2005/06/30

音楽のバトン

図書館員の愛弟子」のroeさんからMusical Batonがまわってきた。とても光栄でうれしい。そう思いながら、6月22日に受けて、だいぶ日にちが経ってしまった・・・

1.Total volume of music files on my computer (コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量)

iPod用として6.42GB(1266曲)。PCでは全く音楽は聴かない。iPod用としてMP3ファイルに変換して保存しているのみ。

2.Song playing right now (今聞いている曲)

"Heroes"Symphony by Philip Glass
こうやって文章を考えているときはPhilip Glassを聞くことが多い。"HEROES"はGlassの第4交響楽で、彼の交響楽の中では気に入っている。Glassの曲は聴くと心中穏やかならざる気持ちになる。その不安定さが逆にいろいろな事柄について発想を僕に与える。

3.The last CD I bought (最後に買ったCD)

GLENN GOULD 「...And Serenity」
GOULDに凝って何枚か買った。その中の一枚。

4.Five songs(tunes) I listen to a lot, or that mean a lot to me (よく聞く、または特別な思い入れのある5曲)

1)「Bach The Goldberg Variations」 Glenn Gould
曲ではないのだが、1曲として扱っても許してくれると思う。本当によく聞く。Bachも大好きだし、Gouldも大好き。何かをしながらでも良いし、僕にとっては読書がすすむ、音量を低めにして静かにただ聞くだけでもとろけてしまいそうになる(笑)

2)「Forgetting」 Linda Ronstadt Philip Glass
「songs from liquid days」(Philip Glass)の一曲。Glassの曲は全般的に大好き。その中で一曲を選ぶこと自体難しいのだが、iPodの中で一番聴く回数多いこの曲を選んだ。Linda Ronstadtの歌声が素晴らしい。このアルバムは好みが分かれるところだと思うが、僕は面白いと思う。GlassのCDとして一番好きなのは、月並みだが「THE HOURS」。映画も好きだが、原作の邦訳「めぐりあう時間たち」を読み、映画は商業的に主題が少し偏り過ぎて造られたと思えた。そのほうがわかりやすいと言えばそれまでだが、やはり原作を読んでしまうとって感じがする。

3)「コーラルリーフ」Cocco
「サングローズ」の一曲。活動停止したときの最後のアルバム。Coccoの曲も全部好き。この曲を選んだのは、Coccoの曲の多くは沖縄への片方向の思いを語っているのだが、「コーラルリーフ」でなにか吹っ切れた感じを受けたから。彼女にとって沖縄は「沖縄」であり地理上の島の名称ではない。でもそれはあの沖縄だと感じる。勿論聴く側にとって、それは変わるのだろう。一時期夢中になって聴き続けた。僕にとって、Coccoが唄う「沖縄」は何に思えたのか、実は今ではよくわからない。

4)「Change Your Mind」 Neil Young
「Sleeps With Angels」の一曲。数多いNeil Youngのアルバムの中で一番好き。曲としてみれば、彼の曲で好きなのは多い。「Tonight's The Night 」、「Like A Hurricane」などなど。アルバムとしては「Mirrorball」とか、映画「デッドマン」のサントラも凄い。以前にNeil Youngの評伝ものを何冊か読んだ。その中で特に気に入った1冊があったが、最近無性に再読したくなり探したのだけど、どういうわけか見つからない。その代わりに、ロバートキャパの写真集なんかが出てきて、それをしばらく眺めていたら、もうどうでも良くなった。

5)「Estreila」Kitaro
5曲目が一番迷った。Mary Blackの「Wonderchild」もよく聴くし、Jackson Browneの「The late show」も名曲だと信じて疑わない・・・。J-POPではLOVE PSYCHEDELICOの「Last Smile」も好きだし。このジレンマを実は楽しんでいたりする。
でもiPodで聴いている回数からKitaroを選んだ。「Thinking of you」の一曲。このアルバムでKitaroは念願のグラミーをとるのだが、確かに良いアルバムだと思う。このアルバムか初期の「絲綢之道」か迷うところ。

5.Five people to whom I'm passing the baton (バトンを渡す5人)

・「今日が楽しく明日が楽しみ」のすなハハさん
・「ココロのポスト」のジャスパーさん
・「水色の空」のgrey_wagtailさん
・「庭子の部屋」の庭子さん
・「ほえほえぷに」のぷにさん

