2012/02/29

誰が撮ったのかが大切な時がある

時として写真はその写真を誰が撮ったのかが大切なときがある。昔の写真を観たときそう思った。その写真は幼い姉が母の右側に立ち、僕はまだ赤ん坊で母の胸に抱かれている。姉の手はしっかりと母の手を握っている。顔は何故か少し困ったような表情をしている。母も写真に撮られ馴れていないせいか緊張気味でカメラを凝視している。全体的に和やかな雰囲気が出ていないのは撮影した場所が街角だからだろう。親子三人の傍らには電柱があり、背景には商店街が小さく見える。この写真を誰が撮ったのかはこの時の記憶がない僕でもわかる。おそらく父だ。母が三脚を立てセルフタイマーでこの写真を撮ったとは考えられない。それだけのことをして撮るべき場所ではないし、その前にそれが出来る母でもない。無論だからと言って撮影者が父だとは限らない。でもこの二人(母と幼い姉)の表情を観れば父だとわかる。そういうものだ。逆に言えばこの写真に写っていないからこそ、父の存在がこの写真から浮き彫りになる。その意味でこの写真は家族四人の写真だ。確かにこの場所に父がいて母と子供たちにカメラを向けたのだ。その父の存在証明は写真に写っていないからこそ、そして家族だからこそわかることだ。例えば恋人が撮った自分の写真を観るときに、その時の情景と共に恋人のことを思うように、その人の視線は写っているものにはない。

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