貢献する決定的な力になるとも思えないのである。そのくらいボーダフォンと他社とは、ネットワーク・技術・営業・端末・サービスの面で遅れていると思うのである。さらに、ソフトバンクがコンテンツに関して他社より有利だとしても、それらは追従が可能でもある。遅れた分がコンテンツの有利さで相殺するとも思えない。
孫正義氏が「10年後」の言葉で語るのは、正確に現状を押さえている証左だと僕は考える。また、ソフトバンクが保有するコンテンツ及びそれらを開発運用する知識ベースの財産が真に力を発揮するのは、現状の「携帯電話」の機能追加路線上にはないと思うのである。それは携帯端末がIP端末化され、個人情報管理端末として様々な状況下で主体的に使われる、そのような時になり初めて、通信事業者ではないソフトバンクの潜在力が発揮できると思うのである。「10年後」という言葉は、孫正義氏にとって携帯電話ではない携帯端末の、そのような先をみてのビジョンの様にも思える。
といって「10年後」まで何もしないと言うことではないし、それまでに様々な実験的なサービスを展開していくことだろう。失敗するサービスが多ければ多いほど、次の技術革新の糸口が見つかると思うし、ソフトバンクはそのような会社だと思う。
また記事ではブランド変更について、Jフォンからボーダフォンへの切り替えに混乱があり、その結果新規獲得者数が減っていった経緯があると述べている。確かに、メールアドレスのドメイン変更を含め顧客側に手間を与える事態になった。それにより混乱があったのも事実である。でもそれ以前にJフォンの凋落はあったのは間違いない。そしてその一つに「写メール」の成功が背景としてあると思う。
「写メール」の成功は良いことではあるが、その成功に固執する結果、新たな展開への投資配分が出来なくなりジレンマが生じる。つまりは「写メール」を拡張する方向に走りがちになり、それによって得た利益を、企業としての弱点を解消する事に効率よく使うことが出来なかった。そこにJフォンの敗因が隠されている様に思えるのである。さらにボーダフォンへのブランドの変更よりは、買収などの事務処理上、一時会社機能の停止による遅れのほうが、目に見えないが大きかったのではないだろうか。
今回ソフトバンクの買収により、ブランドの変更は行われるとのことであるが、僕は行うべきであると思うし、それも出来るだけ早く行わなければならないとも思う。多少の混乱は付き物であるが、新たなイメージを顧客に持たせる意味でも必要である。さらにその時、共に展開するキャンペーン及び料金を含めたサービスをどのようにするかで、ここ数年の状況が決まるとも思えてくる。
ただし、ADSL事業展開で成功したソフトバンクのモデルは、他通信事業者にとってもモデルとなったのも事実であろう。あれから時間もかなりすぎた。しかもKDDIを含め、各社にとって携帯事業は負ければ会社として持続できない状況下にある、当然に様々な事を考えていくことだろう。ADSL当時とは環境も何もかもが全く違う。厳しい競争がさらに展開していくことになっていくことだろう。そしてその中で、あらたな携帯の姿とサービスを模索し、さらに提案してくれる事を望んでいる。
追記:久しぶりにビジネスの記事を書いた。ライブドアと堀江元社長の話題が多かったが、彼については全く記事にする気がしなかった。ビジネス(に対する考え方)に関して彼らと僕とは何もかもが違う。といっても一緒に並べること自体が無理というものかもしれないが(笑
2006/03/18
武田徹氏新聞記事「「死に顔」撮影は許されるか」を読んでの感想
3月16日付け産経新聞に掲載されていた武田徹氏「「死に顔」撮影は許されるか」を興味を持って読んだ。以下は紹介と僕の感想である。
記事の発端は、故人との最後の別れをするために棺を開けたとき、携帯電話で死に顔を撮影する人が現れ、参列者の顰蹙(ひんしゅく)をかっているということである。元々の発端記事は2月中旬の毎日新聞だったらしいが僕はそれを読んではいない。武田徹氏はご自身もその事に嫌悪感を覚えると前置きして次のように語る。
そして「死に顔」を撮影する人が、それらの基準もしくは深く死者を悼む気持ちからではなく、単に興味本位で撮影し記録情報として扱われ、携帯メールさらにネットに晒されることに懸念を表明し、故に嫌悪感を覚えると結ぶ。それらの一連の武田徹氏の意見は個人情報保護と繋がっている。この話題はそこまで射程距離を持ち話をするべきとする武田徹氏の意見は聞くに値すると僕は思う。
ただ僕にとってこの話題は、「故人を愛していた人達が死に顔の扱いについては決定」で終わる話ではないかとも思える。個人情報保護法の個人情報の定義は明確ではないが、死者の個人情報がその遺族の生存者の個人情報として保護されることは認めている。勿論、法律云々の問題ではないと考えられる方も多いことだと思う。でも武田徹氏の言われるとおり「普遍的な理由付けは困難」なのである。
武田徹氏がこの話題を個人情報保護に結びつけることは、自らジャーナリストとしての立場によるところが大きいと思う。本記事を読めば、武田徹氏の中では、ケータイでの「死に顔」撮影はジャーナリストの「生き顔」撮影に、どこかで繋がっている様に思えてくる。そしてそれらの線引きは、武田徹氏にとれば、公共の利益と歴史への記録に値するものとなり、判断は「臨機応変の「柔らかな」論理」となる。でもそれらは誰が判断するのであろうか。掲載する時点での判断はジャーナリストに委ねられる、そう武田氏は言っているかのようである。それが現実であり概ねは問題ないとしても、医者とは違い、ジャーナリストは自らが宣言するだけで成り得る属性でもある。武田徹氏の様なジャーナリストだけであればよいが、そうとばかりは言えないようにも思える。それについてさらに具体的な話があれば良かったとも思う。
武田徹氏がケータイの「死に顔」撮影に嫌悪感を覚えたのは、「過去の経験の蓄積で形成された生理的感覚」であるのは間違いないと思うが、それは武田氏個人だけで形成されるものでもない。親類家族から、周りの人から、受け継がれてきたものである。それは民族としての文化である、と僕は思う。
また「死者に対するタブー」、死者に触れるタブー、死者の名前を呼ぶタブー、等の様々なタブーを保ち続けている民族も多い。日本にも同様なタブーは現在でも通用するところは多いと思う。(例えば戒名とか、死に装束、死者を不浄とする感覚)
また愛するもの達の「死」は生者達の多くに自責の念をもたらせる。「ああすればよかった」「あの時こうしていなければ」「何故あそこでとめなかったのだろう」など、生者の自責の念は、死者との関係が深ければ深いほど強い場合が多い。フロイトは「トーテムとタブー」で自責の念は「死を願う気持ち」にあると語った。フロイトの説を全面的に受け入れるつもりはない。愛する者の死を受け入れない気持ちが、自分の行動可能性に対し自責の念を生じさせる場合もあると思うからである。
「死者に対するタブー」は逆に、「死者」に対する欲望の裏返しかもしれない。タブーとすることは、タブーとしなければならない事由がそこにはあると思うのである。つまりは、自らが経験することなく、ただそこに在る「死」というものへの不安と畏れが興味の対象となり得るとも思うのである。ケータイでの「死に顔」撮影は、その押さえきれない興味の結果なのではないだろうか。
ただケータイでの「死に顔」撮影行為は、葬祭に集う人達の中で、撮影するという行為が「死者」に触れるというタブー、つまりは不浄である感覚を呼び起こすこと、および死者を悼む心と自責の念にかられる親族の気持ちに追い打ちをかける仕打ち、の二重の意味で嫌悪感を抱かせる行為のように思えるのである。そしてその嫌悪感は、文化を汚す行為とも受け取られるように思う。
