2004/11/16

「モーターサイクルダイアリーズ」を見て「旅」を考える

この記事は「モータサイクルダイアリーズ」を見た感想でも、チェ・ゲバラの紹介でもありません。映画 をみて「旅」の事を考えた「試案」と思ってください。映画の感想とチェ・ゲバラの事を期待して読んだらきっとがっかりするでしょう。「試案」ですから内容 は不十分です。それを覚悟してくれる優しい人はどうぞ^^ちなみに、映画の感想は「素晴らしい」の一言です。
「旅行計画:4ヶ月で8000km走る。方法:いきあたりばったり。目的:本でしか知らない南米大陸の探検。移動手段:怪力号。1939年式のノートン500だ。」

別に大志があるわけでもない二人の若者が無計画な旅に出る。何処にでもある風景だと思う。僕もこの二人と同じ時期にモーターサイクルで旅に出た事が ある。僕の場合は日本国内だけど、東京から縦断して新潟に、そこから日本海沿いに九州長崎まで行き、帰りは福岡から船で神戸経由で東京に戻ってきた。延べ 日数約2週間。映画と同じように無計画。泊まりは野宿。長崎は友人の家に着いた時、友人は夜逃げをする前日という状況で、おかげで僕はその手伝いまでさせ られた。でもその話は今回では余計な話。

旅の移動手段を何にするかは結構重要な話だと思う。二人は旅の前半モータサイクルを使った。その理由は自動車を使うほどのお金がな かったのかもしれない、もしくは南米の悪路で取り回しが聞くモータサイクルを選択したのかもしれない。でもいずれにせよ、旅の道具としてモータサイクルは 適切なような気がする。

僕にとって旅の感覚で大事なことは「もっと遠くに」という気持ちだ。家から出て遙か遠くに来たと感じる事が旅の感覚だと思う。それは 心で感じることだから、実際の距離の問題ではない様に思える。人生が旅だと良く聞くけど、それはその気持ちが同じだからかもしれない。そして遙か遠くに来 たという感覚は、移動する過程で過ぎ去る土地の空気に触れる事と無縁ではないように感じる。空気に触れるとは、自分が慣れ親しんだ土地とは違う感覚を味わ う事で、それは過ぎ去る景観の違い、家々の違い、そして土地の人々との会話で味わう事など、旅人が感じる総体として心に伝わる様に思う。だから、移動手段 としては徒歩、自転車、そしてモーターサイクルの順番で人は旅を感じる様に思える。モータサイクルが適切だと思うのは、乗り物(飛行機・船・自動車)の中 では比較的その空気を感じることが出来ると思うからだ。勿論徒歩には敵わないとは思うけど。
「お母さん、ブエノスアイレスを出て、惨めな生活とも退屈な講義ともお別れです。」
旅は人を開放的にする。それは「遠くに来た」という感情と無縁ではないように思える。自分の生活空間の引力から脱した時に開放感を味 わうと思うのだ。モータサイクルのタンデムシートに乗ったゲバラは両手を鳥のように水平にのばすシーンがあるけど、それはその開放感を良く現していると思 う。開放的になると人は生活する場所では考えられない行動を行うときがある。映画の中に出てくる逸話は、貧乏旅行での知恵を見せているが、その知恵が出る 背景に旅の開放感は無関係ではないように感じる。

ただ、ゲバラは旅の前半は自分の生活を引きずっていて開放的にはなり得なかった。それは彼の性格に依るところが大きいけど、僕にとっ ては2つの理由も幾分あるように思える。1つは恋人への気持ち。もう一つは彼の持病である喘息。彼女への気持ちは、具体的には彼女から預かった15ドルが それを現している。アルベルトがその15ドルに気がつき、そのお金を使わせようと色々な事を言うが、その都度チェ・ゲバラは頑なに拒否する。その時にアル ベルトが言う言葉「お前はあの女に骨抜きにされているんだ」は、旅に出て既に開放的になったアルベルトが、未だに生活を引きずっているゲバラに対して言う いらだちの言葉のように聞こえる。それがなくなるのは、彼女からの別れの手紙(だと思う)を受け取ってからだ。一日海を見てゲバラは彼女を失った世界を受 け入れる。

