2005/06/12

極上のソファーあるいはグレン・グールドの椅子

6年ほど前に僕は自分にとっての極上のソファーを探し続けた。ある1つのイメージが僕にはあった。それは僕にとっての理想のソファーだった。自分の読書専用のソファー。僕はそこに座り、時には包まれるように横たわり、本を読むのだ。ソファーと一体になり、僕自身を無くすのだ。そうすれば至福の読書をすることが出来る。

部屋の大きさからおけるサイズは自ずから限界がある。二人用の大きさ、所謂ラブチェアと呼ばれているサイズで少し大きめのソファ。構造は木枠フレームでがっしりしているもの。張り地は、出来れば牛革が良いのはわかるが、合成皮革を選択する。布張りは長期間の使用に不安を残すし、何より至福の読書をするためのソファーには布張りは似合わない。肘掛けは、横になったとき枕代わりであり、足を乗せる台になるので小さめが良い。なるべくソファーとの一体感を得るために、ロータイプは選ばない。ロータイプは部屋の環境に調和し、逆にそれが読書に没頭するために疎外になるように思うからだ。

しかし何よりも大事なことは、もちろんのこと、ソファーの座り心地にあるのは間違いない。そのために購入検討対象となるソファーには、店の方が嫌がる迄、長時間座り続ける必要がある。逆に言えば、それでソファー売り場の質というのが解る。短時間であれこれと説明をし続ける店員がいるところではソファーは買うことが出来ない。ブランドは最初から考えていなかった。それはなんというか、ソファーは個性的なものなのだ。自分に合うソファーというものが世の中には必ずひとつはある。それを見つけるには、ブランドは逆に選択する目を覆ってしまう事になる。だから、僕にとってはブランドは邪魔だと思った。

そうやって手に入れたのが、今の読書用のソファーである。ただ購入しただけでは、そのソファーは完璧とはいえない。あとは育てなければいけない。育てるために、まず自分が気に入ったソファーを購入する所から始まるのだ。「本を読む」という行為は、環境を必要とする。環境はその人の身体がそこに受け容れられることから始まるような気がする。違和感がある環境の元では「本を読む」こと自体難しい。その環境として、自宅で本を読む場所としてのソファー、勿論それは必ず読書はそのソファーですべきと言う話ではなく、選択肢としての場所のひとつでもあるのだが、それらインテリアを「本を読む」という行為を基準にして選択すること、それが僕にとっては何かひとつのまとまりをもった、自分の空間を作ることでもあるような気がしている。

カナダの演奏芸術家グレン・グールドには愛用の椅子があった。それは彼の父親が造り息子に与えたものだった。グールドにとってピアノを演奏すると言うことは、ピアノと一体になることだったと思う。まさに演奏するための機械になること。それはバッハを演奏する際に、バッハ?グールド?ピアノの連鎖の中で、出来るだけグールドをなくし、バッハ?ピアノに持っていくことでもあった。そのために必要だったのが父親が造った椅子であった。その椅子がなければグールドはピアノを演奏することは出来なかった。

写真集「グレン・グールド写真による組曲」では、様々なグールドを見ることが出来るが、最後に掲載していた写真は「グールドの椅子」であった。もしくは、CD「アンド セレニティ」では、彼が音楽に求めたのは絶えざる響きとおだやかな心として選曲しているが、CDを取ったときに現れる画像も「グールドの椅子」であった。まるでその椅子は、1982年に脳卒中で亡くなったのはグールドの体だけであり、あくまで精神はそこに顕在しているかのように、そう、まるで真のグールドのように写っていたのだった。つまり僕にとっては、グールドの椅子は象徴ではなく、変なことを言うが、グールドそのものの様な錯覚に囚われているのだ。

極上のソファーを探し回った僕は、グレン・グールドとは較べることさえできない凡人であるが、グールドが何故その椅子にこだわり続けたのかが、なんとなくだけど理解できる。身体が触れるもの、たとえばそれはパソコンのキーボードだったりマウスだったりも含めて、それらはまさに触れることで、単なる物質的なものから自分の身体の一部になると思う。身体は慣れるという。それは間違いないと僕は実感する。慣れるのであれば、それらを選ぶ必要はないのかも知れない。でも無理矢理に身体を慣らしてまで受け容れる必要性も僕に感じられない。

自分にとって極上のソファーは、まず慣れるという点で、既に自分の身体が自発的に受け容れている。あとはそこで数多くの書籍に出会う体験を得ることなのだ。そうすることで、ソファーは育てることが出来る。書籍1冊1冊の記憶と思い出によって。

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