事前のご連絡もなしに選んでおります・・・いかがでしょうか。
勿論、パスでもかまいません、その時は無視してください(笑)
といっても、上記の方々がここまで読んでくれている保障はまったくないのですが(笑)
それから、僕は止めませんでしたけど、別に自分のところで止めても構わないです。僕としては皆さんが聞く音楽の話を聞きたいなぁっと軽い気持ちからです。

2005/06/29

スピルバーグの「宇宙戦争」

「トム・クルーズの」というより、「ダコタ・ファニングの」とした方が正しい気さえする程、彼女の印象が強い。押さえた演技というより、逆に押さえない演技であることが、少女としての役柄にリアルさが増しているように思う。それほどこの映画での彼女の存在感は大きい。

当初H.G.ウェルズの古典的SFが現代にどのように描かれているのかに興味を持った。解釈の仕方でどのようにもなる原作ではあるが、今回のスピルバーグ監督、トム・クルーズ主演の場合、僕の見方として最も強く感じたのは、親子関係の再生というモチーフだった。

この映画では、観客である僕らは、トム・クルーズ演じる主人公レイが、見ることしか見えず、知ることしか知らされない。そして映画のほとんどで、圧倒的な力の前に、レイは子供と一緒に逃げ続ける。彼は圧倒的な物理的な力の前に逃げまどうだけでない、それよりもさらにレイは親として、もしくは一人の人間として、自分の子供の前から逃げまどっていたのである。彼は子供を守り逃げまどう中で、逆に子供に対し逃げずに真っ正面から立ち向かうようになる。このレイの成長が主軸となっているように思える。

この映画はレイの視点から描かれている。だから、通常このような人類の危機的な映画としては描かれていないものもある。それは世界各国での危機的状況である。この映画で描かれている舞台は米国だけなのだ。圧倒的な力の前で混乱し、攻撃される理由さえ思い浮かばない。突然に振り下ろされた力に翻弄され続ける人たち。攻撃される理由、攻撃者の正体と背景、それらは最後まで明らかにされることはない。それは実際の戦闘と同じ状況なのかもしれない。

映画の中で一人の男がレイに向かって、「ウジ虫の様に駆除しようとしている」という。ウジ虫であれば、駆除するのに何の良心の呵責もいらないだろう。でも、宇宙人が地球人を地球に蠢くウジ虫と見るのであれば、地球人なき地球を支配した宇宙人も、やはり地球に蠢くウジ虫でしかない。その意味において両者は同根かもしれない。だとすれば、この映画における宇宙人とは何を現すのであろうか。

「未知との遭遇」で宇宙人という他者との友好関係を描いたスピルバーグは、この映画では一転して攻撃を描いている。この映画を見る米国人たちは、一体どのようなことを記憶に蘇らせるのであろうか。突然の攻撃、無差別に攻撃され殺される人たち、そして逃げまどう人たち。それはグランドゼロのあの記憶ではないだろうか。見終わったとき、そんな一瞬の思いつきに、しばらく僕は囚われていた。それは見方として、批判的な方向に偏りすぎているかもしれない。

いやいや、やはりこの映画は、よけいなことを考えずに、トム・クルーズ主演の娯楽大作として見るべきなのだろう。

昔の「宇宙戦争」(1953年)の最後のシーンを思い出した。なすすべもなく教会で最後の時を待ち祈り続ける人たち、その描き方の方が、僕にとっては、今回よりも強く受け入れることができたのも事実だった。それは宗教がどうかという話でなく、「祈り」の持つ本質的な何かが、この手の映画にふさわしいと感じたからであった。今回の「宇宙戦争」にはその「祈り」という感じは微塵もない。

2005/06/27

「マイノリティの権利と普遍的人権概念の研究」を読み高校時代の友人を思う

現象学研究会で紹介してあった金泰明さんの著書「マイノリティの権利と普遍的人権概念の研究」を読んだ。書籍の内容であるとか書評であるとかは、現象学研究会の公式サイトに詳しく書かれているので、興味がある方はそちらを参照して欲しい。ここでは僕が読後に感じた幾つかをメモとして残した。

実を言えばこの書籍を読みながら、僕は一人の男のことを思い出していた。彼は高校時代に友人として付き合った男だった。男女を含め友人は何人かいたが、彼ほど僕の心に残る友人はいない。高校時代の僕は、どちらかといえば一人でいることが殆どだった。それを苦にすることなく、どちらかといえばそれが自然というような、そんな男だった。彼もどちらかといえばそういうタイプで、自分のことを思春期のナルシズムから「一匹狼」的な存在と捉えていたようだ。そして、僕のことも同類とみなし、彼のほうから近づいてきたのだった。彼は在日中国人だった。

