2005/06/24

アートに関する「もやっ」とした思い

杉田敦氏の「リヒター、グールド、ベルンハルト」を読んだが、自分なりの感想が思いつかない。それ以前に、杉田敦とのアートに関する考え方の違いが、一つの想いとなって行ったり来たりしている。リヒター、グールド、ベルンハルトの3人の個別の論評が面白かっただけに、それが少し残念である。僕の読みが足りないのかもしれない、そんな気持ちにもなる。再読しようかと思う。

考え方の違いは、杉田敦氏がプラトンのイデア論を持ち出した時点から明確であった。彼はイデアを目的因として、それに隷属するアートをイメージしている。アートはアートとして自己回帰的にし、そこに物語を産み出すことを否定する。
確かにプラトンのイデア論は実念論として、時として批判されている。僕にとっては、竹田青嗣氏が語るように、イデアとは、共通了解事項としての本質であり、もしくは芸術家が個々に求める美である。だから、リヒター、グールド、ベルンハルトにしろ、彼らが思い浮かべるアートがあり、それをアートとして追求する、そこにイデアがあるのでないかと思うのだ。

『物語の死というポスト・モダニズムが目指してきた地点。アートは、そこに向かって牽引的な役割を果たしてきた。しかし、その役割を成し遂げつつあるいま、最後に自分自身のなかに巣食う物語を解体して姿を消さなくてはならない。アートは存在の理由を失い、いや存在理由として列挙されたものをすべてやり尽くし、死を迎えつつある』
(杉田敦「リヒター、グールド、ベルンハルト」から引用)

杉田氏の考えが導く先は、上記の通りに「アートの死」である事は必然だと思う。でもそこには大きな錯誤があるのでないだろうか。僕はまだアートは死んでいないと思う。死を迎えたのは、フランス思想としてのアートの死だけでないのだろうか。
そんなことを色々と考えてしまう。ただ、杉田氏の意見に対し反発する自分の論拠は、実は心もとない。

僕はなにゆえに反発するのだろう。ただ一つの意見として、杉田氏の考えを承認できない自分がそこにはいる。それは一つの情念に近いかもしれない。
忘れてしまったものは、アートがアートとして目指す本質のように思える。つまりアートが一つの思想の牽引車を任じてしまったことが、いや牽引車として引きうけてしまったアートだけが、その身を袋小路に陥らせてしまったように思えるのだ。でもそれ以上先へと言葉が続かない。頭の中では幾つもの考えが巡っているのに。

やはりこの本は再読しなければならない。

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