2006/12/18
写真はスタイル
写真にとって一番重要な事は何かと問われれば、僕は「スタイル」であると答える。どの様なモノでも、写真家はファインダ越しに対象を捕らえるとき、スタイルを考えざるを得ない。光線の加減、構図の模索、色彩の配置、等々と写真家が考えることは多い。
写真の内容が重要視される場合でも、スタイルの重みが消えることはない。無論、写真の内容に重みが行くほど、選択するスタイルの幅は少なくなるとは思うが、決してスタイルの重みが軽くなると言うことではない。
写真に内容が求められるのは、いかなる場合だろう。例えば、親密度が高い関係の者の写真はそれに該当する。誰でも自分の愛する者の写真は、写真のスタイルの善し悪しとは関係なく、常にそれを見る者にある種の情感をもたらせる。
風景写真を内容重視でみれば、それは絵葉書に近いものになる。女性の裸体はポルノとなり、ある種の状況を撮した写真は内容重視で報道写真となる。いずれにせよ、そのスタイルは内容をより際だたせる方向となるのは間違いない。
写真は表象した世界を対象としている。よって写真のスタイルは、あくまでもその表象を崩すことには向かわない。例えば、椿の葉を撮すとき、写真家によっては葉の色をオレンジにするかも知れない、しかしその場合葉の形を変えることは殆どないだろうし、他者が撮された写真を見ても「椿の葉」であることが理解できるように配慮することだろう。
写真を撮す対象が表象した世界である限り、その枠を越えることは難しく、あくまでもスタイルは表象界の中で常識の範囲を超えることはない。Flickrなどの写真サイトで多くの人が「美しい」と感じる写真は、それ故に民族を越えて美しいと感じられることになる。
僕が写真を撮ることに熱中してからしばらく経つ。始めに興味を持ったのは「写真を撮る」という行為であった。
だから結果としての写真には、それほどの興味がなかった。ある対象を写真に撮りたいと思い、それにカメラを向ける。そしてカメラを通して対象の見つめ、色々と構図を決め、その中でピントを合わせるポイントを定める、実際にシャッターを押すかどうかは、それらの試行錯誤が、対象を見たときに抱いた朧気なイメージに近く、より具体性を帯びた内容になったと確信してからである。
スタイルが定まったとき、僕はシャッターを押す。無論、それで写真が出来たとは思えない。現像という処理が後ろに控えている。つまり、写真を撮るという行為には、写真に撮りたいという情動、その対象をどの様に撮すかの模索と確定、そして現像処理、の3つの段階が有ると言うことになる。そしてそれぞれに、写真家は「思考」と「意志」と「判断」という精神活動を行うことになる。
カメラという不思議な機械は、表象界(及びその身体性)を対象にしながら、強く精神活動にも結びついていることにあると、僕は思っている。時々僕は、「写真を撮るという行為」は「行為」もしくは「行動」と言えるのだろうかと疑問を持つ時がある。よく聞く、 「写真は対象と語りながら撮っている」という言葉、それは実際面では、一体誰と語り合っているのだろうか。
これらのことを含め、僕は写真についての思索を、時折、本ブログに書いていこうと思う。つまらぬブログで、さらにつまらぬ内容、でもカメラ、写真について、その技術面以外の話は僕にはとても大事なことのように思える。
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