2005/06/06

高浜虚子の「斑鳩物語」

高浜虚子の小説「斑鳩物語」は面白い。「斑鳩物語」だけが面白いというのでなく、僕自身が五重塔とか三重の塔などに興味を持っているから、その延長として、この「斑鳩物語」を読んでしまうので、ことさら面白みを感じてしまうのだ。

高浜虚子が斑鳩の里で、法起寺の三重の塔を見て、中に入りたいと寺の小僧に言うが、その気持ちがよく分かる。確かに図面などで塔の構造はわかるが、やはり中に入り、上に上がり、欄干からの景色を眺めてみたいと思う。
小説中で虚子は塔の構造を知らなかったようでもあるが、その覗きたい気持ちは、だからとても理解できる。その願いを聞いた寺の小僧の言い分が、「きたのうおまっせ」である。
虚子の中を覗きたいロマン的な気分を、「汚いですよ」の一言で返す寺の小僧との微妙なすれ違いがおもしろい。

でも確かに汚いのだ。中は薄暗く気味が悪い、埃と煤で汚れているし、しかも構造上、上に登るのにアクロバット的な行動が必要となる箇所もある。
途中で虚子も嫌気がさし、小僧に「もうやめよう」などと弱音を吐く。しかし、先を登る小僧は「もう少しだ」といってそれを聞かない。虚子はその小僧の言葉に権威を感じ従うだけとなる。
もう少し登ると、上はまだまだ遠く、下も同じように遠い。どちらに行っても命を張るならばと、虚子は観念して上へと登る。その言い回しが、面白みを醸しだし、自然と読んで笑みが出る部分でもある。

最上階の迄登り、雀の糞で白くなった欄干の手すりにつかまって虚子が見たものは、景色でなく、斑鳩の宿屋で仲居のお手伝いをしていて、好感を持った女性「お道」と小坊主「了然」の逢い引きであった。二人の逢い引きは、丁度三重の塔の下だった。その姿を見て、一緒に登った小僧が言う。

『私お道すきや、私が了然やったら坊主をやめてしもて、お道の亭主になってやるのに、了然は思いきりのわるい男や。ははははは』
(高浜虚子「斑鳩物語」から引用)

小僧は兄弟子の了然とお道について、了然が修行途中で添い遂げる決心がつかないこととか、お道が了然に捨てられれば死ぬまで思い抜くと思い詰めていること等を虚子に話してから、上記の言葉を吐いて、たからかに笑うのである。勿論、法起寺の三重の塔の欄干で。
この小僧の笑いは、お道の行く末とか、了然の揺れる男心とかを、読者に考えさせる事を停止させる程の力があり、妙な面白みだけが前面に出る。

『所は奈良で、物寂びた春の宿に梭の音が聞えると云う光景が眼前に浮んで飽く迄これに耽り得る丈の趣味を持って居ないと面白くない。お道さんとか云う女がどうしましたねとお道さんの運命ばかり気にして居ては極めて詰らない』
(高浜虚子著『鶏頭』序 夏目漱石)

なんというかこの小説にあるのは風景である。それも油絵とかそういうものでなく、色鉛筆でのスケッチ、しかも色数は少ない、と言う感じで斑鳩での滞在記録を描いている。
この物語を読むとき、何を気にするかで、随分と印象は違ったものになるのかも知れない。僕にとっては、お道のことも気になるが、やはり塔の中をよじ登る描写と、寺の小僧とのやりとりが面白い。

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