アソーレス諸島の最西端の島、フローレス島にある「世界の果て」というバーで「世界の終わり」というカクテルを飲み、ぐでんぐでんに酔っ払って朝を迎える。そして断崖から世界の始まりのような朝焼けを全身に浴びそこで泥のように眠る。目が覚めてもきっと世界は変わっていないだろうけど、少なくとも一瞬はなにかを感じることが出来るだろう。特別な何かを。その一瞬で忘れ去られてしまうような特別な何かを。
2012/02/29
大海の孤島
ある人と旅行の話になり、行くとすればどこに行きたいかとお定まりのやりとりになった。実を言えばその簡単なやりとりにはいつも困る。「どこ」という強い思いは少しもないのだ。「どこ」ではなくただ「どこか」を彷徨いたいという思いであれば語ることが出来るが、それでは話にもならない。そしてその彷徨う場所は日本のどこかなのだ。「旅」には帰るべき家がある、そして帰るべき家を一時的に失念すること、それが本領のような気がする。しかし「彷徨う」には帰るべき家とか場所を何処かに求め探している様にも思える。だから人は「彷徨う」時、帰るべき「家」を失念することはないような気がする。
で、どこに行きたいかを聞かれた時、さすがに「どこか」とは言いづらく、あえて思ってみると出てくる場所は殆ど太平洋もしくは大西洋の島々だった。それも大陸に近い島ではなく大洋に浮かぶ孤島群。誰かが言っていたが島には二種類あるのだそうだ。大陸の近くにあり大陸を求める島と大洋の中にあり大陸から離れようとする島である。僕の言う島は勿論後者。日本は前者の島になるだろう。大海に浮かぶ島を「孤島」と呼ぶのは、それはあくまでも大陸からの視線に過ぎない。逆に大陸と大陸を求める島々にこそ「孤島」と呼ばれる状態があるようにも思う。人は何らかの集団に属さなければ生きていくことは出来ない。しかし集団に入るからこそ、その集団の中で、人との交わりの中で、人は孤絶を感じることになる。その点においては島も似たようなものかもしれない。大陸近くにあって大陸を求めるが故に日本は大陸と自分の違いに神経質になっていく。孤独にはなりたくないから。
おそらく僕が大洋の中の島々に行きたい理由はそこにある。要するに大陸が定めたルールによる孤独から離れたいのだ。果たして交通が発達し隅々まで大陸の力と社交が求められる現代で絵に描いたような大海の孤島があるとはとても思えないが。それでもおそらく行きたい理由はそこにあるのだと思う。
誰が撮ったのかが大切な時がある
時として写真はその写真を誰が撮ったのかが大切なときがある。昔の写真を観たときそう思った。その写真は幼い姉が母の右側に立ち、僕はまだ赤ん坊で母の胸に抱かれている。姉の手はしっかりと母の手を握っている。顔は何故か少し困ったような表情をしている。母も写真に撮られ馴れていないせいか緊張気味でカメラを凝視している。全体的に和やかな雰囲気が出ていないのは撮影した場所が街角だからだろう。親子三人の傍らには電柱があり、背景には商店街が小さく見える。この写真を誰が撮ったのかはこの時の記憶がない僕でもわかる。おそらく父だ。母が三脚を立てセルフタイマーでこの写真を撮ったとは考えられない。それだけのことをして撮るべき場所ではないし、その前にそれが出来る母でもない。無論だからと言って撮影者が父だとは限らない。でもこの二人(母と幼い姉)の表情を観れば父だとわかる。そういうものだ。逆に言えばこの写真に写っていないからこそ、父の存在がこの写真から浮き彫りになる。その意味でこの写真は家族四人の写真だ。確かにこの場所に父がいて母と子供たちにカメラを向けたのだ。その父の存在証明は写真に写っていないからこそ、そして家族だからこそわかることだ。例えば恋人が撮った自分の写真を観るときに、その時の情景と共に恋人のことを思うように、その人の視線は写っているものにはない。
2012/02/28
信じられるのは紙とペンだけになってしまった
