2005/06/27

「マイノリティの権利と普遍的人権概念の研究」を読み高校時代の友人を思う

現象学研究会で紹介してあった金泰明さんの著書「マイノリティの権利と普遍的人権概念の研究」を読んだ。書籍の内容であるとか書評であるとかは、現象学研究会の公式サイトに詳しく書かれているので、興味がある方はそちらを参照して欲しい。ここでは僕が読後に感じた幾つかをメモとして残した。

実を言えばこの書籍を読みながら、僕は一人の男のことを思い出していた。彼は高校時代に友人として付き合った男だった。男女を含め友人は何人かいたが、彼ほど僕の心に残る友人はいない。高校時代の僕は、どちらかといえば一人でいることが殆どだった。それを苦にすることなく、どちらかといえばそれが自然というような、そんな男だった。彼もどちらかといえばそういうタイプで、自分のことを思春期のナルシズムから「一匹狼」的な存在と捉えていたようだ。そして、僕のことも同類とみなし、彼のほうから近づいてきたのだった。彼は在日中国人だった。

彼とはよく話をした。高校時代に誰もやりたがらない生徒会を一緒にやっていたこともあり、校則で規定されていた服装などの緩和の必要性とか、文化祭のテーマだとか、様々な等についてよく議論をした。また彼から音楽についても多くを教わった。ロック、ボサノヴァ、ジャズ、彼の趣味は広く、しかも音楽の知識は深かった。今でもそれらの音楽を聴くたびに彼のことを思い出す。

その彼に一度だけ「今までに差別を受けたことがあるか」と聞いたことがある。そのとき彼は「あるよ」とぶっきらぼうに答えたので、僕は「でもお前と話をしていても、違いなんて少しも感じない」と言った。そのとき彼は眩しそうに、いやそれはタバコが煙たくて目を細めるしぐさに近い、僕をみつめ「それはそういう風な印象を与えないように俺が意識しているだけだ」と答えたのを今でも覚えている。彼にとって差別とは、差別する側が意識しなくても、受けるほうがそれを感じたら、それは差別だし、しかし、受けるほうも自分から違いを前面に出すことであってはだめだ、見たいな事を言っていた。つまり違いは違いとして、しかし公共性をもった同じ社会に暮らしている、公共性を論じるとき、やはり一緒に同じ人間として論じ合いたい、それが学校の校則問題としても、と彼は言っていたと思う。そのことを、この書籍を読んで思い出したのだった。

金泰明さんは40半ばにして大学院にてドクター取得の勉強を開始している。だからだろうか、彼の論説は僕にとってはとても現実的な意味で説得力がある。まず彼は西洋における思想家達の人権概念が二つの原理に大別できる事を仮定として設定する。「価値的人権原理」と「ルール的人権原理」の二つの原理設定は、基礎原理としても十分に耐えうる可能性を持っている。この二つの原理説明は西研さんの書評でわかりやすい。

『人権に関する二つの異なった原理を見出している。ロックの「自然権」やカントの「人間の尊厳」の立場は、個々人それ自体にあらかじめ権利がそなわっており、それを何者からも侵されてはならない「絶対的な価値」であるとみなすもので、これを筆者は「価値的人権原理」と名づける。しかし筆者は、あらかじめ個々人の人格に権利が備わっているとは考えない。人権はもともと、人びとが「「各人の生の欲望」と自由とを互いに認め合うこと」によって生まれたのであり、その面からいえば、人権とは一種のルールなのである。この考えは、ホッブズ、ルソー、ヘーゲルらの立場にはっきりと表明されており、筆者はこれを「ルール的人権原理」と呼ぶ』
(大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター年報・第1号 西研 から引用)

その上で、キムリッカの「多文化的市民権論」を中心にマイノリティの権利論を原理的に考察しているのであるが、その考察の根本に著者である金さんの在日朝鮮人として、今後の日本社会での関わり方があるのは間違い無い。キムリッカの「多文化的市民権論」の要点は、「集団別権利」と「対外的保護」及び「体内的規制の禁止」とがあげられる。ただもともと、キムリッカの思想の背景にあるのが、カナダのケベックのフランス語系住民と北米先住民のため、在日においての適用は難しいと考えざるを得ない。金さんもその事を認めてはいるし、キムリッカの「多文化的市民権論」を原理面から見ると「価値的人権原理」の面が強い点もあげられており、その点においても、今後再検討と基礎付けがし直すべきといっている。

『キムリッカの他文化的市民権は、伝統的人権論を主に「価値的人権原理」でもって補完しようとしたものであるが、長期的にはそれが価値対立の根本的解決に資するためには、むしろキムリッカの理論を「ルール的人権原理」によって再検討し、基礎づけし直さなければなるまい。なぜならば、「価値対立」を内包する市民社会において、一つの理論がマイノリティの政治的承認と社会統合を目標とするかぎり、自らの権利主張だけでなく、社会の成員が相互に承認しあう関係の原理が求められるからである』
(「マイノリティの権利と普遍的人権概念の研究」 P275 から引用)

金氏の視点は現実的で示唆に富んだものだと思う。特に世代が交代するたびに在日コリアン達の意識は多様化し、日本という社会で生活をする意識を持っている人も多い。その意識は僕と何ら変わるところはない。そのうえで金氏は、自己中心性から出発することと、公共性・公共的なるものへの志向性が大事であると述べている。自己中心性とは、利己主義とは違う。自分がしたい事を明確な意思を持ち描く事が、他者の中の「自分性」を大事にする事に繋がると述べている。また「私の欲望」から出発しながら常に「共通の利益」を考え判断するべきとも述べている。その違いを違いとして、公共性を考える事が、開かれた社会を作る、僕はその考えに賛成する。

本書には述べられていないが、キムリッカの理論においてもっとも重要な批判は、キムリッカが先住民などの征服などによって包含される場合をマルチネーション・ステートとして、自発的移民と明確に分けた事である。これにより、エスニック文化・亡命者・難民・外国人労働者などが人達が、そこからこぼれ落ちてしまうことになる。また二分法に分ける事自体が問題となる事も多い。

金氏は上記のようなキムリッカの二分法の視点はないようだが、キムリッカ理論を元にマイノリティ人権理論を構築する場合、気をつけなければならない点だと考える。その上で公共性を鍵語にして、なおかつ「ルール的人権原理」での捉えなおしを考えられているとすれば、金氏の理論は全く違う様相を呈するものになると想像できる。そしてそれは、今後の日本社会において重要な理論になる可能性を持っている。いや、重要度は日本だけでないのかもしれない。

僕がこの書籍を読んで、高校時代の友人の事を思い出したのは、金氏が述べる開かれた社会の条件に、友人が既に考え方として同じものを感じたからだった。違う民族ではあるが、共生したい。その願いの深いところを、まだ子供だった僕が知る事はなかった。高校を卒業した後、彼は理科系の大学で化学の勉強を始めた。当初、頻繁に電話のやり取りを行っていたのだが、次第に連絡を取り合う事が無くなってしまった。その理由は主に僕が自分の事に精一杯だったことが大きい。連絡を再びとりたいと願ったとき、彼は既に転居した後だった。今でも年一回送られてくる、高校の連絡簿から彼の消息を知ろうと思うが、行方知れずらしい。出来れば元気に生活していて欲しいと切に願う。

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