押さえきれない興味の発露としての撮影であれば、撮影者は文化的背景を単に知らなかったのかもしれない。それであればその事を教えてあげれば済む話である。そして知った後に、その文化を受け入れるか、もしくはその文化に疑問を持つかは個人の自由でもある。ただ疑問を持つ場合は、現行の個人情報保護法により遺族が撮影の判断を持つと伝えればよい。さらに武田徹氏の言われるように、その事で撮影者を差別すべきではない。自分と考えが違う、文化が違うと思えばよいと思う。
撮影者は自分と異なる文化集団(つまりは「死に顔」撮影に嫌悪感を抱く集団、日本では主流だと思う)の儀式に参加する場合、相手が不快に思う行為は慎むべきでもある。そしてその中にいて疑問を露わにすることは、相手に対する侮辱であると知るべきでもある。それは自分の自由を守ることでもあり、それ以上に公平な態度だと僕は思う。
僕はこういった話題は普遍性からの歩みでは、武田徹氏の言うとおりに明確な理由付けは困難で終わることが多いように思う。これらの話題は文化・慣習など、さらには身体もしくは性に根ざすことが多い。それらは歴史性が暴かれ、もしくは相対化された事柄もあるが、多くは僕らの現実社会の中で暮らしに密接に繋がっているのだと思う。故に普遍性を求めるのではなく、文化を尊重する精神を求めることが大事なのではないかと愚考するのである。
記事の発端は、故人との最後の別れをするために棺を開けたとき、携帯電話で死に顔を撮影する人が現れ、参列者の顰蹙(ひんしゅく)をかっているということである。元々の発端記事は2月中旬の毎日新聞だったらしいが僕はそれを読んではいない。武田徹氏はご自身もその事に嫌悪感を覚えると前置きして次のように語る。
「しかし一方で、それが過去の経験の蓄積で形成された生理的感覚でしかないとも理解している。死に顔をケータイで撮影してはなぜいけないのか。普遍的な理由付けは困難だ。死者への冒涜だとか言われるだろうが、死者を悼み、送る方法に絶対的なルールはない。死に顔を撮影して所有することが死者を悼む上で必要だと本人が切実に思っているのだとしたら、そこに第三者が立ち入ることはできない。」さらに武田徹氏は考えておくべきこととして、「自分の外観は誰のものか」と問いかける。そして「顔は本人を他者から識別できる情報なので個人情報に含まれる」と結論づける。その上でこの問題について妥当な考えを述べる。
「個人情報の扱いについては本人の自己決定に委ねるのが原則。そうである以上、もしも「死に顔を人に見せないように」との遺言があれば棺は開けるべきではない。遺言がなくても、故人を愛していた人達が死に顔の扱いについては決定して良いだろう。」僕にとっては携帯の新たな話題はここで終わる。ただ武田徹氏にとっては、「顔は個人情報」からジャーナリストとしての立場よりさらに話は続く。つまりは、個人情報として本人の自己決定に委ねられるとしても、「社会に広く問題を伝え、その出来事の意味を歴史に記録するために報道されるべき個人情報がある事情」により、様々な出来事の当事者の顔写真は理解されてもよいと語る。そして、どこでも土足で踏み込んでも良いわけではないと前置きして、「ケース・バイ・メースで対応を使い分ける臨機応変の「柔らかな」論理がその対応には必要なのだ」と繋げている。
そして「死に顔」を撮影する人が、それらの基準もしくは深く死者を悼む気持ちからではなく、単に興味本位で撮影し記録情報として扱われ、携帯メールさらにネットに晒されることに懸念を表明し、故に嫌悪感を覚えると結ぶ。それらの一連の武田徹氏の意見は個人情報保護と繋がっている。この話題はそこまで射程距離を持ち話をするべきとする武田徹氏の意見は聞くに値すると僕は思う。
ただ僕にとってこの話題は、「故人を愛していた人達が死に顔の扱いについては決定」で終わる話ではないかとも思える。個人情報保護法の個人情報の定義は明確ではないが、死者の個人情報がその遺族の生存者の個人情報として保護されることは認めている。勿論、法律云々の問題ではないと考えられる方も多いことだと思う。でも武田徹氏の言われるとおり「普遍的な理由付けは困難」なのである。
武田徹氏がこの話題を個人情報保護に結びつけることは、自らジャーナリストとしての立場によるところが大きいと思う。本記事を読めば、武田徹氏の中では、ケータイでの「死に顔」撮影はジャーナリストの「生き顔」撮影に、どこかで繋がっている様に思えてくる。そしてそれらの線引きは、武田徹氏にとれば、公共の利益と歴史への記録に値するものとなり、判断は「臨機応変の「柔らかな」論理」となる。でもそれらは誰が判断するのであろうか。掲載する時点での判断はジャーナリストに委ねられる、そう武田氏は言っているかのようである。それが現実であり概ねは問題ないとしても、医者とは違い、ジャーナリストは自らが宣言するだけで成り得る属性でもある。武田徹氏の様なジャーナリストだけであればよいが、そうとばかりは言えないようにも思える。それについてさらに具体的な話があれば良かったとも思う。
武田徹氏がケータイの「死に顔」撮影に嫌悪感を覚えたのは、「過去の経験の蓄積で形成された生理的感覚」であるのは間違いないと思うが、それは武田氏個人だけで形成されるものでもない。親類家族から、周りの人から、受け継がれてきたものである。それは民族としての文化である、と僕は思う。
また「死者に対するタブー」、死者に触れるタブー、死者の名前を呼ぶタブー、等の様々なタブーを保ち続けている民族も多い。日本にも同様なタブーは現在でも通用するところは多いと思う。(例えば戒名とか、死に装束、死者を不浄とする感覚)
また愛するもの達の「死」は生者達の多くに自責の念をもたらせる。「ああすればよかった」「あの時こうしていなければ」「何故あそこでとめなかったのだろう」など、生者の自責の念は、死者との関係が深ければ深いほど強い場合が多い。フロイトは「トーテムとタブー」で自責の念は「死を願う気持ち」にあると語った。フロイトの説を全面的に受け入れるつもりはない。愛する者の死を受け入れない気持ちが、自分の行動可能性に対し自責の念を生じさせる場合もあると思うからである。
「死者に対するタブー」は逆に、「死者」に対する欲望の裏返しかもしれない。タブーとすることは、タブーとしなければならない事由がそこにはあると思うのである。つまりは、自らが経験することなく、ただそこに在る「死」というものへの不安と畏れが興味の対象となり得るとも思うのである。ケータイでの「死に顔」撮影は、その押さえきれない興味の結果なのではないだろうか。
ただケータイでの「死に顔」撮影行為は、葬祭に集う人達の中で、撮影するという行為が「死者」に触れるというタブー、つまりは不浄である感覚を呼び起こすこと、および死者を悼む心と自責の念にかられる親族の気持ちに追い打ちをかける仕打ち、の二重の意味で嫌悪感を抱かせる行為のように思えるのである。そしてその嫌悪感は、文化を汚す行為とも受け取られるように思う。
押さえきれない興味の発露としての撮影であれば、撮影者は文化的背景を単に知らなかったのかもしれない。それであればその事を教えてあげれば済む話である。そして知った後に、その文化を受け入れるか、もしくはその文化に疑問を持つかは個人の自由でもある。ただ疑問を持つ場合は、現行の個人情報保護法により遺族が撮影の判断を持つと伝えればよい。さらに武田徹氏の言われるように、その事で撮影者を差別すべきではない。自分と考えが違う、文化が違うと思えばよいと思う。
