2005/04/21
ブラフ・シューペリア
T.E.ロレンスはモータサイクルが大好きだった。彼が乗るバイクは決まっていた。1921年に操業開始したブラフ・シューペリアである。バイクのロールスロイスとして名高いこのバイクを彼はこよなく愛した。
ブラフ・シューペリアの歴史は1908年イギリスのノッチンガムから始まる。父であるW.E.ブラフが始めたモータサイクル事業を息子であるジョージが引き継いだのである。別途会社を興したのは、一族の不和が原因とされている。
バイクのロールスロイスと宣伝した理由の中で最も大きいのは、値段が高いことだった。勿論、高品質でありスタイリングも良いことから、高くてもこのバイクは売れた。ブラフ・シューペリアがその歴史を閉じたのは、第二次世界大戦で戦時協力としてバイク製造を辞め、1940年に航空機部品の製造に転換した事による。その後二度とバイク製造に戻ることはなかった。
T.E.ロレンスはブラフ・シューペリアのSS100シリーズの全シリーズを購入して、友人であるジョージの名前を付けた。ご存じの通りにロレンスはバイク事故が原因で亡くなるのだが、その時に乗っていたのはジョージ7号であった。実はジョージ8号を既に購入済みで納品の為の整備中でもあった。最後に乗っていたジョージ7号は現在英国「The National Motor Museum 」で展示している。
T.E.ロレンスが「アラビアの」と形容詞を付けて紹介されたのは映画による功罪が大きいだろう。功としてみれば、この極めてユニークな男が認知されたということ、罪で言えば、ロレンスがその時点から面々と続く中東問題の一つの責任を担っていると誤解されたことである。
ロレンス研究でも明らかなように、ロレンスに現在の中東問題における責任は一切ない。
そのロレンスの言葉に「スピードの向こうに永遠が見える」がある。本当にこのような言葉を彼が語ったのかは真偽の程は僕にはわからない。ただ、彼の言葉としてふさわしい印象を受ける。実はこの言葉は漫画「ケンタウルスの伝説」から知った。以前に(今でもあるかわからないか)「ミスター・バイク」という月刊雑誌があり、そこに連載されていた漫画だった。
横浜にあるバイク屋「ケンタウルス」のマスターとそこに集まるライダーの物語であり、登場する男たちは殆どが中年だった。バイクという乗り物の一つの姿をそこに僕は見た。
その漫画で、ある時コーヒーを飲みに行くことになった。行くべき珈琲屋は神戸にある。それを日帰りで飲みに行くのだ。横浜から神戸まで。漫画の中では「600マイルブレンド」と称していた。チーム・ケンタウルスとは実在するバイク屋なので、この話も実際にあった話だとおもう。馬鹿な男たちだが、格好が良いのだ。
今から考えれば、その珈琲屋は「茜屋珈琲店」ではないかと想像する。神戸三宮に昭和41年に船越さんが開いた「茜屋珈琲店」は、船越さんが軽井沢に転居することより、店を軽井沢に移した。家の近くに暖簾分けした「茜屋珈琲店」がある。そこのカレーが美味である。
1935年5月13日、肉屋の店員バート・ハーグレーブスと友人のフランク・フレッチャーは、商品の配達のため、自転車で走っていた。後方からブラフ・シューペリア(ジョージ7号)に乗っていたロレンスが近づくが、道は見通しが悪く、避ける間もなくバートの自転車と衝突してしまう。ロレンスは投げ飛ばされ頭を強く打ち意識不明となる。そのまま病院に運ばれるが6日後の19日の朝死亡する。46才であった。映画では自転車を避けるための単独事故と扱われたこの事件は、ロレンスの英雄像を造る意図がそこにある。ロレンスは少なくともステレオタイプに語られる英雄ではないと僕は思う。でも何故か、リンドバーグと共に惹かれる。
ブラフ・シューペリア SS100
エンジン:OHV 2気筒
ボア・ストローク:80×99mm
排気量:998cc
推定最高出力:45馬力
気化器:ブラフ・ダブル・フロートチャンバー
点火方法:マグネト?発電機
変速機:4速手動変速
フレーム:チューブラークレードル
ブレーキ:前後ドラムブレーキ
重量:181kg
最高速度:161km/h
ロレンス参考サイト:「アラビアのロレンスを探して」
ブラフ・シューペリア参考サイト:ブラフ・シューペリア
画像はロレンスが最後に乗っていたジョージ7号
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