2006/12/01

再び教育再生会議からの緊急提言について

教育再生会議は10月29日にいじめ問題に対して「緊急提言」を行った。僕は29日前に教育再生会議事務局が発表した事前通知を聞き、それに対し提言より必要なのは具体的な施策であるとして、提言の内容に疑問を呈した。その気持ちは今でも変わらない。(Amehare's MEMO 前記事 「教育再生会議での緊急提言」)

何故に「緊急」なのか。それはいみじくも安倍首相の次の言葉が総てを物語っている。
「いじめによって命を絶つという連鎖を止めなければならない」
いじめを原因とした子供達の自殺の増加が、今回の「緊急提言」の背景であるのは周知の事実であろう。それであれば、不謹慎な仮定かも知れぬが、仮に数ヶ月前に今回のような「緊急提言」が行われていたとしたら、彼らが自殺を思いとどまったのであろうか。

一般論ではなく、実際に自殺をした子供達を思い浮かべ「緊急提言」を読んでも、彼らが思いとどまる環境になるとは想像することが出来なかった。
正直に言えば、今回の「緊急」と称する提言に目新しいものは何もない。ここに書かれていることは、教育関係者及び小中高のお子さんを持つ父母達が個々に、常々考え、意見を述べてきた事以上は何もないと思える。そしてそれぞれの現場では、そうは言っても現実的に難しい壁がそこにあるのを感じているのである。その中で徐々にだが、いじめ問題が報道されるたびに、彼らは何らかの歩みを行ってきていると僕は思っている。

それを「緊急提言」は大上段に、しかもいとも簡単に言ってのける。しかも、肝心な防止面については一般論で書かれ、発覚時の処置もしくは処罰については具体的に書かれている。この双方の語り口の違いが、いじめ防止について、教育再生会議での議論が一歩踏み込めなかった状況が透けて見える。しかし、「連鎖を断つ」ことが提言の目的だった事を考えれば、防止面に対し一般論で語る緊急提言の内容に、「緊急性」を感じる事は少ない。

例えば、「緊急提言」における最初の提言の言葉を読んでみる。
「学校は、子どもに対し、いじめは反社会的な行為として絶対に許されないことであり、かつ、いじめを見て見ぬふりをする者も加害者であることを徹底して指導する。」
「いじめを見て見ぬふりをする者も加害者」以外は、既に指導として教育の現場では行っていることだろう。問題は指導の具体的な内容であり仕方だと僕は思う。単に「いじめは反社会的」、「いじめを見て見ぬふりも加害者」と指導するというのではなく、そもそも「いじめ」とは何なのか、ということから子ども達が自ら考える力を育てる事が重要に思えてくる。

子ども達に対し、指導を行うとすれば、僕は徹底的な議論と討論、そして自分の意見を臆せずに語れる事、そういう場を常に与え、個々の考え発表する訓練を行うべきだと信じている。無視といじめという暴力での解決より、徹底した話し合いによる解決。それは「いじめ」という問題からだけでなく、身の回りの出来事から徐々に問題を深めていくことにより可能となるように思える。

子ども達に「いじめが反社会的」と指導する場合、子ども達を含め了解する「いじめ」の定義が必要となる。でもその定義の確定は難しいのではないだろうか。「いじめ」の有り様は、それぞれの場面によって違うように思えるのである。「いじめる者」の背景を一般論で括るのが危険なように、「いじめられる者」に対しても同様だと思う。「いじめ」とはこれだ、と大人が子どもに差し出すと、必ずそれとは違う「いじめ」の形態が現れるように思うのである。そうではなく、子ども達が自ら考え、互いにコミュニケートするスキルを育てること、そういう教育を大人達と共に行っていければと思う。

大人達の「止まらぬいじめ」に対する焦りが、「指導」という単語と「緊急提言」の語り口に出ている、と僕には思える。その余裕のなさは、少なくとも悪い影響として子ども達に伝播するのではないだろうか。さらに、「見て見ぬふりも加害者」について言うと、近代刑法において個人が善悪を判断し、たとえ周囲の殆どが正しいと信じ行っていることでも、それが悪だと認識すれば、その行っていることを止める、もしくは従わない、そういう事が根底にあるように思う。しかしそれを行える人間は少ない。仮にそれが出来る子どもがいたとすれば、その者は協調性に欠けると教員の指導を受ける結果になることだろう。それらは我々の歴史を振り返るまでもなく、現在の社会において常に見かける姿でもある。

無論、指導指針に対し針小棒大に意見を言うつもりはない。ただ、子ども達にとって学校は、大人達の社会に匹敵する世界なのであって、大人に十分に出来ないことを小中の子ども達に要求するのかと、思えるのだ。また、「いじめ」ではない状態での、通常の子ども達の悪ふざけや喧嘩があったとき、それを見ていた他の子どもが「見て見ぬふりは加害者」との気持ちより、教員に出来事を伝える事が常態化したとき、子ども達の世界がどのように変わるのかも気になる。

些末なことも上(教員)に報告する姿に、一つの監視社会の姿を見るとすれば、それは考えすぎであろうか。他にも、例えば40名のクラスで、15名がいじめに荷担し、残りの24名が見ぬふりをした時、加害者としては39名となる。それら39名の加害者に対し、どの様な対処を誰が何を根拠にして定めるのだろう。見て見ぬふりの子ども24名に対し、単に加害者意識を植え付けさせる、そういうのを教育というのか、僕にはわからない。

最初の提言1文に対して、少し考えただけでも幾つかの疑問がわいてくる。他の提言に対しても同様である。ただ一つ全体を通して言えることは、「いじめ問題を防止する為には」の問いは、「子ども達がどの様に育って欲しいか」の問いと同義であると言うことだ。その中で「いじめ問題」を考えていかなければ、本末転倒になる様に思えてくる。そして本「緊急提言」には、その「子ども達がどの様に育って欲しいのか」の視点が欠けていると思う。

提言の文章にあるのは意味不明な「美しい国づくりのために」の言葉だけのように思える。

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