撮影者は自分と異なる文化集団(つまりは「死に顔」撮影に嫌悪感を抱く集団、日本では主流だと思う)の儀式に参加する場合、相手が不快に思う行為は慎むべきでもある。そしてその中にいて疑問を露わにすることは、相手に対する侮辱であると知るべきでもある。それは自分の自由を守ることでもあり、それ以上に公平な態度だと僕は思う。
僕はこういった話題は普遍性からの歩みでは、武田徹氏の言うとおりに明確な理由付けは困難で終わることが多いように思う。これらの話題は文化・慣習など、さらには身体もしくは性に根ざすことが多い。それらは歴史性が暴かれ、もしくは相対化された事柄もあるが、多くは僕らの現実社会の中で暮らしに密接に繋がっているのだと思う。故に普遍性を求めるのではなく、文化を尊重する精神を求めることが大事なのではないかと愚考するのである。
それぞれの日本問題
小松左京がSF小説「日本沈没」を書いたのは今から30年以上も昔の話である。小松左京は見事に僅かな科学的可能性を基に日本を沈没させた。でもそれ以前に日本では多くの識者による「日本問題」の洪水に見舞われている。
それぞれの識者達の「日本」はその後どうなったのであろうか。危機感を募らせる書籍の標題は商業的でしかなかったのであろうか。図書館でこれらの書籍の背表紙を見るだけで、そういう思いにとらわれる。
小松左京が描きたかったのは、「日本沈没」のその後であったと、後のインタビューで彼自身が語っていたのを覚えている。つまりはこの小説は序章でしかない。ただ残念なことに「日本沈没」第二章は書かれることがなかった。そして、それぞれの「日本問題」でも、同様に、その後の「日本」を書いている書籍は少ない。
そして今年7月に「日本沈没」が新たな映画として放映される。その時点で多くの方が何を語るのか想像するのは容易い。それぞれの「日本問題」は欲望のままに語られ、さらに商業的に消費されることで、逆に問題としてのリアリティがなくなっていくことだろう。
でもそれを懸念することもない。今までがそうだったように、「日本」は消費尽くされることなく、僕等に課題を投げ続けているからだ。それぞれの「日本問題」とは、それぞれの生の欲望への不全感が元にあると僕は思う。
2006/03/17
扉に置かれた花束
扉に立て掛けられた花束が人の痕跡を、しかも近い時間での痕跡を僕に印象づける。
花束を持ってきた人は、誰もいない家、呼びかけても応答しないその状況に、しばし立ちすくんだことだろう。
扉に立て掛けられた花束に、花を持ってきた方の思いが、白い紙に包装した姿を大きく見せる。手渡しできない思い、言葉を交わせないことに、その方は一瞬の後悔の念を持ったかもしれぬ。
もしかすると、家には人がいるのかもしれない。花束を持って訪れた人を無言の拒否で応じたのかもしれない。そして持ってきた方はそれを感じていた。だから花束を扉に立て掛けることがなかった。扉を開ける勢いで、花が傷つくことを畏れた。それは僕の真昼の夢語りでもある。
2006/03/14
Tokyo Tower-3
日本の文化は何かと問われれば、僕は東京タワーだと答える。この構造物に結実した姿はまごうこともない一つの戦後であり、新たな日本の近代の落し子でもある。「日本文化」について僕は否定的な態度を持つが、それは有史以来の連続とした姿をそこに見せるからである。文化そのものを否定しているつもりはない。ただ「文化」を語る際には、それが近代以降に誕生した言説であるがゆえに、「人種」「民族」「国家」と複雑に絡まり、特に「人種主義」の再生産に加担しないよう、慎重に言葉を選んで話さなければならない、と僕は思っている。
「科学技術が伸展した現代では、300メートルの塔をたてるくらい、あえて至難の業でもあるまいと考えた。やれば必ずできる、と私は膝をうつ思いだった。つまり私の東京タワー建設に対しての自信と決意は、京都東寺の五重塔からあたえられた、ともいえる。」京都東寺の五重塔は現存する木造建築の中で最長の塔である。東京タワー建築の背景に東寺五重塔が入り込むことに僕は不自然さを感じるし、「東京タワー建設に対しての自信と決意」が何故東寺五重塔から得られるのかもわからない。ただそこには敗戦国日本の復興と国民の自信喪失からの回復が、高さを追求するだけでなく、維新を遡る歴史に求める心情が見え隠れするのである。仏教建築の五重塔はもともと釈迦の舎利を納める場所である。つまりはお墓なのである。よってその意思は地下への指向性にあり、決して高みへの意思ではない。五重塔に高みへの指向を見るのは近代の思想でもある。
「どうせつくるなら世界一を……。エッフェル塔 (320m)をしのぐものでなければ意味がない」まず東京タワーに求めたのは高さである。それはモノづくりから自信を回復してきたこの国にとって、建築途中を目で見えることで具体的な自信回復の姿となったと僕は思う。そして具体的な数値として、エッフェル塔の高さが与えられる。「エッフェル塔をしのぐものでなければ意味がない」、その言葉は、東寺五重塔から自信と決意を得られたとの言葉よりもリアリティを持って僕には受け取ることができる。それはエッフェル塔が当時自立鉄筋塔で世界一の高さを誇っていたことだけではない。何よりそれはドイツに占領されたとしても、戦勝国の一員でもあるフランスの、しかも欧州を代表する古都パリを表象する建造物である。さらに東京タワーのデザインはエッフェル塔に似ている。エッフェル塔よりも高い「エッフェル塔に似た塔」を敗戦国の首都東京に建築する、その意味を思う。
「東京タワーがエッフェル塔との対比においていかにも東京とパリという二つの都市の関係を、ひいては日本とフランスないし西欧との関係を、表象し象徴していることだ。具体的には、九割の模倣と一割の臆病な逸脱。」高みからの展望は都市を一つの自然風景にする。眼下にある建築物に、通りに、家々に、人の生活感は薄まる。地上における感覚とは異なる感覚、さらにそれは夜景によって増幅する。映画化された江國香織氏の小説「Tokyo Tower」は、21歳の透と41歳の詩史、21歳の耕二と35歳の喜美子という二組の純愛を描いていると聞く、実は小説も映画もどちらも知らない僕が言うことではないが、江國香織氏の題名の巧みさに、この物語の内容がそれを知らない僕にでさえ伝わる。
(池澤夏樹「読書癖4」より)
2006/03/13
Tokyo Tower-2
この写真は前記事の方の影響を受けて僕が撮った写真である。力ではなく脆さを出したいと思った。でも未だに従前からの僕の中にある東京タワーのイメージを崩せずにいる。
ただこの考え方は別の問題も含んでいる。そのことも含め徐々に考えていきたい。
Tokyo Tower-1
この写真は僕の写真ではないが、僕に新たな東京タワーの視点を与えてくれた写真である。この写真の現場が何処か知りたくて、夜、東京タワーに行ったことがある。そこは思った以上に普通の場所だった。そして僕は同じ場所で、出来るだけこの作品とは違う様に何枚か写真を撮った。
しかしこの写真の東京タワーには、僕の懐古的なイメージは微塵もない。むき出しになり交差する鉄筋、オレンジ色の光の陰影、それらから受ける印象はあくまで現代的なものだ。そこにあるのは力の誇示と権力、と言えば大袈裟だろうか。
僕の写真でない一枚をここに掲載したのは、オリジナルへの敬意に他ならない。それはありふれた場所からの視点であったが、その場所への到達は僕には出来なかった。この一枚は視点を変更することにより、東京タワーの現実的な姿を新たに見せてくれた。そういう意味でも印象的な一枚になった。
