2005/06/18

携帯短歌

NHKスペシャルで「携帯短歌」の話があった。帰宅してテレビをつけたら ニュースの後に放映していたのだが、その日のニュースで倉橋由美子の訃報もあったので、そちらに気をとられ、番組の中盤くらいで消してしまった。ただ、後から考えると様々なことが思い浮かび、最後まで見るべきだったのかもと少し後悔した。

番組では15歳の少女を紹介していた。彼女が表現手段としてなぜ短歌を選んだのか、そのことについていっていた言葉が気になってきたのだ。既に僕の記憶は曖昧だが、確か彼女はこう言っていたよう思う。
「詩だと長すぎるし、話としては上手くまとめることができない。5・7・5・7・7の定型の短歌であれば丁度よいし、ストレートに自分の気持ちを表現できる」と。

別に彼女のことを話そうと思っているのではない。何らかの表現手段を持っていることはよい事だと思う。そう、それは今僕がこのブログで、メモと称して何かを書き綴っていることと似ているのかもしれない。

番組のはじめに女の子の声で、言葉の氾濫ということを言っていた。確かに世の中は言葉に満ち溢れている。携帯電話でのメールを作成する姿は既に日常化している。それらは、主に友人から友人への伝言であり、近況報告であるのだろう。携帯短歌での宛先は誰だろうか。そんな事をつらつらと考える。

ロシアの詩人マンデリシュターム(1891?1938)はエッセイ「対話者について」の中で、「投壜通信=詩」であると語っている。もしかして携帯短歌も同様なのかもしれない。投壜通信とは航海者が遭難時に海に投じる瓶に詰めた手紙の事を言っている。何も携帯短歌をしている方が遭難者といっているわけでなく、マンデリシュタームの言葉を借りれば、今でなく未来に、その短歌を見つけた人に向けての発信という事だ。未来の人といっても、もしかするとそれは自分自身宛かもしれないが、それはそれで振り返ったときに笑って人に話せればと思う。

身近な家族・知人・友人に話をするのでなく、携帯短歌として発信するのは、身近な人との会話は、身近であるがゆえに限定されるからだと思う。身近だからこそ話せない事も多い。それは僕がブログをしていることから想像できる。距離を遠く離れてしまった恋人同士は、逆に電話・メールなどの交信が頻繁になるだろう。距離はあると云う事は、相手が見えないという事は、もしかすると言葉を産み出すのかもしれない。

同じくマンデリシュタームは、政治家・散文作家・演説家は今を語り、聞こうとしている者達を歓迎する、でも詩人はそうではない、逆に現在の人達に向けての詩は時として詩の美しさを犠牲にする、とも語っていた。それは、詩がアフォリズムになってしまう事への危惧を言っている様にも感じている。

『したがって散文作家は、社会より「高く」、「優れて」いなければならない。散文の中枢は教訓である。だから作家は台座が必要なのだ。詩は別物である。詩人は摂理による対話者とのみ結びつく。詩人は必ずしも自己の時代より高く、自己の社会より優れていなくても良い』
(マンデリシュターム「対話者について」 早川真理訳より引用)

短歌を考えるのはとても楽しい。それらは心の断片でもあり、記憶の一こまでもあるだろう。ストレート過ぎる短歌とか、格言にもにた短歌は、個人的な好みではないが、時としてはっとさせられる物も多いのは確かだ。それらの中の幾つかが残され、後の人に伝える事が出来たらと思う。

これらの事を考えたとき、ブログと携帯短歌とは似ているようで少し違うものだと思い始めている。ブログが広い意味での日記であるのなら、やはりそれは記録に近いものかもしれない。ただ、宛先については投壜通信に似たものを感じてはいる。

0 件のコメント: