2012/04/18

ドアノー写真展 2回目

土曜日は出勤だった。夜になって帰るときにとても体調が悪くなった。お腹が重たく力が出ない。かといって下痢というわけでもなく、ただ鈍い痛みと重みをお腹に感じたのだった。やっとの思いで帰宅し、そのまま布団に倒れ込むように横になった。家人から「夕食は?」と聞かれ、「後で」と言ったきりそのまま眠ってしまった。

目が覚めたのは明け方4時頃だった。喉の渇きが強かったので起きて水を飲んだ。水を飲みながら起きる寸前に見た夢を思い出していた。とても嫌な夢だった。体中に疲れが残っていた。仕事には出たが僕にとっては何もない空白の一日のような気がした。そしてまた一日が始まる、僕はしばらく呆然として薄明かりの台所に立っていた。また水を飲んだ。そして頭についた何かを振り払うかのように首を振り再び布団に戻った。二度目の眠りから目が覚めたのは8時半頃だった。昨夜の調子の悪さはなくなっていたが、時限装置のように一定の時間が経つと爆発するような感覚が自分の中にあった。それで行動をとれずにパソコンを触り午前中を過ごした。

ただ一週間に一度はカメラを持って表に出ることを課していたこともあり、早めに家に戻れば大したことはあるまいと家を出た。それが午後の3時頃のこと。渋谷で下りて青山まで歩こうと思った。しかし自分でも気がついていたのは、漠然と街のスナップを撮ってはいたがそれが僕の撮りたい写真でもないということだった。僕にはドキュメンタリーは合わないと感じていたし、ドキュメンタリー写真の面白さがわからなかった。でもとりあえずはそれしかなかった。

渋谷で下りて青山方面に歩き始めたときに、唐突にドアノーの写真展に行ってみようと思い至った。前回はイライラ感がありろくに見てもいなかったし、少なくとも3回は見るつもりでもいたので、これから行ってみるのも良いだろうと思ったのだ。不思議と、肉体の不安定な状態を意識しながらも、心は穏やかであった。ドアノーの写真を一枚一枚丹念に見ることができそうだったし、もしかすればドアノーの精神までたどり着けそうな気もしていた。大げさではなく本当にそう思ったのだった。

恵比寿の東京写真美術館に着いたのは、途中でコーヒーを飲んだりしていたこともあり大体4時頃だった。僕は真っ直ぐにドアノー展が開催しているフロアに向かった。少し暗い階段を下りていくと昨晩見た夢のことを思い出した。丁度その夢の中でも僕は階段を下りていた。そしてその先で嫌な出来事に遭遇したのだった。現実には階段の先には写真展があるだけだったし嫌な思いもすることはなかった。ただ一瞬だがその夢がフラッシュバックして一種のデジャブのように思えたのも事実だった。

ドアノー写真展は今回も人で混んでいた。僕は気を取り直し当初の目論見通りに一枚一枚の写真と文章を丹念に読み始めた。しばらくはそれも続いた、でもそれも展示の中程までが限度だった。やはりドアノーの写真には見るものはなかった。観者として、僕はドアノーの写真を通り過ぎてしまったのか、それとも到達できなかったのか、それはわからない。でも飾られている写真に焦点が合わなかったのは事実だ。写真からは僕に何も語りかけてはくれなかった。何処にでもあるような写真。ありふれた退屈な写真。僕にとってはドアノーの写真とはそういう存在だった。それでも後半に展示されていたパリの風景を写したカラー写真群は面白かった。写真の発色がとても美しかった。それにモノクロとは違いパリという街がカラーに合っていた。同系色でまとめられた落ち着いた色の世界。東京に住む僕にとってそのことがとても新鮮に感じられたのだった。もしかすればドアノーにはカラー作品は少ないがかれはモノクロよりもカラー写真の方が合っていたのかも知れない。そんなことを思った。

何故ドアノーの写真に何も感じないのか。それは僕にとって一つの問題でもある。数多くの現代写真家の手になる写真を見てきた結果でその様に感じるようになったのか。でもそれだとドアノーだけに留まらず他の多くの写真家達に対しても同様のことが言えなければならない。僕は何人かの日本を含めてのドアノーと同世代の写真家達を思った。確かに、僕にとっては、昔の写真は現代から見ると表現の面白さという視点から少し欠けるように思える。そして、特にドキュメンタリー写真と言われるものはその傾向が強い様に思える。写真が写しているのは、カメラのシャッターを切ったその瞬間、つまり一言で言えば「今」なのだから、その写真を観る「今」との間の距離が大きければ面白みも共有できなくなる。その写真に、その写真の「今」と観ている「今」とを貫く何かがなければならない。その何かはおそらく人によって違うことだろう。そして僕はドアノーの写真の「今」と僕自身の「今」とを繋ぐ何もないというなのだろう。

昨夜の台所で感じたのはある種の寂しさだと思う。自分がこの世界にただ一人いることの寂しさ。体調の悪さから感じた一種の迷いのようなものだったかもしれないし、疲れから来るものだったかもしれない。でもその寂しさが日曜のうららかな春の日差しの中で僕に留まり続けたのもある。ドアノーの写真にはその僕の状態とシンクロすることはできなかった。

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