開放的になると言うことは、心の状態が様々な外的変化を受け入れやすくなっている様にも思える。考え過ぎかもしれないが、彼女との別れから、ゲバラは旅の様々な出会いに自分の心をより開いていった様に感じる。

旅人は旅人である限り傍観者の立場になる。旅人は移動する者である。移動する限り、その旅の過程での出来事は傍観者の立場にならざるを得ない。

ただ、ゲバラは自分が傍観者であり続ける事は出来ないと感じている。そう感じたのは、砂漠で出会ったインディオの夫婦との出会いからだった。仕事を求めて 放浪する夫婦は、旅が目的の旅を理解する事が出来ない。ゲバラにとってインディオの夫婦が自分に向けられる目は厳しく感じたことだろう。その時、ゲバラは 自分が、インディオの夫婦を取り巻く世相に対し、傍観している姿に恥ずかしさを覚えたように思える。傍観者であれば、全体を見つめ客観的に世相を批判する 事は出来るかもしれない。でも傍観者である限り、苦しんでいる人達が自分の姿に共感を持つ事は難しいだろう。だから、それ以降彼は旅人であることを意識的 にやめようとする。僕にとって彼女から預かった15ドルをそのインディオの夫婦に渡す事は、ゲバラがその夫婦側に入る事を象徴しているように思えるのだ。

それ以降彼は旅人でありながら、積極的に人の中に入っていく。それでも傍観者の立場であることには変わりはなかった。その立場が大き く変わるのはハンセン病診療所に着いてからだと思う。「モータサイクルダイアリーズ」での旅の終わりはベネズエラのカラカスではないと思う。二人の旅の終 わりはこのハンセン病診療所のように感じる。彼らはいずれこの診療所からいなくなる人ではあるが、それを考える事なく二人はここに止まって働く。その時既 に二人は傍観者ではない。それが象徴的に現されているのが、ゲバラが診療所で迎える誕生日に河を泳ぐシーンだと思う。若さ故の情熱と言えばそれまでだが、 僕にはゲバラが自分の命を省みず、傍観者であることをやめ、積極的に彼らの中に入る姿がそこにあるように思える。だからこそ、ハンセン病患者達はゲバラを こころから受け入れたと思うのだ。

原作ではこの河を泳ぐシーンはない。これは映画のハイライトとして脚本家が創作した逸話である。でも後日「チェ」と親しみを込めて呼ばれるゲバラの事を知っている僕には、この逸話が不自然に思えない。

旅には必ず出発点があり終着点もある。仮に旅をし続ける人がいたとしても、僕には必ず旅の終わりは、その人にも訪れると思っている。 例えその終着点が次の旅の出発点になったとしても、やはり旅は「何処から何処へ」があるのだと思う。でもこれは旅だけではないのかもしれない、ゲバラに とってこの旅は、彼の人生においてチェ・ゲバラになる為の出発点だったのかもしれない。

同様に思う事は、現代の僕等は一体何処から何処に向かっていくのだろうかと言うことだ。できれば僕等の旅が次の世代の幸福に続く事が出来ればと願う。でもその為には、旅の途中でも立ち止まって考える必要があるのかもしれない。そんな気がする。

追記:
・歩くという事は色々なことを考える事が出来る様な気がする。モーターサイクルが壊れ、二人の旅が徒歩に変わってからの旅の内容は、モータサークルの時と較べ思索的になっていった感じを受ける。(2004/11/16)

・香田さんの事を考えた。彼も同様にイラクの探検旅行だった。そしてその旅は映画のゲバラのように自分探しの旅でもあった。彼が戻っていたら、お父 様が言われたように、人類の平和のために活躍した人になっていたかもしれない。僕は、映画で同感する事が、実社会では批判される事に不思議を覚えてしま う。(2004/11/16)

・旅に出ると、何でも見てみようやってみようと、好奇心が旺盛になる様な気がする。好奇心は悪いことではないけど、そればかりで終始すると「旅」の 深さを味わうことが出来ないように思える。「旅」の深さとは、自分を異なる環境に身を置いて振り返る事で得られる様な気がする。結局は自分を探すことが 「旅」の1つの姿かもしれない。映画のゲバラの場合、好奇心だけではなかった様に思える。彼はいつも旅の途中で「手紙を書く」ことで立ち止まり、振り返 り、そして考えていたと思う。 (2004/11/16)

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