「信じられるのは紙とペンだけになってしまった」とは森山直太朗の詩の一節。でもきっとその紙にそのペンで何かを書けばその紙は信じることができなくなるかもしれない。何も書いていないからこそ、紙は、ペンは信じられるのではなかろうか。このペシミズムとも言える発想はきっと紙とペンを持ち書く人間を単独で見ている結果かも知れない。複数の人間が紙とペンを持ち様々な視点で何かを書けば信じられるものになるのかも知れない。と、この考えはオプティミズム過ぎるかも知れないが。
南太平洋の砂漠
南太平洋のど真ん中に海の砂漠があると聞いた。そこは海のただ中になりながら静かで波も立たず果てしなく透明である。海が透明であると言うことは食物連鎖を支えるプランクトンが居ないと言うことだ。だからそこには魚はいない。魚がいなければそれを捕食するより大きな魚も当然にいない。そこにかつて難破した捕鯨船の船員が救命ボートで流されてやってきたという。海流はその海の砂漠に向かって流れているのだ。船員たちは飢えと疲労のために瀕死の状態だった。そこで彼らはクジをつくる。誰が皆のための食料になるかのクジだ。そして彼らの何人かは生き残る。
食物連鎖の頂点に人間は居るという。でも当たり前のことだが頂点にいる以上、人間は結果的にプランクトンなどの生物に依存しているということなのだろう。
伊丹十三さん
伊丹さんの特集がNHKにて放映していたらしい。僕はそれをNHKオンデマンドで知った。亡くなられてから十五年経ったのだそうだ。特集を見ながら自分が伊丹さんにそれほど興味がないことがわかった。それでも彼の言葉に強く共感をもった。それは「俺は空っぽの容器なのだ」という一言だった。「空っぽの容器」という感覚。その感覚を僕は人間の構造の中でしたり顔で語ることが出来る年齢になった。しかしいくら語ろうとも空っぽの容器に何かで満たされることは決してない。でも伊丹さんは満たされる何かが何であれば満たされたと感じることが出来たのだろうかと、そんなことも考えた。もしかすれば「空っぽの容器」には底がないのではなかろうか。だから常に空っぽなのだ。でも僕は底がないことを知ることはない。で、常に満たされぬまま満ちた状態を想像しながら、そうあることを渇望し続けるのだ。
2012/02/27
竹内佐蝶子さんの写真
恵比寿の和の雑貨屋「Ekoca」にて開催している竹内さんの写真展に行ってきた。彼女の写真はフォルム現像を備中和紙に焼き付けている。店の方に竹内さんの作品の意図を聞いてみたところ要は備中和紙にあるとのことだった。そして写真に撮っているモノは全て倉敷の伝統工芸品である。備中和紙の素材感がモノクロプリントされた伝統工芸品を引き立たせる。しかしそれでも僕にとってはこれらの組み合わせで竹内さんが何を表現したかったのかがわからなかった。竹内さんの写真はすんなりと僕の中に取り込まれた。それは僕にとって異物ではなかった。いやもしかしたらそれは異物だったのかも知れない。それを僕は鈍きがゆえに後々のことを考えずに一気に飲み干してしまったのかも知れない。実を言うと徐々にそんな思いが沸き上がっていたのだ。その様に思い至ったのは竹内さんの写真展を観てから一日経った今日のことだ。
僕は竹内さんの写真を思い返し表現ということを考え始めていた。彼女が何かを表現しようとしたときに備中和紙も倉敷の伝統工芸品もそして写真も単なるモノとしての道具でしかない。そうであれば「Ekoca」の店の方が言われていたことは誤りだということになる。しかし竹内さんの伝統工芸品の写真の向こうにある何かは備中和紙と伝統工芸品とそして写真でしか現すことが出来ないだろうことも作品がそうである以上間違いないことだとも思う。