彼とはよく話をした。高校時代に誰もやりたがらない生徒会を一緒にやっていたこともあり、校則で規定されていた服装などの緩和の必要性とか、文化祭のテーマだとか、様々な等についてよく議論をした。また彼から音楽についても多くを教わった。ロック、ボサノヴァ、ジャズ、彼の趣味は広く、しかも音楽の知識は深かった。今でもそれらの音楽を聴くたびに彼のことを思い出す。

その彼に一度だけ「今までに差別を受けたことがあるか」と聞いたことがある。そのとき彼は「あるよ」とぶっきらぼうに答えたので、僕は「でもお前と話をしていても、違いなんて少しも感じない」と言った。そのとき彼は眩しそうに、いやそれはタバコが煙たくて目を細めるしぐさに近い、僕をみつめ「それはそういう風な印象を与えないように俺が意識しているだけだ」と答えたのを今でも覚えている。彼にとって差別とは、差別する側が意識しなくても、受けるほうがそれを感じたら、それは差別だし、しかし、受けるほうも自分から違いを前面に出すことであってはだめだ、見たいな事を言っていた。つまり違いは違いとして、しかし公共性をもった同じ社会に暮らしている、公共性を論じるとき、やはり一緒に同じ人間として論じ合いたい、それが学校の校則問題としても、と彼は言っていたと思う。そのことを、この書籍を読んで思い出したのだった。

金泰明さんは40半ばにして大学院にてドクター取得の勉強を開始している。だからだろうか、彼の論説は僕にとってはとても現実的な意味で説得力がある。まず彼は西洋における思想家達の人権概念が二つの原理に大別できる事を仮定として設定する。「価値的人権原理」と「ルール的人権原理」の二つの原理設定は、基礎原理としても十分に耐えうる可能性を持っている。この二つの原理説明は西研さんの書評でわかりやすい。

『人権に関する二つの異なった原理を見出している。ロックの「自然権」やカントの「人間の尊厳」の立場は、個々人それ自体にあらかじめ権利がそなわっており、それを何者からも侵されてはならない「絶対的な価値」であるとみなすもので、これを筆者は「価値的人権原理」と名づける。しかし筆者は、あらかじめ個々人の人格に権利が備わっているとは考えない。人権はもともと、人びとが「「各人の生の欲望」と自由とを互いに認め合うこと」によって生まれたのであり、その面からいえば、人権とは一種のルールなのである。この考えは、ホッブズ、ルソー、ヘーゲルらの立場にはっきりと表明されており、筆者はこれを「ルール的人権原理」と呼ぶ』
(大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター年報・第1号 西研 から引用)

その上で、キムリッカの「多文化的市民権論」を中心にマイノリティの権利論を原理的に考察しているのであるが、その考察の根本に著者である金さんの在日朝鮮人として、今後の日本社会での関わり方があるのは間違い無い。キムリッカの「多文化的市民権論」の要点は、「集団別権利」と「対外的保護」及び「体内的規制の禁止」とがあげられる。ただもともと、キムリッカの思想の背景にあるのが、カナダのケベックのフランス語系住民と北米先住民のため、在日においての適用は難しいと考えざるを得ない。金さんもその事を認めてはいるし、キムリッカの「多文化的市民権論」を原理面から見ると「価値的人権原理」の面が強い点もあげられており、その点においても、今後再検討と基礎付けがし直すべきといっている。

『キムリッカの他文化的市民権は、伝統的人権論を主に「価値的人権原理」でもって補完しようとしたものであるが、長期的にはそれが価値対立の根本的解決に資するためには、むしろキムリッカの理論を「ルール的人権原理」によって再検討し、基礎づけし直さなければなるまい。なぜならば、「価値対立」を内包する市民社会において、一つの理論がマイノリティの政治的承認と社会統合を目標とするかぎり、自らの権利主張だけでなく、社会の成員が相互に承認しあう関係の原理が求められるからである』
(「マイノリティの権利と普遍的人権概念の研究」 P275 から引用)