今後は僕の写真だけでなくFlickrで気に入った写真も掲載するようにしたい。それを見る僕の印象を綴ることも、自分の写真(視点)から脱却する点で面白いと思う。
2006/03/10
映画「ヒットラー最期の12日間」感想、それは映画の誘惑
「亡国のイージス」を見たときに、これは今までの戦争映画のパロディではないかと疑った。さしずめ「亡国のイージス」のヨンファであれば、「ヒットラー最期の12日間」の観客に向かって言うことだろう。
「日本人よ、これが戦争だ」と。
でもヨンファが本当に戦争を知っていたのかは、僕にとっては疑わしい。彼にあったのは個人的な強いルサンチマンでしかなかったと思える。
映画「ヒットラー最期の12日間」をレンタルで借りてみた。見終わった後は正直言って心身ともに疲れた。ヒットラーと彼の側近を中心にベルリン市街戦を描いている為か、そこに現れる映像は滅びる国の姿であり、具体的には自死、敗残の将兵、私刑の死、銃弾に倒れる市民、等の姿であった。疲れたのはそれらの映像によってだけでなく、幾つもの疑問が僕の中に現れたからだった。
映画「ヒットラー最期の12日間」は秘書から見たヒットラーを描いている、と公式サイトには書いてある。しかしそれが全てでないことは誰もがわかる。つまり秘書が全く目撃することが出来ない状況も映画に描かれているからである。その割合は少なくない。秘書の目撃以外の場面は、膨大な記録から制作者が取捨選択し、多少の脚色を加え、映画に使われているのだと思う。秘書の原作本もあり、無論それに対しても同様のことだろう。全方位に全ての記録を2時間台の映画に詰め込むのは不可能であるし、仮に行ったとすれば、それは映画とは言えない代物になってしまう。
映画であれば、当然に制作者側の意図がそこにはある。歴史に詳しい方から見れば、この映画には描かれていない箇所、もしくは変更されている箇所等と、気になる事柄が多い事だろうが、それが映画というものだ、と僕は思うのである。さらに、この映画は「秘書が見たヒットラー」の言葉より、「高い真実性」の先了解を観客に持たせているように思えるが、裏には、秘書が見たヒットラーを描いているに過ぎません、という言葉も含まれているとも思えるのである。その上で制作者は秘書が見てはいない様々な場面を挿入しているのである。これらのことを前提にして、僕はこの映画を史実としてではなく映画として観た。
映画というのは誘惑のメディアでもある。人は映画を見ると自分の信念をその中に発見しようとする。そして必ず見つけるのである。その誘惑を抗える人は少ない。映画の感想とは自分語りに他ならない、そして僕もこの映画で見つけたのはひとつの自分の考えであった。ただ毎度のことだが、その考えに対して明確な言葉と論理を持って僕は語ることが出来ない。ようするに未だ僕には不明なのである。こうやって書くことで少しでも理解に近づきたいと願っているだけなのだ。
「ヒットラー最期の12日間」が公開した当初、産経新聞での紹介欄にフランス人批評家の言葉が載っていた。既にその新聞は手元になく記憶は曖昧だが、確か彼はこう語っていた。「ドイツ人はヒットラーを語れるほど成熟したのか」と。僕はレンタルで借りるときこのフランス人批評家の言葉を思い出していた。
「成熟」とは一体どのようなことを言うのであろうか。「成熟」という言説には明らかにそこには他者性があると僕は思う。「成熟した」という基準は、外部に在る普遍的な定義が必要と思うし、その定義は「成熟したのか」と問うフランス人にも当然に跳ね返ることになる。ただ「成熟したのか」と問いかけるフランス人批評家がそのことを意識していたとも思えないのである。でも何故か、「成熟」という言説に内容説明を求めるまでもなく、それを掲載したフランスおよび日本の新聞も、おそらくドイツでさえ、了解を得てしまうのである。なぜこのような事がおきるのだろうか。
ひとつ思いつきに近い想像をすれば、「成熟した」とは、ヒットラーを含めた第三帝国が起こした様々な惨事の理由を見つめ批判する外部に在る規範の構築、それを構築した上で政治にそれらを生かすことの様に思える。でもヒットラー以後、多くの思想家たちがそれらを行ってきたのではないのだろうか。未だ足りないのであろうか。おそらく足りないという話ではなく、ヒットラーに関する問題は時代と共に変質し、新たな問題として再生産され続けているのだと思うのである。
時代の思想に掴まれている僕らにとっては、様々な問題は、大雑把に言えば、個人のアイデンティティ・社会状況・政治経済にその原因を求める事が多い。ヒットラーでさえその限りではなく、よってそこからはモンスターではなく人間としてのヒットラー、独裁者ではなく思った以上に民主的なヒットラー、そして第一次大戦からの復興とドイツ民族の自信回復に成果を上げた政治家、等のイメージを立ち上げることも可能ではある。でもそれは時代の思想からの必然による出現ではなく、一つの誘惑として現れるのだと僕は思う。その誘惑の中でヒットラーをヒューマニストとしての見方もあるが、その時、ヒューマニズム(人類主義)の人類に該当しない人たちは人類主義と結託した科学としての衛生主義により駆除される。そこに現れるのはヒューマニズムは人種主義と結託しやすいということかもしれない。誘惑されるのはよいが、それから派生する問題を続けて考えなければならないと僕は思う。
映画「ヒットラー最期の12日間」は秘書から見たというオブラートに包んではいるが、ドイツで制作したヒットラー個人と周辺に的を絞った映画である。つまり個人のアイデンティティを描くのであれば、それによって他の出来事を卑小化することなく、ヒットラーの問題を解明すべきであるが、ドイツはそれを行うことなく、現代における色々な出来事の中にヒットラーを埋没させ、なし崩し的にしようとしている。そのようにフランス人批評家は受け取ったのではないのだろうか。そして同様にイスラエルの人もその点が感じられるからこそ、この映画に批判的な態度を示したように思えるのである。しかし、ドイツの映画界がヒットラーの誘惑を受けて描きたかった事は一体何なのであろうか。
この映画の中で、僕にとって気になる点が二つあった。ひとつは映画最終場面に近い、外交官がヒットラーとの誓約に自死をするのだが、彼はまず毒薬を飲み、そして自分のこめかみに銃を撃つ。毒薬については、この映画で何度も登場するが、飲めば数秒で死に至る劇薬である。つまり彼は数秒の後に死ぬことがわかって、そして銃を自分に撃つのである。おそらくこれはその場にいたものの証言に基づいた話だとは思うが、僕にとっては二度の自死と写ったのであった。なぜ彼は二度にわたり自分を殺さなければならなかったのか。
もう一つは、ゲッペルス夫妻の描き方が丁寧に時間をかけて描いていることである。確かに映画はヒットラーとその側近達を描いている。でも数多い側近のうち、ゲッペルス夫妻の場面の多さは特筆している。ゲッペルス夫妻とヒットラーの関係、登場の仕方、子供たちを殺害するシーン、および自死迄の様子、映画はこれらの場面を丁寧に描いている。ヒットラーの自死の場面が密室状態で観客に明らかにしていない事を思えば、その変わりに、夫妻を描いているかのようにも見えてくる。そしてここにも、前記の外交官の二度の自死と同様のモチーフが現れてくる。それは子供の殺害である。
子供の殺害方法は、まず彼等を睡眠薬で眠らせ、眠ったときに母親が毒薬を投与する。子供達にとっては睡眠薬を飲んだ時点で既に死は確定済みである。だから睡眠薬を飲むとき長女は抵抗するのである。勿論睡眠薬だけであれば子供達は死に至ることはない。夫妻の気持ちの変化で死を免れることは出来る。でも睡眠薬で眠っている時、子供達には生死の決定権はないのである。そして夫妻が気持ちを切り替える事はあり得ない。ナチスがない世界は彼等にとって生きるに値しないからである。
逆の見方をすれば、子供達はナチスにとっても未来である。つまりはナチズムは二度と現れないことを映画は語りたいのかもしれない。さらに子供達を殺した母親は、自分を殺したのと同等である。その後映画では、ゲッペルスの妻の表情は仮面のような無表情さを保ち続ける。ここには子供の殺害から連続する二度の自死のモチーフがあると僕には思える。そしてそのモチーフは妻を銃殺するゲッペルスとその死に連続して流れていくのである。
ゲッペルス夫妻は、ナチズムの崇拝者の末路、もしくはナチスドイツの終焉、を象徴的に表していると僕は思うのだが、それだけでは無いと思う。つまりはゲッペルス夫妻から外交官に続く一連の二度の自死。それが正直言えばよくわからない。ただ僕の中に、この映画全編を通じて引っ掛かり続けているのである。あれこれと色々なことを考える。一つめの自死は国家の自死、二つめの自死は個人の自死。もしくは暗に二度の自死を強調することによって、ナチズムを過去の出来事として精算する意図もあったのかもしれない。また二度の自死の持つ意味をキリスト教的な意味から捉えるとどうなるのだろうか。さらに現代のドイツの状況の何かがそこにあるのかもしれない、でもそこまで行けば、無知な僕には辿り着くことは難しい。
再度言うが、上記の2つの自死は綿密な調査の上での定説であるのだろう。でもそれを取り上げ描く裁量は全て制作者側にあるのである。つまり僕はこの二つの出来事を疑っているのではなく、映画における二つの取り上げ方が気になるのである。
二度の自死の意味について、あれこれと考えたが適切な答えが見つからなかった。僕自身がこの映画を通じて、映画の持つ誘惑に抗えない結果、一つの妄想を見ているのかもしれない。その可能性は大いにあり得る。さらに、この映画感想をこのように述べることで、僕は一体何をしたいというのであろうか。ドイツ観念論の言論空間の中でさえ、ナチズムが誕生したということだろうか。ヒットラー以後の様々な思想、マルクス、実存主義、一連のフランス思想、そしてポストモダニズム、それらの潮流の中で解決できない現代の様々な問題を、それらの考え方と言葉と参照を行う事に終始するのでは結局そこから抜け出ることができないと、そう言いたいのであろうか。
いずれにせよ、僕はそこまで到達できないのは確かである。ただ、この映画はそれらを考える切っ掛けになったことは確かだと思う。
最期にこの映画はよい映画か?人に勧めることが出来る映画だろうか?それについての僕の評価は厳しい。ヒットラーを描くのであれば、もっと徹底的に描いて欲しかった。そう思う。
追記:実を言えばこの映画の感想を書きながら僕は「日本の一番長い日」を思い出していた。
「日本人よ、これが戦争だ」と。
でもヨンファが本当に戦争を知っていたのかは、僕にとっては疑わしい。彼にあったのは個人的な強いルサンチマンでしかなかったと思える。
映画「ヒットラー最期の12日間」をレンタルで借りてみた。見終わった後は正直言って心身ともに疲れた。ヒットラーと彼の側近を中心にベルリン市街戦を描いている為か、そこに現れる映像は滅びる国の姿であり、具体的には自死、敗残の将兵、私刑の死、銃弾に倒れる市民、等の姿であった。疲れたのはそれらの映像によってだけでなく、幾つもの疑問が僕の中に現れたからだった。
映画「ヒットラー最期の12日間」は秘書から見たヒットラーを描いている、と公式サイトには書いてある。しかしそれが全てでないことは誰もがわかる。つまり秘書が全く目撃することが出来ない状況も映画に描かれているからである。その割合は少なくない。秘書の目撃以外の場面は、膨大な記録から制作者が取捨選択し、多少の脚色を加え、映画に使われているのだと思う。秘書の原作本もあり、無論それに対しても同様のことだろう。全方位に全ての記録を2時間台の映画に詰め込むのは不可能であるし、仮に行ったとすれば、それは映画とは言えない代物になってしまう。
映画であれば、当然に制作者側の意図がそこにはある。歴史に詳しい方から見れば、この映画には描かれていない箇所、もしくは変更されている箇所等と、気になる事柄が多い事だろうが、それが映画というものだ、と僕は思うのである。さらに、この映画は「秘書が見たヒットラー」の言葉より、「高い真実性」の先了解を観客に持たせているように思えるが、裏には、秘書が見たヒットラーを描いているに過ぎません、という言葉も含まれているとも思えるのである。その上で制作者は秘書が見てはいない様々な場面を挿入しているのである。これらのことを前提にして、僕はこの映画を史実としてではなく映画として観た。
映画というのは誘惑のメディアでもある。人は映画を見ると自分の信念をその中に発見しようとする。そして必ず見つけるのである。その誘惑を抗える人は少ない。映画の感想とは自分語りに他ならない、そして僕もこの映画で見つけたのはひとつの自分の考えであった。ただ毎度のことだが、その考えに対して明確な言葉と論理を持って僕は語ることが出来ない。ようするに未だ僕には不明なのである。こうやって書くことで少しでも理解に近づきたいと願っているだけなのだ。
「ヒットラー最期の12日間」が公開した当初、産経新聞での紹介欄にフランス人批評家の言葉が載っていた。既にその新聞は手元になく記憶は曖昧だが、確か彼はこう語っていた。「ドイツ人はヒットラーを語れるほど成熟したのか」と。僕はレンタルで借りるときこのフランス人批評家の言葉を思い出していた。
「成熟」とは一体どのようなことを言うのであろうか。「成熟」という言説には明らかにそこには他者性があると僕は思う。「成熟した」という基準は、外部に在る普遍的な定義が必要と思うし、その定義は「成熟したのか」と問うフランス人にも当然に跳ね返ることになる。ただ「成熟したのか」と問いかけるフランス人批評家がそのことを意識していたとも思えないのである。でも何故か、「成熟」という言説に内容説明を求めるまでもなく、それを掲載したフランスおよび日本の新聞も、おそらくドイツでさえ、了解を得てしまうのである。なぜこのような事がおきるのだろうか。
ひとつ思いつきに近い想像をすれば、「成熟した」とは、ヒットラーを含めた第三帝国が起こした様々な惨事の理由を見つめ批判する外部に在る規範の構築、それを構築した上で政治にそれらを生かすことの様に思える。でもヒットラー以後、多くの思想家たちがそれらを行ってきたのではないのだろうか。未だ足りないのであろうか。おそらく足りないという話ではなく、ヒットラーに関する問題は時代と共に変質し、新たな問題として再生産され続けているのだと思うのである。
時代の思想に掴まれている僕らにとっては、様々な問題は、大雑把に言えば、個人のアイデンティティ・社会状況・政治経済にその原因を求める事が多い。ヒットラーでさえその限りではなく、よってそこからはモンスターではなく人間としてのヒットラー、独裁者ではなく思った以上に民主的なヒットラー、そして第一次大戦からの復興とドイツ民族の自信回復に成果を上げた政治家、等のイメージを立ち上げることも可能ではある。でもそれは時代の思想からの必然による出現ではなく、一つの誘惑として現れるのだと僕は思う。その誘惑の中でヒットラーをヒューマニストとしての見方もあるが、その時、ヒューマニズム(人類主義)の人類に該当しない人たちは人類主義と結託した科学としての衛生主義により駆除される。そこに現れるのはヒューマニズムは人種主義と結託しやすいということかもしれない。誘惑されるのはよいが、それから派生する問題を続けて考えなければならないと僕は思う。
