2005/06/01

二子山親方死去に思うこと

プリンスと呼ばれ土俵際の魔術師と呼ばれた男が、その短い生涯を閉じた。元貴ノ花関の死去に際し各方面からあがる追悼の言葉に、彼が与えた大きさを感じる。それは貴乃花関が僕らに向けて与えたものだけでなく、僕らが貴乃花関を通して求めていたものへの、回顧であり、その時代の気分でもあり、今を生きる者として確認する己の信念に近いものかも知れない。

テレビでインタビューを受けた人の答えは様々であった。
「サラリーマンで言えば、勝っても負けても立ち向かう頑張り屋でした」
「弱さが良かった。弱弱大関で50場所居続けたことが良い」
「小さい体で大きな体にぶつかっていく姿が良かった」
それぞれの回答は、貴ノ花関を見る自分の生き様に反映する言葉かも知れない。貴ノ花関に自分を投影することが出来たからこそ、記憶に残る力士になり得たのだと思うのだ。

相撲の力士を英語では「sumo wrestler」という。「wrestler」の意味が「組み打ちする人」(新英和中辞典 第6版 (C) 研究社)という意味であれば、確かにそうなのかも知れないが、やはり僕のイメージでは「レスリング選手」の意味合いが強い。初めて「sumo wrestler」が力士であることを知ったとき、随分と違和感を感じた物だった。その違和感はどこから来るのか、その時はわからなかったし、今でも同様だろう。

たとえば同じ興行で成り立つ大相撲とプロレスは、似て非なるものなのは間違いないと思う。なるほど両者とも、個人戦としての格闘技であり、金を貰って見せるという面でエンターティメント性も持ち合わせているだろう。また両者とも殆ど裸体で闘うことも同じではある。

ただ、プロレスにはそこに物語が必要であるが、大相撲の一番には物語性はないと思う。強いて言えば、1場所の15日間での物語が一人の力士を中心に見れば現れるかも知れないが、それでも物語を見つけるのは至難と思うのだ。大相撲の物語性は力士誕生から断髪式までの長い期間で語られるものに違いない。つまりプロレスとは物語の時間の流れが違う。

プロレスは一試合の中で、ギリシャ演劇とも思える程の、そこには悲劇があり喜劇があり、倒すべき悪役がいて、一人の英雄が血を流し、天に向かい血塗られた顔で叫ぶ、そういう物語性があるし、見に来る人もそれを密かに期待する。それは八百長だとか、そうではないとか言われる前に一つの完成されたエンターティメントだと思う。

大相撲の場合、少し次元が違ってくる。貴ノ花関について語られるとき、決まって登場するのはお兄さんである初代若乃花関である。お兄さんが開いた双子山部屋に入門した時、兄弟の縁を絶ちきり、兄は竹刀を持って弟を鍛える。そこにあるのは、ただ強い力士を育てるという強い気持ちと、それに応えようとする気持ちのぶつかり合いである。兄も弟も「辛抱」という言葉をよく使った。確かに、「辛抱」でなく「我慢」であれば、兄の竹刀による特訓に弟は限界を迎えたことだろう。我慢には限界がある。辛抱は、多分、字の如く身体に辛さを抱え、身体と同一化すると言うことなのかもしれない。

プロレスでは、悪役の度重なる反則技に、我慢の限界を超えた英雄が血みどろになりながら、反撃をして打ち倒す。その時に発する雄叫びは、我慢し蓄えた力の最後の発散に近い。

辛抱の姿は、昭和47年初場所での横綱北の富士と当時関脇貴ノ花の一戦に現れる。新聞で脅威の粘り腰と賞賛された戦いだが、結果は横綱の右手のかばい手により、貴ノ花関は黒星となる。元横綱北の富士は貴ノ花関の追悼の言葉として、その一番を振り返り、「あれは、俺の負けだった」と語る。そして、自分にとって何もかもを出し尽くした勝負であったとも言っている。テレビで見た元横綱の表情から、かばい手を使うこと自体からして負けなのだという気持ちが表れていたのが印象的だった。その時の貴ノ花関の脅威の粘り腰が、身体として抱え込んだ「辛抱」が表に出た一番だったと僕は思う。

貴ノ花関が国民的な人気力士になり得たのは、体の小さなものが大きなものに立ち向かうという、国民感情としての判官贔屓が根にあるだけでない。プリンスという、決して王にはなれないものへの「悲しみ」をそこに観たのでもない。そこには「辛抱」がキーワードとしてあるような気がする。「辛抱」を身体として見事に発揮した姿を見ることで、日常のそれぞれが抱える辛さに対する一種のカルタシスに近いものが得られたからと僕は思う。

元貴ノ花関(二子山親方)は若すぎるその死と共に、大相撲の歴史の中で忘れられない力士になったのは間違いないと思うのだ。

ご苦労様でした。安らかにお眠り下さい。

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