2006/12/02

都会に住む猫の立場で

The cat'll be there

猫について語るとき、僕は人間が総て悪いという考えに陥らない様に注意している。

確かに都会に住む猫たちは、かつて、その猫自身が、もしくはその猫に繋がる先祖が、人間に飼われていたことだろう。そうでない猫は日本には存在しない。そして多くの猫たちは、人間の都合(猫の都合に対して)で野良猫となる。

でも考えようによっては、猫たち種の存続をかけた戦略が、人間を利用することにあったとも言える。
人間は猫を利用することで、穀物を鼠などの小動物から守り、時には愛玩動物として癒され、また子どもの遊び相手にもなる。
猫は人間を利用することで、厳しい自然淘汰の中で、種の絶滅を免れるどころか、世界的に繁栄することとなった。

仏教経典を鼠の被害から守るために、中国から日本に初めて渡った猫の先祖は、当初、貴族達の間で屋敷内に紐に繋がれ珍重されたらしい。それが広く愛玩動物として飼われ始めたのは江戸時代になってからで、その時は外で飼うのが一般的だったそうだ。

時代によって人間の猫への対応も変わる。よく猫はそれについてきていると思う。猫の対応の広さが、人間のそれに近いのかも知れない。もしくは、彼らもきっと人間との付き合いの中で、色々と学んできたのだろう。

それでも、人間の環境の中で暮らす猫たちは、人間との対応の中で分は極めて悪い。追われ、いじめられ、殺されるのは、間違いなく猫の方である。

平成の教育法改正により日本の伝統音楽を学ぶ時間が増えた結果、猫泥棒が横行した。彼等は和楽器の材料として猫たちをさらった。動物愛護改正法が施行されてからは猫泥棒は少なくなったが、それでも猫たちを動物実験などの為に連れて行く人は今でもいる。

2001年から2年、公園では猫の殺害事件が頻発した。それを憂慮する有志が警察に被害届を提出した。しかし時は祖師谷の世田谷一家殺害事件捜査の真っ最中で、猫たちの殺害事件どころではなかった。

今でも時折公園で猫は殺される。傾向としては快楽殺害的な方向にいっているらしい。猫は殺され、そして人目の付くところに放置される。猫の死骸を目にした人の反応を楽しむのである。

つい最近も、自分の勇気の証明に猫を殺した若者がいた。

他にも犬に噛まれて殺される猫も多い。夜の公園で、自由に犬たちを遊ばせようと、犬の紐を外す飼い主がいる。飼い主の目の届かぬ所で、発作的に現れる犬の本能が、猫を追いつめ噛み殺すのである。

人間の社会に住む猫たちの動向は、人間社会の動向に敏感に反応する。むしろ真っ先に影響を受けてるのかもしれない。猫が殺される社会。そして今では幼児が殺される。その関係を結びつけるのは考え過ぎかもしれない。年間数万人が行方不明になるこの国で、猫が殺される事を過大評価するつもりもないが、やはり何かが繋がっているかのように僕には思える。

公園横の大学の先生が毎日決まった時間に猫たちの餌を与えに来る。その方によれば、多いときで15匹以上の猫が食事をとりにきたそうである。最近は2匹しか来ない。「公園の猫の天敵は犬と人間です」、先生はそう語る。

猫が人間と生活し、今では人間と共に暮らさなければ猫は生きてはゆけない。公園の猫にとって天敵は人間かもしれない、でも猫も人間も生きるためにお互いを必要としている。

The cat'll be there

今年は例年になく町中で多くの猫と遭遇した。写真を撮れる状況にあれば出来るだけ僕は写真に収めたが、その数は出会った数十分の一である。
町中で気がつけば彼らはそこにいた。しっかりとそこにいる彼らの存在を僕は感じた。考えてみれば、今年の一年はそういう年であった。

今年の秋は暖かった。そして知らぬ間に12月になり、冬の到来を告げるかのように段々と寒くなっていく。今年出会った全ての猫たちが無事に冬を乗り切って欲しいと、僕は密かに願う。

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