2004/11/25

小泉八雲雑感

以前このブログでも少し書いたが、二十代前半に九州までモータサイクルを使って旅行したことがある。 その時九州までのルートに日本海側を使ったが、それには幾つか理由がある。東京に生まれ住み、北陸山陰に縁者のいなかった僕にとって行く機会が将来にわた り数少ないことが予想される事、つまり滅多に行けないのならこの際行ってみようとの気持ちがまず最初。その次ぎに山陰には高校大学を含めて読んだ書籍から 受ける数多くのこだわりがあった事。そのこだわりの中に松江の小泉八雲がいた。

小泉八雲が松江に住んでいた1年と3ヶ月の短い間に書かれた中に「神々の国の首都」があり、僕はその中の松江の風景に憧れたのだった。
「松江の一日で最初に聞こえる物音は、緩やかで大きな脈拍が波打つように眠っている人の丁度耳の下からやってくる」
小泉八雲がこの時書いた松江の朝の状況は、勿論今では失われた風景でもある。しかしその風景は彼にとっても失われるに至った時間は短かった。
後日松江を再訪した小泉八雲は同じ風景、同じ友との交わりの中に少なからぬ違和感を感じている。その違和感は小泉八雲にとっては過去の印象が「知らなかった故の幻想」と捉え、「出雲再訪」の中で次のように書いた。
「やがて私は、人の幸せの大方(おおかた)は物の実体を知らぬ事にあるのではないかと考えはじめていた」
「幸せ」には個性があるので、人によって様々だと思う。小泉八雲が考えた「幸せ」に異論を言うつもりは僕には全くない。ただ僕にとっては、小泉八雲 は一人の旅人であり、旅人の目で「神々の中の首都」の松江を描いていた様な気がする。そして最初の印象は旅人としての彼の心象風景でもあった感を受ける。

「松江再訪」での小泉八雲は既に旅人ではない。実体を知り且つ急速な日本の西洋化に幻滅を感じた彼は、祖国に戻る気持ちもあるが、既に家庭と子供を持ち日本での生活を選ぶにいたる。その時点で彼の心は旅人のそれではなかったと思うのだ。

彼の言う「実体」とは一体なんだったのだろう。それは明治という急激な時代変化とは無縁ではないと思うが、やはり僕には「旅人」と旅を終えての「生活者」への意識変化のように思えて仕方がない。

「生活者」になれば、日本は神々の国ではなく、そこに住む人々も妖精ではなかった。彼が見る急激な日本の変化は、裏を返してみれば、彼の旅人だった頃の心 象風景への回帰を望む心の叫びだったように感じてしまう。だとすれば彼の希望は、根本に外的要因でなく内的要因があるので、時代の変化に関係なくかなえら れることはなかったように思うのだ。

僕の二十代のツーリングでは、宍道湖畔にたどり着いたのが真夜中だった。真夜中の静寂の中で僕は静かな湖のさざ波を聞いた。それもまた一人の旅人の 心情だったと思う。その時に地元のライダーと偶然に知り合いしばらく湖畔で話を交わした。主にモーターサイクル談義であったけど、最初に地元の見所として 紹介してくれた場所が「小泉八雲記念館」だった事を覚えている。今思い返せば、彼の中にも小泉八雲が書いた松江の美しさへの誇りがあったのかもしれない。

画像は小泉八雲とその家族。妻(節子)と長男(一雄)。今年は小泉八雲没後100年の年でもある。

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