金氏の視点は現実的で示唆に富んだものだと思う。特に世代が交代するたびに在日コリアン達の意識は多様化し、日本という社会で生活をする意識を持っている人も多い。その意識は僕と何ら変わるところはない。そのうえで金氏は、自己中心性から出発することと、公共性・公共的なるものへの志向性が大事であると述べている。自己中心性とは、利己主義とは違う。自分がしたい事を明確な意思を持ち描く事が、他者の中の「自分性」を大事にする事に繋がると述べている。また「私の欲望」から出発しながら常に「共通の利益」を考え判断するべきとも述べている。その違いを違いとして、公共性を考える事が、開かれた社会を作る、僕はその考えに賛成する。

本書には述べられていないが、キムリッカの理論においてもっとも重要な批判は、キムリッカが先住民などの征服などによって包含される場合をマルチネーション・ステートとして、自発的移民と明確に分けた事である。これにより、エスニック文化・亡命者・難民・外国人労働者などが人達が、そこからこぼれ落ちてしまうことになる。また二分法に分ける事自体が問題となる事も多い。

金氏は上記のようなキムリッカの二分法の視点はないようだが、キムリッカ理論を元にマイノリティ人権理論を構築する場合、気をつけなければならない点だと考える。その上で公共性を鍵語にして、なおかつ「ルール的人権原理」での捉えなおしを考えられているとすれば、金氏の理論は全く違う様相を呈するものになると想像できる。そしてそれは、今後の日本社会において重要な理論になる可能性を持っている。いや、重要度は日本だけでないのかもしれない。

僕がこの書籍を読んで、高校時代の友人の事を思い出したのは、金氏が述べる開かれた社会の条件に、友人が既に考え方として同じものを感じたからだった。違う民族ではあるが、共生したい。その願いの深いところを、まだ子供だった僕が知る事はなかった。高校を卒業した後、彼は理科系の大学で化学の勉強を始めた。当初、頻繁に電話のやり取りを行っていたのだが、次第に連絡を取り合う事が無くなってしまった。その理由は主に僕が自分の事に精一杯だったことが大きい。連絡を再びとりたいと願ったとき、彼は既に転居した後だった。今でも年一回送られてくる、高校の連絡簿から彼の消息を知ろうと思うが、行方知れずらしい。出来れば元気に生活していて欲しいと切に願う。

2005/06/26

猿橋

saru-bashi

ツーリングで甲州街道を使うとき、いつも気にしながら素通りしていた山梨県大月の「猿橋」に行ってきた。はじめから猿橋が目的というわけではなく、帰りに橋の事を思いだし、それじゃあついでに寄ってみようと思っただけなので、たいした話ではないが日記のつもりで書いてみる。

猿橋は「日本三奇橋」の一つだそうだ。現地でそんなものがある事を初めて知った。何事も3つを並べるのが好きな国民性からなのだろう、その他にも色々とあるのは知っている。その中の一つなのだろう、でも奇橋までつくるとはと少し可笑しい。ちなみに、日本三○○のこととか、3奇橋についてはこちら、また猿橋についてはこちらをどうぞ。

何も知識も無く、ただ名前が面白いからというだけで寄ってみただけだった。でもそれで、逆にすごく面白く感じた。谷が深い。橋から底まで約30mあるそうだ。橋の左側に下に降りる道があり、猿橋展望場所とか書いた看板が下りる方向を示していた。多分、谷底からの景観を堪能できるのではと、階段ばかりの細い道を下った。階段は途中できれて、ごつごつとした岩場となり、やがて川を真下に見下ろせるところまでたどり着いた。川の流れはゆったりとして、深そうだ。川の色は濃緑色だが、なんとなくミルクぽい。つまり濃い緑色のミルクといった感じの川だった。

底から猿橋を見上げようと振り返るが、猿橋は谷のせり出した岩と木々に隠れ見る事が出来なかった。展望とは何の事だろう・・・。ここまでの苦労を思い出す。
川ではドコモのTシャツを着た中年男性が一人釣りをしていた。もう少し川辺に近づきたかったが、釣りをしている人に迷惑がかかりそうだった。仕方なく、僕はまた来た道を戻った。

猿橋の正面に戻る。大勢の観光客がたむろしている。バスツアーで来たようだ。バスは5ー6台とまっていた。ツアーの目的はさまざまだが、猿橋は立ち寄る場所としては同じみたいだ。観光客達は、一通り猿橋を眺め、写真を撮り、それから例の展望場所の指示の通りに左側の道を下っていく。一言いってあげようかなと思うが、これも旅の思い出かもしれないと、そのまま何も言わずに猿橋から離れた。猿橋の隣には小さな祠があり、少ないが土産物屋も何店かあった。国定忠治に関連する屋号の店もあった。国定忠治もここに立ち寄ったらしい。