モノとしての交点、そしてそのモノを造り出す人の営みとしての交点、モノの一つ一つが現すモノ以上の何かの交点、それらの方向としてのベクトルが混じり合うところに確かに竹内さんの写真、つまりは表現があるのだ。何故手間をかけ備中和紙に伝統工芸品をプリントしたのか。その理由は伝統工芸品をモノではあるが、それらを造る人たちへの思いを現すためにそうせざるを得なかったのではないか。モノはどんなモノでも単なるモノではないのだという事実を、そこに人の営みが在るという事実を現すために彼女はこの手間を行ったのではないだろうか。
そんなことを僕は街を彷徨いながら考え始めたのだった。
2012/02/26
蝶ネクタイ
蝶ネクタイ姿に驚かなかったのは母だ。母は亡き父が生前にネクタイと言えば蝶ネクタイをしていたことを僕に告げた。僕はそれを知っていた。写真で見る彼は蝶ネクタイをしている姿が多かったからだ。それは結んだときに蝶の形になるのではなく小ぶりの棒状になるもので棒タイと一般に言われるものだった。父の時代はまだボウタイもしくはバタフライがネクタイとして一般的に使われていた。残念なことに今では入手自体が難しいモノとなっている。ネットで買えないことはないがやはり実物を見て素材とか結んだ時の大きさなどを確認して買いたい。そういうわけで僕はまだ二本しか持っていない。
2012/02/21
「忙しい」と語るのは
「忙しい」と語るのは好きではないし今までも語ったことはない。その僕が今は「忙しい」といっている。全く似合わない話だ。忙しいのは会社の仕事だ。そしてその理由もわかっている。「忙しい」のはそのミッションをクリアするだけのスキルがないからだ。タスクはすぐに思い浮かぶ。つまり何を自分がやったらよいのかはわかる。ただ一つ一つのタスクを処理するための最短距離が見つからない。それになぜだかモチベーションも上がらない。
2012/02/18
もう一つの永遠
「永遠に続く」で使われる「永遠」は「時間的」に何らかの「動き」が在り続ける様を現している。何も言葉遊びをしている訳じゃない。その言葉の意味は言葉の使われ方で僕らは理解しているし、逆に言葉の使われ方で言葉の意味を僕らは固定されてもいる。「永遠」は時間的な流れのなかにある。それは果てなく拡がる水平のようだ。でも考えてみると「永遠」であれば、そこに「時間」は意味をなさなくなる。「永遠」そのものが在るようなイデアとしての「永遠」。「晴れた日に永遠が見える」確かにその通りだ。果てなく続く(かのように見える)青空にそこに大気の透明感と共に風となって一瞬の中に在ると感じる。「永遠」のイデアは感覚によって感じるほかはない。でもイデアとしての「永遠」以外の「永遠」も感じてみる。その永遠は広がりではなく深さとも言える。その永遠はそこに留まり続ける。時間もなくただ深く一点に集まるような永遠。と、そこまでイメージしたときにその永遠とは「死」の概念に近いようにも思えた。
2012/02/17
チョコレート味の葉巻
チョコレート味の葉巻を火を付けずに匂いだけかいだ。確かにチョコレートの香りがした。しかし火を付けて吸ってみるとそれは煙草の味だった。きっと煙草を吸わない人がその場にいたらチョコレートの甘い匂いを嗅ぎ分けたことだろう。でも吸っている僕にはわからなかった。紫煙が僕を取り囲む。目を閉じてチョコレートのことを思った。
2012/02/16
うさぎとかめ
会社の喫煙室で煙草を吸いながらウサギとカメのことを考えた。あるウサギとあるカメの競争は特定の者たちだけではなくウサギの種族全体とカメの種族全体のその後に影響を与えた。単に個別な話でしかないのに。負けたウサギ側にとっては他のウサギたちには迷惑な話だ。あるウサギはカメに確かに負けた。でも誰だってウサギの方がカメよりも早いことを知っている。とそこまで考えた後にちょこっと気がついた。この競争した距離はどのくらいだったのだろうと。もし距離が札幌から鹿児島だったら、きっとスタミナのあるカメが勝ったに違いない。その前にウサギが津軽海峡を越えられるはずもない。過去に海を渡ったウサギはワニを騙したあのウサギしか知らない。しかもしれは出雲での話なのだ。ゴール寸前でウサギが寝てしまったのは疲れが原因だとすれば、距離を決めたのはきっとカメの方に違いなく、したたかな計算がそこにはあったのだろう。と、ここまでで一本を吸い終わる。
