2012/04/26

インカ展にて

「遠くへ、もっと遠くへ」の気持ちは僕にとっては根源的なものだ。確かにこの気持ちを分析し様々な要因に分解は可能だろう。しかしそれら要因を確認したところで何故この気持ちなのかが分かるわけでもない。「遠くへ」の気持ちは距離だけではなく時間だけでもない。もっと重要なのは何処から来たのかと言うことだ。「遠くへ」を感じるためには自分が何処にいたのかを知っていなければならない。そして「何処」とは面でも点でも時間だけでもないのだ。それは私のことだし、だから記憶とか社交とかも密接に絡んでいるように思う。

マチュピチュに感じるものは、「遠くに」が具現化したイメージとしてそこに在ると言うことだ。正直に言えば僕は南米とかインカの歴史とかに強い興味を持っているわけでもない。おそらくマチュピチュを撮した写真、大抵は決まった位置から撮されたあの写真、が僕にマチュピチュのイメージを植え付けさせたのは間違いない。その写真にはマチュピチュを眼下に望みながらその先に烏帽子の様な山が写っている。無論マチュピチュの石造りの遺跡には人は誰も写っていない。それは高い山の頂に人知れず残された廃墟であり、未だ多くの人が足を踏み入れていない、つまりは観光化されていない清々とした空気が立ちこめる聖地のような場所で、辿り着くには徒歩で数日かかるようなそんな場所のイメージだった。

無論、今時世界にその様な場所があるとは思えない。あるとすれば辿り着くのに何らかの技術を必要とする様な場所、例えばヒマラヤの山々とか厳冬の南極・北極とかそんな限られた場所なのかもしれない。ただ僕がマチュピチュへの思いを正直に(恥ずかしくもなく)語るとすればそんなイメージが根底にあると思うのだ。

でも一つだけ言えるとすれば、マチュピチュは確かに日本から距離的に相当離れていると言うことで、そこに行くには技術以前に行きたいという意思を持っていなければならないと言うことだろう。そしてその意思は、少なくとも僕にとっては、写真から受けて勝手に造り上げたイメージだけでは持続しないと言うことだ。それに「遠くへ、もっと遠くへ」という気持ちは、マチュピチュによって具現化されているのかも知れないが、現実のマチュピチュに辿り着いたとしても満たされることはない。それはわかっている。ただマチュピチュに辿り着いた時点から、そこを起点とした新たな「遠くへ」という気持ちが沸き上がればそれで良いと思う。

旅とは単に事前に仕入れた知識を確認するための活動ではない。事前に仕入れた知識が全く役にたたないことを知るための活動なのだと思う。そして感覚から受ける新たなる何かを感じることが出来ればそれに越したことはない。だから、そのためには行きたい場所に、それが自分勝手なイメージからの出発であったとしても、ワクワクしながら辿り着くべき場所を目指すべきなのだと僕は思う。

※マチュピチュのことを例に出しながらも、日本にもまだまだ行きたい場所が多く残っている。日本の多様性は底が知れない。きっと日本の多様性を知ることが、逆に他国での多様性の理解に繋がる様にも思う。

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