2012/02/27

竹内佐蝶子さんの写真

恵比寿の和の雑貨屋「Ekoca」にて開催している竹内さんの写真展に行ってきた。彼女の写真はフォルム現像を備中和紙に焼き付けている。店の方に竹内さんの作品の意図を聞いてみたところ要は備中和紙にあるとのことだった。そして写真に撮っているモノは全て倉敷の伝統工芸品である。備中和紙の素材感がモノクロプリントされた伝統工芸品を引き立たせる。しかしそれでも僕にとってはこれらの組み合わせで竹内さんが何を表現したかったのかがわからなかった。竹内さんの写真はすんなりと僕の中に取り込まれた。それは僕にとって異物ではなかった。いやもしかしたらそれは異物だったのかも知れない。それを僕は鈍きがゆえに後々のことを考えずに一気に飲み干してしまったのかも知れない。実を言うと徐々にそんな思いが沸き上がっていたのだ。その様に思い至ったのは竹内さんの写真展を観てから一日経った今日のことだ。

僕は竹内さんの写真を思い返し表現ということを考え始めていた。彼女が何かを表現しようとしたときに備中和紙も倉敷の伝統工芸品もそして写真も単なるモノとしての道具でしかない。そうであれば「Ekoca」の店の方が言われていたことは誤りだということになる。しかし竹内さんの伝統工芸品の写真の向こうにある何かは備中和紙と伝統工芸品とそして写真でしか現すことが出来ないだろうことも作品がそうである以上間違いないことだとも思う。

モノとしての交点、そしてそのモノを造り出す人の営みとしての交点、モノの一つ一つが現すモノ以上の何かの交点、それらの方向としてのベクトルが混じり合うところに確かに竹内さんの写真、つまりは表現があるのだ。何故手間をかけ備中和紙に伝統工芸品をプリントしたのか。その理由は伝統工芸品をモノではあるが、それらを造る人たちへの思いを現すためにそうせざるを得なかったのではないか。モノはどんなモノでも単なるモノではないのだという事実を、そこに人の営みが在るという事実を現すために彼女はこの手間を行ったのではないだろうか。

そんなことを僕は街を彷徨いながら考え始めたのだった。

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