映画「ヒットラー最期の12日間」は秘書から見たというオブラートに包んではいるが、ドイツで制作したヒットラー個人と周辺に的を絞った映画である。つまり個人のアイデンティティを描くのであれば、それによって他の出来事を卑小化することなく、ヒットラーの問題を解明すべきであるが、ドイツはそれを行うことなく、現代における色々な出来事の中にヒットラーを埋没させ、なし崩し的にしようとしている。そのようにフランス人批評家は受け取ったのではないのだろうか。そして同様にイスラエルの人もその点が感じられるからこそ、この映画に批判的な態度を示したように思えるのである。しかし、ドイツの映画界がヒットラーの誘惑を受けて描きたかった事は一体何なのであろうか。
この映画の中で、僕にとって気になる点が二つあった。ひとつは映画最終場面に近い、外交官がヒットラーとの誓約に自死をするのだが、彼はまず毒薬を飲み、そして自分のこめかみに銃を撃つ。毒薬については、この映画で何度も登場するが、飲めば数秒で死に至る劇薬である。つまり彼は数秒の後に死ぬことがわかって、そして銃を自分に撃つのである。おそらくこれはその場にいたものの証言に基づいた話だとは思うが、僕にとっては二度の自死と写ったのであった。なぜ彼は二度にわたり自分を殺さなければならなかったのか。
もう一つは、ゲッペルス夫妻の描き方が丁寧に時間をかけて描いていることである。確かに映画はヒットラーとその側近達を描いている。でも数多い側近のうち、ゲッペルス夫妻の場面の多さは特筆している。ゲッペルス夫妻とヒットラーの関係、登場の仕方、子供たちを殺害するシーン、および自死迄の様子、映画はこれらの場面を丁寧に描いている。ヒットラーの自死の場面が密室状態で観客に明らかにしていない事を思えば、その変わりに、夫妻を描いているかのようにも見えてくる。そしてここにも、前記の外交官の二度の自死と同様のモチーフが現れてくる。それは子供の殺害である。
子供の殺害方法は、まず彼等を睡眠薬で眠らせ、眠ったときに母親が毒薬を投与する。子供達にとっては睡眠薬を飲んだ時点で既に死は確定済みである。だから睡眠薬を飲むとき長女は抵抗するのである。勿論睡眠薬だけであれば子供達は死に至ることはない。夫妻の気持ちの変化で死を免れることは出来る。でも睡眠薬で眠っている時、子供達には生死の決定権はないのである。そして夫妻が気持ちを切り替える事はあり得ない。ナチスがない世界は彼等にとって生きるに値しないからである。
逆の見方をすれば、子供達はナチスにとっても未来である。つまりはナチズムは二度と現れないことを映画は語りたいのかもしれない。さらに子供達を殺した母親は、自分を殺したのと同等である。その後映画では、ゲッペルスの妻の表情は仮面のような無表情さを保ち続ける。ここには子供の殺害から連続する二度の自死のモチーフがあると僕には思える。そしてそのモチーフは妻を銃殺するゲッペルスとその死に連続して流れていくのである。
ゲッペルス夫妻は、ナチズムの崇拝者の末路、もしくはナチスドイツの終焉、を象徴的に表していると僕は思うのだが、それだけでは無いと思う。つまりはゲッペルス夫妻から外交官に続く一連の二度の自死。それが正直言えばよくわからない。ただ僕の中に、この映画全編を通じて引っ掛かり続けているのである。あれこれと色々なことを考える。一つめの自死は国家の自死、二つめの自死は個人の自死。もしくは暗に二度の自死を強調することによって、ナチズムを過去の出来事として精算する意図もあったのかもしれない。また二度の自死の持つ意味をキリスト教的な意味から捉えるとどうなるのだろうか。さらに現代のドイツの状況の何かがそこにあるのかもしれない、でもそこまで行けば、無知な僕には辿り着くことは難しい。
再度言うが、上記の2つの自死は綿密な調査の上での定説であるのだろう。でもそれを取り上げ描く裁量は全て制作者側にあるのである。つまり僕はこの二つの出来事を疑っているのではなく、映画における二つの取り上げ方が気になるのである。
二度の自死の意味について、あれこれと考えたが適切な答えが見つからなかった。僕自身がこの映画を通じて、映画の持つ誘惑に抗えない結果、一つの妄想を見ているのかもしれない。その可能性は大いにあり得る。さらに、この映画感想をこのように述べることで、僕は一体何をしたいというのであろうか。ドイツ観念論の言論空間の中でさえ、ナチズムが誕生したということだろうか。ヒットラー以後の様々な思想、マルクス、実存主義、一連のフランス思想、そしてポストモダニズム、それらの潮流の中で解決できない現代の様々な問題を、それらの考え方と言葉と参照を行う事に終始するのでは結局そこから抜け出ることができないと、そう言いたいのであろうか。
いずれにせよ、僕はそこまで到達できないのは確かである。ただ、この映画はそれらを考える切っ掛けになったことは確かだと思う。
最期にこの映画はよい映画か?人に勧めることが出来る映画だろうか?それについての僕の評価は厳しい。ヒットラーを描くのであれば、もっと徹底的に描いて欲しかった。そう思う。
追記:実を言えばこの映画の感想を書きながら僕は「日本の一番長い日」を思い出していた。
2006/03/08
戸陽軒
戸陽軒は、僕が子供の頃からある中華店だったが、今はもうない。この場から1km近く離れた場所に、中華店ではなく、居酒屋として移ったのである。店の名前もそれなりに変わった。戸陽軒の後は誰も入らず建物は住居としてそのまま残った。
戸陽軒の隣は木々が豊富な邸宅であったが引っ越した、しばらくはそのまま残ったが、いつの間にか整地され、跡地に7階建てのマンションが建った。この写真はその時間的な隙間に、横から見た戸陽軒の姿を取ったのである。
昔、時々家では戸陽軒の餃子とかラーメンを出前で頼んだ。少々油が多いが、なかなかに美味しかった。恰幅がよく陽気でお喋りな奥さんが、スリムで若々しいご主人を引っ張ってる印象を子供ながらに持ったものだ。
会社に勤めてからは、帰宅時夜遅く戸陽軒の前を過ぎると、閉店後の店内からは、夫妻の友達が集まりお酒を飲んで談笑しているのをよく見かけた。奥さんは酒豪である。逆にご主人は一滴も飲めないと聞く。居酒屋を始めたのは、奥さんに引っ張られての話かもしれない。
先だって歩いていたら、戸陽軒の奥さんと道でばったりとあった。相手は僕のことを子供の頃から知っている。今度飲みに来てと威勢良く言われた。既に老年に差し掛かってはいるが元気である。「はい」と答えたものの、僕はお酒は得意ではない。でも一度は行ってみようかなと思っている。
戸陽軒の隣は木々が豊富な邸宅であったが引っ越した、しばらくはそのまま残ったが、いつの間にか整地され、跡地に7階建てのマンションが建った。この写真はその時間的な隙間に、横から見た戸陽軒の姿を取ったのである。
昔、時々家では戸陽軒の餃子とかラーメンを出前で頼んだ。少々油が多いが、なかなかに美味しかった。恰幅がよく陽気でお喋りな奥さんが、スリムで若々しいご主人を引っ張ってる印象を子供ながらに持ったものだ。
会社に勤めてからは、帰宅時夜遅く戸陽軒の前を過ぎると、閉店後の店内からは、夫妻の友達が集まりお酒を飲んで談笑しているのをよく見かけた。奥さんは酒豪である。逆にご主人は一滴も飲めないと聞く。居酒屋を始めたのは、奥さんに引っ張られての話かもしれない。
先だって歩いていたら、戸陽軒の奥さんと道でばったりとあった。相手は僕のことを子供の頃から知っている。今度飲みに来てと威勢良く言われた。既に老年に差し掛かってはいるが元気である。「はい」と答えたものの、僕はお酒は得意ではない。でも一度は行ってみようかなと思っている。
2006/03/02
遠くへ
遠くへ、行きたいと希った
そして僕は
遠くから、やってきた
遠くへの思いは
距離ではなく
時間でもない
この身を超えて愛する家族
信頼する友達
慈しみ尊敬する恋人
時として、ふと
見知らぬ人に思える瞬間に
見慣れた風景
住み慣れた街、そして祖国
使い慣れた言葉
時として、ふと
異国で、未だ知らぬ言葉と感じる瞬間に
そこに垣間見る距離感に
自分の位置を知る、その刹那に
僕はどこまで遠くに来たのかと
途方に思うのだ
僕は何から遠くに離れたのか
それは
生まれ育った家、故郷
馴染んだ風景
愛し忘れえぬ人
記憶に今でも残る書物
心のそこから笑いあった友達
もしくは
今を共に暮らす大事な人
それらの人たち
もしくは風景が
現前に立ち
変わったと思えるとき
自分の中の差異によって
遠くへを
感じるのだ
「あなたは変わってしまった・・・」
「この街は変わってしまった・・・」
確かに
あなたも、この街も
変わってしまった、かもしれない
でも一番変わったのは、おそらく
遠くに来てしまった
僕自身なのだ
遠くに
行きたくないという願い
この瞬間を時に刻み
留まりたいという希い
その思いが、ひとつのささやかな
幸せであるのなら
遠くへと希う
その心情には、何があるのだろう
時として
絶望感は人をその場にとどまらせ
幸福感は儚く過ぎ去る
遠くへ
もしくは
ここに居続けたい
双方のそれぞれの願いが
適えられることは
あるのだろうか
何故
そのようなことになるのだろう
何故の問いかけ
それは僕の悪い癖かもしれない
ここで何故と、問うことはやめにしよう
何故には責任を求める力が内包されている
そう思うから
「何故俺は変わってしまったのか」
「それはお前が悪いからだ」
でも、どうやって、どのようにして
問いかけたらよいのか
僕にはわからない
人間のエロス性について
語ったのは誰だったか
今では覚えていない
人間は振幅する、そこでは
そうは語っていなかったが
僕はそう思う
遠くへ、もっと遠くへ
見知らぬあなたと
そして僕は
遠くから、やってきた
遠くへの思いは
距離ではなく
時間でもない
この身を超えて愛する家族
信頼する友達
慈しみ尊敬する恋人
時として、ふと
見知らぬ人に思える瞬間に
見慣れた風景
住み慣れた街、そして祖国
使い慣れた言葉
時として、ふと
異国で、未だ知らぬ言葉と感じる瞬間に
そこに垣間見る距離感に
自分の位置を知る、その刹那に
僕はどこまで遠くに来たのかと
途方に思うのだ
僕は何から遠くに離れたのか
それは
生まれ育った家、故郷
馴染んだ風景
愛し忘れえぬ人
記憶に今でも残る書物
心のそこから笑いあった友達
もしくは
今を共に暮らす大事な人
それらの人たち
もしくは風景が
現前に立ち
変わったと思えるとき
自分の中の差異によって
遠くへを
感じるのだ
「あなたは変わってしまった・・・」
「この街は変わってしまった・・・」
確かに
あなたも、この街も
変わってしまった、かもしれない
でも一番変わったのは、おそらく
遠くに来てしまった
僕自身なのだ
遠くに
行きたくないという願い
この瞬間を時に刻み
留まりたいという希い
その思いが、ひとつのささやかな
幸せであるのなら
遠くへと希う
その心情には、何があるのだろう
時として
絶望感は人をその場にとどまらせ
幸福感は儚く過ぎ去る
遠くへ
もしくは
ここに居続けたい
双方のそれぞれの願いが
適えられることは
あるのだろうか
何故
そのようなことになるのだろう
何故の問いかけ
それは僕の悪い癖かもしれない
ここで何故と、問うことはやめにしよう
何故には責任を求める力が内包されている
そう思うから
「何故俺は変わってしまったのか」
「それはお前が悪いからだ」
でも、どうやって、どのようにして
問いかけたらよいのか
僕にはわからない
人間のエロス性について
語ったのは誰だったか
今では覚えていない
人間は振幅する、そこでは
そうは語っていなかったが
僕はそう思う
遠くへ、もっと遠くへ
見知らぬあなたと
深夜の討論番組に反応して思うこと
最近テレビの話題を会社の同僚としなくなった。朝から夜半まで仕事をしているわけだからテレビを見る時間などどこにもない。それはわかる。でもそれでも以前はその範囲でテレビの話をしていたようにも思う。聞くとテレビは殆ど見ないという。ああ、それは僕も同じだと答えながら、「殆ど見ない」の内容が少し気になった。
僕を例にあげれば、週に5時間くらいである。これは多いのか少ないのかそれとも平均なのかがわからない。きっと平均などというのはないのかも知れぬ。つまりは自分の過去から現在までの推移の中で、徐々に見なくなっていった、その感触で 「見ている」とか「見ていない」などと言うのであろう。僕の場合、週5時間でも見ているのは事実なので、やはりテレビは見ていると言った方が正解なのかもしれない。などと愚にもつかぬ事を考える。
つい最近眠れぬと深夜にテレビをつけたら討論番組をやっていた。田原総一郎氏が司会の番組で、何を討論していたのかはすっかり記憶から抜けている。でもその番組の参加者で政治家の菅直人氏がテレビの権力性について語り、それは誤解だと田原氏とテレビ関係と思われる人が反論していた。
これは面白そうだと少し見たが、双方ともテレビに権力が「ある」「ない」のやり取りに終始して埒がない。反論側は、テレビ制作は視聴者が望むものを造ると言っていたが、おそらくそれが制作者側の実感でもあるのだろう。その意見に対し、視聴者とはいったい誰を指すのか、気になるのは視聴率ではないのか、などの使い古された物言いをするつもりも僕にはない。テレビだけでは、討論会で制作者側が言うとおりに権力など持たないと思うからだ。実態不明の視聴者と組んでひとつの番組を造り、そしてそれが管直人氏のいう所の権力となるのだと思うのである。
実態不明の視聴者と言ったが、実際はこの討論番組で言えば、少なくとも実態不明ではなく、そこに僕が視聴者の一人としているのは間違いない。何故討論番組を制作するのだろう。それはテレビというマスメディアの意見を代弁する仕組みであり、全ては制作者側の意図によってバイアスされる。
その中で参加者が語る意見の責任は制作者側ではなく、語った参加者の責任になる。勿論、テレビというメディアの中では画面に多く登場する者が番組の中で主体となるのだから、時間制限の中で、参加者は自ずから発言が過激になる。過激な意見は当然に口を挟む点が多くなり、それが討論の場を盛り上げる。
そしてそれは制作者側が望むところでもある。 そして視聴者である僕は、口を挟む点を目の前に差し出されることから、自ら進んで番組に参加して行くのである。僕がテレビの前にして、口に出さずとも、思いの中で番組参加者の討論にそれぞれ意見を言う、その意見は反論なき絶対的な意見でもある。
その僕の意見は誰に向けて差し出されるのだろう。少なくとも日々にささやかに降り積もる不全感を解消する、一種のカルタシスを得られる効果がそこにはあるように思える。つまりは自分の中の問題を別の形で解消するために、深夜の討論番組は消費されるのかもしれない。そしてめでたく視聴者である僕の中で番組は完成するのである。
