2005/06/10
グレングールド著作集で見つけた謎の紙片
図書館から本を借りたとき、その本に赤ペンで線引きがされていたり、思いつくままの言葉が書き込まれていたり、マーカがついていたりと、前回もしくはそれ以前に借りた人の痕跡が残っている時がある。図書館の書籍なので、それは様々な方の手から手に伝わっているのは間違いないが、それらが頁をめくるその刹那に眼にはいると、本の内容から少し離れ、その方の思いを僕の目を通して伝わってしまうのだ。以前に読まれた方の思いが伝わる。その形は様々だ、赤ペンで線引きをされた人は、その箇所をどういう思いで読み取ったのであろうかとか、頁の隅に書き込まれた言葉は一体何を伝えたかったのだろうかとか、そんな事だ。
ある時は、「日本の巨樹」という図鑑のある頁に、鉛筆で「後で連絡すること」と走り書きがされてあった。栃木の日光街道の杉並木のあたりだったと思う。書き込んだ人は日光街道の杉並木の写真を見ているときに、何かを思い出したのかも知れない。そんな想像をする。
今回借りた「グレン・グールド著作集2」(みすず書房)には、今までにない痕跡が残っていた。それは本ブログの写真として掲載したので見て欲しいが、横10cm・縦14cmの紙片に書き込まれた謎の絵柄である。グレン・グールド著作集の頁220と221の間に栞の様にして挟まっていた。その箇所は「音楽としてのラジオ」というタイトルで、グレン・グールドがラジオでの活動をしていたときのインタビュー記事の所であった。
紙片は栞として挟み込んだのか、もしくはわざとなのか、僕にはまったく解らない。また、紙片に書き込まれている内容も、単なる落書きなのか、もしくは何らかの意味があるのかも不明だ。そんなに突っ込んで考えることはしない質だが、面白いので少し興味がわく。書いた人の思いを想像する。その中でこの紙片は、彼(彼女)がグレン・グールドに思いを馳せる際に湧き出たアイデアのイメージとして現れる。そのアイデアは、この絵、しかも点対象で描かれるべき、ものだったのだろう。中の絵は人の顔の部分だと思う。「見る」と「語る」、「嗅ぐ」と「すぼむ」だろうか。それらは相互に関連している。様々な事柄が現れては消える。もしこれがわざとであれば、僕は見事に彼の術中にはまってしまったことになるのだろう。
丁度その謎の栞が示していた頁で、グレン・グールドは彼のドキュメント番組「北の理念」を通じて、モノラル放送とステレオ放送の技術的な長所短所を語っている。このインタビューのグレン・グールドはさながら優秀なプロデューサーの印象を受ける。
今読んでいるトーマス・ベルンハルトの小説「破滅者」で描かれているグレン・グールドは音楽そのものの存在として描かれていた。「破滅者」は小説なので、現実に存在したグレン・グールドとはまったく違うかも知れない。ただ、読み始めたばかりではあるが、僕はこの小説に、正確にはベルンハルトの小説に圧倒され続けている。この小説については読後感想は無理だと思う。読んだその都度僕は感想をメモしていきたい。
バッハの自筆楽譜がドイツのワイマールの図書館で見つかったと新聞報道していた。バッハ関連のことなので思わず新聞記事に目がいく。勿論、世の中の出来事は偶然で起きているのは間違いない。ただ、このような記事に、ベルンハルトの小説に、そしてグールド著作集にはさまれていた謎の栞に、僕自身が出会うのは、現実に客観に存在する世界への僕の見方が、大袈裟でなく以前とは少し変質している、そんな気がしている。
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