日本の風景というのは、日本の文化が背景にあるのかもしれない。それ以上に風景が文化というものかもしれない。そういえば、図書館から借りているサイモン・シャーマの大著「風景と記憶」が数ページ読んだだけで積読状態なのを思い出す。読む気は強く持っている。それに、もう少しで読み始める事も出来る。それを読むと、今僕が猿橋を眺める風景も変わるかもしれない。

猿橋は広重の浮世絵でも知られているらしい。その猿橋の浮世絵を分析しているサイトをネットで見つけた。分析をとても真面目にしていて、読んでも面白かった。
サイト:広重再考

2005/06/24

アートに関する「もやっ」とした思い

杉田敦氏の「リヒター、グールド、ベルンハルト」を読んだが、自分なりの感想が思いつかない。それ以前に、杉田敦とのアートに関する考え方の違いが、一つの想いとなって行ったり来たりしている。リヒター、グールド、ベルンハルトの3人の個別の論評が面白かっただけに、それが少し残念である。僕の読みが足りないのかもしれない、そんな気持ちにもなる。再読しようかと思う。

考え方の違いは、杉田敦氏がプラトンのイデア論を持ち出した時点から明確であった。彼はイデアを目的因として、それに隷属するアートをイメージしている。アートはアートとして自己回帰的にし、そこに物語を産み出すことを否定する。
確かにプラトンのイデア論は実念論として、時として批判されている。僕にとっては、竹田青嗣氏が語るように、イデアとは、共通了解事項としての本質であり、もしくは芸術家が個々に求める美である。だから、リヒター、グールド、ベルンハルトにしろ、彼らが思い浮かべるアートがあり、それをアートとして追求する、そこにイデアがあるのでないかと思うのだ。

『物語の死というポスト・モダニズムが目指してきた地点。アートは、そこに向かって牽引的な役割を果たしてきた。しかし、その役割を成し遂げつつあるいま、最後に自分自身のなかに巣食う物語を解体して姿を消さなくてはならない。アートは存在の理由を失い、いや存在理由として列挙されたものをすべてやり尽くし、死を迎えつつある』
(杉田敦「リヒター、グールド、ベルンハルト」から引用)

杉田氏の考えが導く先は、上記の通りに「アートの死」である事は必然だと思う。でもそこには大きな錯誤があるのでないだろうか。僕はまだアートは死んでいないと思う。死を迎えたのは、フランス思想としてのアートの死だけでないのだろうか。
そんなことを色々と考えてしまう。ただ、杉田氏の意見に対し反発する自分の論拠は、実は心もとない。

僕はなにゆえに反発するのだろう。ただ一つの意見として、杉田氏の考えを承認できない自分がそこにはいる。それは一つの情念に近いかもしれない。
忘れてしまったものは、アートがアートとして目指す本質のように思える。つまりアートが一つの思想の牽引車を任じてしまったことが、いや牽引車として引きうけてしまったアートだけが、その身を袋小路に陥らせてしまったように思えるのだ。でもそれ以上先へと言葉が続かない。頭の中では幾つもの考えが巡っているのに。

やはりこの本は再読しなければならない。

2005/06/23

サイト「コネスール」でのシガー好きの方々の文章

コネスールというシガー専門店及びシガーバーのサイトにある、シガー好きの方々の文章が面白い。そのなかから幾つか引用して感想をメモしたい。
(以下の文章は全てここにあります)

『ところで、「ハバナシガー」とは言うけれど、なぜ「キューバシガー」とは言わないのだろう。それは、最高級シガーの原料となる葉たばこは、ハバナ市の西側にあるごく限られた地域でしか産しないため、あえて「ハバナシガー」と呼ぶのだ。
経済制裁によってキューバからシガーを輸入できなくなったアメリカ人は、プエルトリコやフロリダなどで、ハバナシガーと同じ葉たばこの種子や耕作方法を取り入れ、キューバ出身の職人にシガーを巻かせている。それでも、ハバナシガーの品質、特にシガーの根本といわれる「香り」には、いまだに到達できずにいる。理由は簡単で、葉たばこを育てる土壌が微妙に違うからだ。』(北方謙三氏)

