2006/12/29

僕が撮りたいと望む写真

After work

写真の一枚一枚には必ず5W1Hがついて回る。そしてそれらが写真の内容を示しているのなら、写真の一枚はどんなものであれユニークな存在でもあると僕は思う。

しかし写真は内容よりも様式(スタイル)の方が重みがあるとも僕は思う。様式を中心に見れば、僕が写す写真はどれも似たような写真に見える。しかもそれらはテクニック的に言えば、どれもこれも今までの写真の真似でもある。だからこそ、その中で自分のスタイルを確立することの難しさが見えてくる。

今から80年ほど前、「新即物主義」という美術運動があり、写真の世界も少なからぬ影響を受けた。彼らは「世界は美しい」との標語の元、様々な写真を写した。「新即物主義」の精神は、表現方法の道具としてのカメラと相性が良かったと僕は思っている。主観を廃した物の美しさへの表現はまさしく写真にとっておあつらえ向きだったにだったに違いない。

「世界は美しい」という発想は、今でも脈々と写真家の中に生き続けているように思える。ただアルベルト・レンガー=パッチュの写真集「世界は美しい」に掲載されている写真は、彼の主観を伴う美意識と構成したスタイルで貫かれている。それらを「新即物主義」の美術運動に組み込むこと自体、正直に言えば多少の抵抗が僕にはある。

さらにこれもよく言われることだが、ヴァルター・ベンヤミン「写真小史」からの「世界は美しい」に対する批評は、写真の対象への意味を露わにせず、またその現実さえも無視することを痛切に切り込み、未だにその力を失っていない。


僕自身が写真の内容(意味)よりスタイル重視と語る先に、「新即物主義」への再帰が当然の帰着として在るのだろうか。いやそういうことではない、おそらく写真のイズムの中にスタイルへの道程が導き出されるように思える。そしてその写真のイズムには、人間の現象界の境界線を乗り越えることは難しい。写真における新たな地平への模索は、僕にとっては悲観的なのである。おそらくそれは、新たなスタイルの構築だけではなく、人間を核とした新たなテクノロジーとネットワークを持ってしか実現可能性はないのでなかろうか。そんな気さえしている。


誰もが単純に「美しい」と思える写真ではなく、衝撃的な報道写真でもなく、それでいて人間の感性の枠を広げてくれるような写真。現有するカメラのシステムで、偶然でも良いし、一枚だけでも良いので、奇跡的な写真を撮してみたい。僕が密かに願っている事である。

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