僕は確かに深夜放送の討論番組に、テレビ局の場にいなくても参加していた。そうしてこのブログでその事を書いている。それは一言で言えば、討論番組が造り上げた物語への参加でもある。仮にその討論番組で失策があったとき、様々な伝達手段で批判が沸き上がることだろう。でもそれは見方を変えれば、制作者側が意図した物語に参加できない事への不満でもあり、批判することでまた別の新たな物語を造ることでもある。そうした場合、制作者側は視聴者のヘゲモニーを意識すると同時に、番組が視聴者と共に造っていると実感するように思える。つまりはテレビ制作者への批判は、どういうものであれ、テレビの中心性を強化することに繋がる、と僕は思う。
最近、日経ビジネスEXPRESSのサイトで大橋巨泉氏は次のように語っていた。
一つだけ巨泉氏と僕との間で違う感覚があるとすれば、勝ち組とかそういう陳腐な物言いではなく、巨泉氏はニュースやスポーツ中継を他の番組と切り分けている点である。
僕の感覚では、テレビで放映する番組はニュース・スポーツ中継に分け隔てすることなく、番組制作の手順に則って流れていると思うし、内容に関しても制作者側の思惑の中で制作しているのではないかと思っている。つまり僕にとって、ニュースとスポーツ中継を分け隔てすることは出来ないのである。
さらに僕にとっては、巨泉氏が活躍された11PMの系譜は姿を変えて各放送局のニュース番組に受け継がれている、とも思っている。あれらのニュース番組はバラエティ番組ではないのだろうか。 僕にとっての問いは、ニュースやスポーツ中継を、その他のテレビ番組から切り分け、結果的にテレビを見ていないという感覚がどのようにしてできあがったのかと言うことである。
確かに1日24時間という人間の活動時間の取り合いをしている諸々のサービスが多くなった現在、テレビに割り当てる時間は以前より少なくなったのは事実だと思うが、それ以上に僕らの生活の中に浸透している事が、テレビを見ているのに見ていないと言う感覚を育てているように思える。また別の見方をすれば、テレビという存在は従来の電気製品としての受信装置だけでなく、ネット上においても存在している。僕にとってはその 「見ているのに見ていないという感覚」が怖いと思うのである。
僕を例にあげれば、週に5時間くらいである。これは多いのか少ないのかそれとも平均なのかがわからない。きっと平均などというのはないのかも知れぬ。つまりは自分の過去から現在までの推移の中で、徐々に見なくなっていった、その感触で 「見ている」とか「見ていない」などと言うのであろう。僕の場合、週5時間でも見ているのは事実なので、やはりテレビは見ていると言った方が正解なのかもしれない。などと愚にもつかぬ事を考える。
つい最近眠れぬと深夜にテレビをつけたら討論番組をやっていた。田原総一郎氏が司会の番組で、何を討論していたのかはすっかり記憶から抜けている。でもその番組の参加者で政治家の菅直人氏がテレビの権力性について語り、それは誤解だと田原氏とテレビ関係と思われる人が反論していた。
これは面白そうだと少し見たが、双方ともテレビに権力が「ある」「ない」のやり取りに終始して埒がない。反論側は、テレビ制作は視聴者が望むものを造ると言っていたが、おそらくそれが制作者側の実感でもあるのだろう。その意見に対し、視聴者とはいったい誰を指すのか、気になるのは視聴率ではないのか、などの使い古された物言いをするつもりも僕にはない。テレビだけでは、討論会で制作者側が言うとおりに権力など持たないと思うからだ。実態不明の視聴者と組んでひとつの番組を造り、そしてそれが管直人氏のいう所の権力となるのだと思うのである。
実態不明の視聴者と言ったが、実際はこの討論番組で言えば、少なくとも実態不明ではなく、そこに僕が視聴者の一人としているのは間違いない。何故討論番組を制作するのだろう。それはテレビというマスメディアの意見を代弁する仕組みであり、全ては制作者側の意図によってバイアスされる。
その中で参加者が語る意見の責任は制作者側ではなく、語った参加者の責任になる。勿論、テレビというメディアの中では画面に多く登場する者が番組の中で主体となるのだから、時間制限の中で、参加者は自ずから発言が過激になる。過激な意見は当然に口を挟む点が多くなり、それが討論の場を盛り上げる。
そしてそれは制作者側が望むところでもある。 そして視聴者である僕は、口を挟む点を目の前に差し出されることから、自ら進んで番組に参加して行くのである。僕がテレビの前にして、口に出さずとも、思いの中で番組参加者の討論にそれぞれ意見を言う、その意見は反論なき絶対的な意見でもある。
その僕の意見は誰に向けて差し出されるのだろう。少なくとも日々にささやかに降り積もる不全感を解消する、一種のカルタシスを得られる効果がそこにはあるように思える。つまりは自分の中の問題を別の形で解消するために、深夜の討論番組は消費されるのかもしれない。そしてめでたく視聴者である僕の中で番組は完成するのである。
僕は確かに深夜放送の討論番組に、テレビ局の場にいなくても参加していた。そうしてこのブログでその事を書いている。それは一言で言えば、討論番組が造り上げた物語への参加でもある。仮にその討論番組で失策があったとき、様々な伝達手段で批判が沸き上がることだろう。でもそれは見方を変えれば、制作者側が意図した物語に参加できない事への不満でもあり、批判することでまた別の新たな物語を造ることでもある。そうした場合、制作者側は視聴者のヘゲモニーを意識すると同時に、番組が視聴者と共に造っていると実感するように思える。つまりはテレビ制作者への批判は、どういうものであれ、テレビの中心性を強化することに繋がる、と僕は思う。
最近、日経ビジネスEXPRESSのサイトで大橋巨泉氏は次のように語っていた。
ビル・ゲイツもブッシュ家も、ニュースやスポーツ中継以外、テレビなんか見てませんよ。(日本も)勝ち組とか金持ちとかインテリがテレビを見なくなっただけなんですよ。負け組、貧乏人、それから程度の低い人が見ているんです。
(中略)テレビは今に「貧困層の王様」になるはずです。
(大橋巨泉「金持ち、勝ち組、インテリはテレビなんか見なくなった」から引用)米国は僕にとっての基準ではないので、別に大橋巨泉氏の言葉に反応するつもりもない。
一つだけ巨泉氏と僕との間で違う感覚があるとすれば、勝ち組とかそういう陳腐な物言いではなく、巨泉氏はニュースやスポーツ中継を他の番組と切り分けている点である。
僕の感覚では、テレビで放映する番組はニュース・スポーツ中継に分け隔てすることなく、番組制作の手順に則って流れていると思うし、内容に関しても制作者側の思惑の中で制作しているのではないかと思っている。つまり僕にとって、ニュースとスポーツ中継を分け隔てすることは出来ないのである。
さらに僕にとっては、巨泉氏が活躍された11PMの系譜は姿を変えて各放送局のニュース番組に受け継がれている、とも思っている。あれらのニュース番組はバラエティ番組ではないのだろうか。 僕にとっての問いは、ニュースやスポーツ中継を、その他のテレビ番組から切り分け、結果的にテレビを見ていないという感覚がどのようにしてできあがったのかと言うことである。
確かに1日24時間という人間の活動時間の取り合いをしている諸々のサービスが多くなった現在、テレビに割り当てる時間は以前より少なくなったのは事実だと思うが、それ以上に僕らの生活の中に浸透している事が、テレビを見ているのに見ていないと言う感覚を育てているように思える。また別の見方をすれば、テレビという存在は従来の電気製品としての受信装置だけでなく、ネット上においても存在している。僕にとってはその 「見ているのに見ていないという感覚」が怖いと思うのである。
登録:
投稿 (Atom)