北方謙三さんの文章で情けない事に初めてハバナ産とキューバ産の違いがわかった。
タバコは植物なので土壌の違いはその味に大きく影響するのは間違い無い。お茶などが好きな方は土壌の違いによる紅茶の違いを実感できると思う。それと同じ事がシガーにもいえる。パイプ・シガレットの場合、刻み方とか熟成の仕方とか、もしくは別のフレーバーを加えたり、ブレンドすることで、味を整える事ができる。整えるといっても、それはそれでとても難しい事ではあるが、ただシガーほどには、植物としてのタバコの葉のもつ個性を強く求めるというわけでもないと思う。でもハバナ産は高い。ハバナ産と銘打っているだけで価格は倍以上違ってくる。

『人間は火に対して、激しさ・静けさ・妖しさなどを感じてきました。少し大げさに言えば、火は、宇宙的な象徴として人々の心に深く入り込んでいるようです。喫煙という行為が今日まで続いてきた根源には、この火に対する信仰にも似た想いが深く横たわっているのかもしれません。「煙」「香り」「味」からなるたばこは、嗜好品として最高だと思います。この中のどの1つが欠けてもたばこは旨くありません。そして、これらは、人間の感覚、すなわち五感を楽しく刺激するところに妙味があります。』(藤本義一氏)

藤本さんのこの説に僕はかなり同意する。かつてインディアン達がタバコを儀式に使ったのは、「火」を受け渡すという意味、もしくは「火」そのものを体内に沁みこませる、という意味合いがあるように思う。逆にいえば、現在の自動販売機などで売られているタバコは、そういう儀式的なものを割愛し過ぎている様に思える。あれらのタバコは、産業革命以後の近代に合った規格化された工業製品だと思うし、タバコを吸うというよりも、もっと受動的なもののような感じをもつ。でも本来タバコというのは、自らその世界に入り、そこで遊ぶというような、能動的なものと思っている。タバコに遊びを求めるとしたら、多分シガーとかパイプとかにこだわらないと出来なくなっているが、それらを遊ぶには時間的な余裕とか空間がないのも事実かもしれない。

『シガーを吸いながら頭に浮かぶのは、昔の旅のことでもなければ、この先の旅のことでもありません。今の生活のことでもない。まったく関係のない“何か”が、ぼんやりと浮かんでは消える。それが優雅で心地いい。』(ロバート・ハリス)

ロバート・ハリスさんの言う事もよくわかる。その通りなのだ。頭に浮かぶ「何か」がとても心地良い。吐き出した紫煙の行方を目で追う。それは形を保ちながら暫く漂うが、そのうちに拡散して靄のようになる。頭に浮かぶ「何か」も同じようなものだ。

そういえば、今日渋谷のタバコ屋でオランダのシガーを買ってきた。「CAFE CREME」というミニシガーなのだが、ジョニーディップがミニシガー美味しそうに吸っていたので、一度短いのも吸ってみようと、彼と同じ銘柄ではないが安いので買ってきた。香りと味が少々淡白。それに短いので、煙が熱く、味わう感じになれない。この長さは、この長さなりの吸い方があるのかもしれない。そんな事を思った。でもパッケージデザインは現代的で好感を持った。

2005/06/21

シガーの事など

新宿に会社があったとき、今は別の場所に移転したのだが、紀伊国屋ビルの1階にあるタバコ屋さんに時々いった。シガーを買うのである。キューバ産のシガーは一本数千円する。しかもそれらのシガーはワイン貯蔵庫のように冷蔵され保管されている。その一本一本を吟味し、今日買って楽しむのはどれにしようかと考えるのである。結局、垂涎のシガーは見るだけで、一本千円位ので我慢することになるのだが、色々と迷うのは楽しい。

シガーはカッティングが命だから、カッターが重要となる。ギロチンの様に一気に均等に切る。よく西部劇などで、シガーを歯で噛み切るシーンがあるが、あれは決して、してはいけないことだ。噛み切るくらいなら、爪でちぎったほうがよっぽど美味しい。

喫味はカット面が大きいほど薄くなり、小さいほど濃くなる。勿論、火はマッチで擦ってつける、マッチもシガー用マッチでつけなければ美味しくはない。シガー用のマッチは長くて、成分としてイオウ分が少ない。

