2006/12/09

「セーラー服と機関銃」を見てジェームズ・ギャグニーを思い出す

TBSドラマ「セーラー服と機関銃」の最終話で、やくざから足を洗った佐久間は星泉に会うために上京してくる。約束までの時間、久しぶりの浅草を訪れた佐久間は、そこでヤクザ同士の喧嘩の仲裁に入り、逆に短刀で刺され死んでしまう。

佐久間の遺体を前に星泉は泣きじゃくりながら佐久間を激しくなじる。無論それは悲しみの表現である。そして最後に星泉は佐久間の遺体にすがりつき叫ぶ。

「なんでそんなに格好良いのよ!」

僕はこのシーンを見て、ジェームズ・ギャグニーのかつての映画「汚れた顔の天使」(1938年)を思い出した。ギャグニー演じる主人公ロッキーが、ギャングの顔役(なんと、ハンフリー・ボガード)を殺し死刑に処せられる最後のシーンと重なったのである。

ロッキーはギャングの一人として、貧民街の子供達の崇拝を受けていた。その街で牧師として子供達がギャングへの道に染まらぬよう世話をしていたのが、ロッキーの幼なじみであるジェリー(バット・オブライエン)。そのジェリーはロッキーに、子供達のため、死刑に処される際に、暴れ命乞いをして無様な姿を見せて欲しいと頼み込む。もとより、自尊心が高く、そのような姿を人に見せるのが出来ないロッキーはジェリーの願いを相手にしない。でも、死刑に処される時、ロッキーはジェリーの願いの通りに振る舞う。子供達はロッキーの最後を聞いて、彼の実態に落胆し、ギャングへの憧れをなくす。一人ジェリーだけがロッキーの事を知っている。

男は、時として格好のために自分を犠牲にすることが出来る、と僕は思う。昔から、今はわからないが、男は女性である母親から、「男は顔じゃない、中身だ」などと言われ育てられてきている。(実は僕はそう言われたことは少ない、かといって中身がある訳じゃない)

でもそれは、女性の直感として、男性に「中身が大事」的な事を云わないと、すぐに「外見」に向かってしまう傾向があると、知っているからではないかと思うのである。

と言っても、女性がなにげに言う「中身がある男性」について、それを具体的に聞けば、殆ど全て「外見」であることが多い。というか、「中身」を語る言葉を日常用語として持っているか、という疑問もある。実際は、女性も男性も外部・外見・表象的なものに拘るし、それが大事だと思っているようでもある。(少なくとも僕はそうだ)

その女性(母親)が、男性の根っこの部分の教育を行う際に「内部」に拘る所が面白い、が少なくともその母親の意図に関わらず、男性は結局の所、「格好」に強く拘るようになる。

例えば、佐久間もロッキーもそうだけど、彼らに共通するのは、恐怖を外部に現さない事の格好良さである。ロッキーはさらに複雑で難しい。彼が無様な姿を演じるには、単に恐怖を表に現すのではなく、彼はそう言う事が出来ない、しかし恐怖を隠す事で勇気を示すことも出来ない中で、恐怖を演じるのである。だからこそ、ロッキーの姿に、映画を観る者は感動するのだと思う。

まぁ「内面」とは「外面」に何を現し何を隠すかの規範を持つって事なのかもしれない。
なんか段々と違う話になってきている・・・・

でも、最近思うのは、その「格好の良さ」を見せない大人達が新聞を賑わせているなぁ、という事。同性としても、自分を振り返っても、「格好の良さ」を人に語れるとは思ってないが、彼らの姿を見るたびに、自分も気をつけようと思う、今日この頃(笑)。

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