「トム・クルーズの」というより、「ダコタ・ファニングの」とした方が正しい気さえする程、彼女の印象が強い。押さえた演技というより、逆に押さえない演技であることが、少女としての役柄にリアルさが増しているように思う。それほどこの映画での彼女の存在感は大きい。
当初H.G.ウェルズの古典的SFが現代にどのように描かれているのかに興味を持った。解釈の仕方でどのようにもなる原作ではあるが、今回のスピルバーグ監督、トム・クルーズ主演の場合、僕の見方として最も強く感じたのは、親子関係の再生というモチーフだった。
この映画では、観客である僕らは、トム・クルーズ演じる主人公レイが、見ることしか見えず、知ることしか知らされない。そして映画のほとんどで、圧倒的な力の前に、レイは子供と一緒に逃げ続ける。彼は圧倒的な物理的な力の前に逃げまどうだけでない、それよりもさらにレイは親として、もしくは一人の人間として、自分の子供の前から逃げまどっていたのである。彼は子供を守り逃げまどう中で、逆に子供に対し逃げずに真っ正面から立ち向かうようになる。このレイの成長が主軸となっているように思える。
この映画はレイの視点から描かれている。だから、通常このような人類の危機的な映画としては描かれていないものもある。それは世界各国での危機的状況である。この映画で描かれている舞台は米国だけなのだ。圧倒的な力の前で混乱し、攻撃される理由さえ思い浮かばない。突然に振り下ろされた力に翻弄され続ける人たち。攻撃される理由、攻撃者の正体と背景、それらは最後まで明らかにされることはない。それは実際の戦闘と同じ状況なのかもしれない。
映画の中で一人の男がレイに向かって、「ウジ虫の様に駆除しようとしている」という。ウジ虫であれば、駆除するのに何の良心の呵責もいらないだろう。でも、宇宙人が地球人を地球に蠢くウジ虫と見るのであれば、地球人なき地球を支配した宇宙人も、やはり地球に蠢くウジ虫でしかない。その意味において両者は同根かもしれない。だとすれば、この映画における宇宙人とは何を現すのであろうか。
「未知との遭遇」で宇宙人という他者との友好関係を描いたスピルバーグは、この映画では一転して攻撃を描いている。この映画を見る米国人たちは、一体どのようなことを記憶に蘇らせるのであろうか。突然の攻撃、無差別に攻撃され殺される人たち、そして逃げまどう人たち。それはグランドゼロのあの記憶ではないだろうか。見終わったとき、そんな一瞬の思いつきに、しばらく僕は囚われていた。それは見方として、批判的な方向に偏りすぎているかもしれない。
いやいや、やはりこの映画は、よけいなことを考えずに、トム・クルーズ主演の娯楽大作として見るべきなのだろう。
昔の「宇宙戦争」(1953年)の最後のシーンを思い出した。なすすべもなく教会で最後の時を待ち祈り続ける人たち、その描き方の方が、僕にとっては、今回よりも強く受け入れることができたのも事実だった。それは宗教がどうかという話でなく、「祈り」の持つ本質的な何かが、この手の映画にふさわしいと感じたからであった。今回の「宇宙戦争」にはその「祈り」という感じは微塵もない。
0 件のコメント:
コメントを投稿