会社のエレベータで
ほぼ満員のエレベータのなかで、女性が二人比較的大きな声で会話をしていた。
周囲は全員男性。年齢的にはおじさんと呼ばれる人たちだ。
「上司がさ、私のこと試しているような眼差しで見つめるのよ」
「えぇ何それ」
「そいでさ、あれやったかこれやったかとかうるさくて」
「うざいねー」
「仕事の話だけじゃなくてね、そのうちに人生論を語り始めるの」
「あはは」
「遠い先にこんなことをしていて会社は大丈夫だろうか、とかね」
「そんなのしるかー」
「そそ、あはは」
おそらく周囲の男性たちは彼女の話にダンボの耳だっただろう。
勿論僕も含めて(笑
でも人生論語り始めたら人生そろそろ終わりって思うよな。
最近の僕はビジネスモードへのスイッチが壊れているようだ
標記の通り。会社に行くときはモードの切り替えを通勤時間内に行う。
会社での価値観だとか常識だとかは会社内だけに通用すると思っているから
そのモードへの切り替えは僕にとっては重要なんだ。
でも時折モードの切り替えがうまくいかなくなる時もある
そんな時は会社内での受け答えにうまく反応ができない。
質問になんて答えたらよいかわからなくなるのだ。
しどろもどろ、もしくは妙に冷静に冷たい回答になってしまう。
そしてその後で自己嫌悪に陥る。
2012/02/15
猫との関係を見事に描いたのは
佐野洋子さんの「猫ばっか」かなぁー
どうせ擬人化して猫を書くのだったら宮沢賢治さんくらいに書かないと。
賢治さんの猫は人間の言葉を話す。そして人間の言葉をうまく話せないことにコンプレックスを持たせる。
語らなかったことを語りたい
語らなかったことを語ることって出来るのだろうか。
思いもしなかったことを思うことが出来るのだろうか。
世界が拡がるとか、もしくは成長するとかの言葉を安易に語りたくはない。
世界が拡がるとかの言葉はまず自分の世界の大きさを知っていなければ語ることが出来ないからだ。
自分の世界の大きさを知るとは自分の境界線を知ることでもあり、境界線の向こうの世界も知ることでもある。
その向こうの世界を知っている人が世界が拡がると語るのは矛盾でしかない。
まず語らなかったことを語るためには自分の限界近くまで辿り着かなければならない。
それが難しい。無知であることは可能性もあると言うことなのかも知れない。
実は僕は擬人法が好きではなかったりする
家で猫と一緒に暮らしている、という書き方も擬人法かもしれない。それは僕の感情であって猫側の話ではない。そもそも暮らしという概念さえないかも知れない。でもどうしようもなく言葉は人間中心なので、僕が猫のことを書こうとすれば擬人的にならざるを得ない。僕は、だからこそ猫のことを書くときは細心の注意を持って書かねばならない、と思っている。猫を通じて僕の考えを述べることは避けたいのだ。
2012/02/14
2012/02/12
ネタバレ
映画の感想に時折「これはネタバレです」とことわりの表示を見ることがあるが、僕にはこの「ネタバレ」の感覚がよくわからない。つまり特定の映画の粗筋を誰かに聞いたとしても、僕にとってはその映画を観て面白いかどうかは別の話のようだ。顕著な例が「シックス・センス」かもしれない。既に粗筋も結末も友人に聞いていたが、自分が初めて観てやはり最後の結末には驚かされた。単に記憶力が乏しいと言えばそれまでの話だが、自分ではそれだけでもないように思っている。誰かが語る粗筋はその人の印象だという思いがあるからだ。だから僕自身がその映画を観てどう思うかはまったく別の話になってしまう。逆に言えば、僕の映画の感想には俗に言う「ネタバレ」が結果的に多いことにもなる。粗筋を書いても気にしないからだ。