吸うときは、煙を口の中で転がす様に、肺に入れるのは少なめ、シガーは煙の味を楽しむ遊びなのだ。逆にだからこそ、喫煙場所は選ぶ事になる。一本吸い終るのに数十分かかる。匂いもシガーによって独特なので、街中で吸うわけにはいかない。どこかの適切な場所、例えばシガーバーなどに行く事になる。もしくは自宅でしかすえない。バーなどでも、匂いがきついため、お酒の匂いを楽しむ人にとって、パイプと同様に嫌がられることもある。まずは吸って良いか聞く事から始まるのは、今に始まったことではない。

考え様によっては、タバコ自体、今では吸う場所がかなり制限されている。でも、シガーもしくはパイプ好きにとっては、本当に昔から吸う場所は少なかった。

映画俳優でヘビースモーカーといえば、現在ではまずジョニーディップがあげられるだろう。ジョニーディップがタバコを吸っている写真は多い。ある写真を見たが、どうもシガレットでなくシガーだった様にみえた。少なくとも紙巻タバコではなかった。煙たそうにタバコをすう姿が似合っている。

聞くところによれば、ジョニーディップが出演した映画「デッドマン」では、彼が演じる役はタバコが吸えない男だった。そして、その彼はまわりから「たばこがないか」と聞かれ、「俺は吸わない」と答えるそうだ。そのセリフはジョニーディップがヘビースモーカーである事をしって監督がわざと付け加えたのだそうだ。

日本人でシガーが似合う男といえば、やはり吉田茂だと思う。彼のシガーはキューバでの最古ブランドである「ラ・コロナ」であった。彼は、伝説のブランドであるキューバ産シガーを吸う事で、政治家として一つの演出効果をだす事でもあったと思う。

吉田茂と同じ時期の政治家としては、チャーチルもシガー好きであった。彼のシガーはハバナ産だった。

政治家で忘れてならないのは、ケネディだろう。これはあるサイトで知ったのだが、ケネディはキューバ産のシガーを愛好していた。彼はそのシガーを大量に買い占めた後に、キューバ経済封鎖にゴーサインを出したといわれている。本当かどうかわからない逸話だが、僕は信じている。

最近僕はシガーを買っていない。好きなことは好きなのだが、わざわざ買いに行くほど好きでもないのかもしれない。それに一本数千円というのは、よほどのときでない限り吸えないのも事実でもある。ジンクスとして、映画では吸っていないシガーを胸ポケットにいれ、成功したときに吸うシーンが出てくる。日本で言えば、達磨に目を入れるのと同じだろう。できれば、そのまま達磨に目を入れるジンクスでいて欲しいと願う。選挙当選でシガーを吸えば、きっとシガーのイメージが悪くなるように思えるからだ。まぁ、そんな願いはしなくても大丈夫だとは思うが(笑

2005/06/20

バットマン・リターンズ、見終わった直後の感想

バットマン・ビギンズ」を見てきた。何故今バットマンなのかは別にして、バットマン好きの僕としては見なくてはいけない。それに大変におもしろい映画だった。展開も早いし、あのバットマンの世界観も現代的にアレンジされているとはいえ、十分に醸し出している。従来はゴッサムシティという都市世界を描く事がバットマンを描く事でもあったのに対し、今回のビギンズは、バットマンであるブルース・ウェイン個人を描く方にさらにシフトした感じがする。そして、その点においては成功したかもしれない。少なくとも僕の中では、バットマン映画として過去の作品と較べても上位にランクする内容だった。

ただ、ビキンズはスターウォーズのエピソード1から3へのダースヴェーダ誕生までの物語と重なって仕方が無かった。少なくとも僕にとって、バットマンの作り方は、ダースヴェーダーの作り方と同じだったし、しかもバットマンが武道を学ぶ師匠としてリーアム・ニーソンが登場する事から、さらにそれは強まったのも事実だった。それはアナキン・スカイウォーカーを見出したクワイ=ガン・ジン(同じくリーアム・ニーソン)と重なる。なぜ、ダースヴェーダーとバットマンが重なるのかよくわからない。たんに見え方としてのコスチュームが似ているからとかというのでなく、大元の所で両者は似ているような気がするのだ。

ビギンズでは「正義」という言葉が多く語られるが、それはこの映画におけるゴッサムシティでの概念であって、観客が映画に没頭する事が出来る「わかりやすさ」があればそれでいい内容である。映画が終わり、観客達が連れ立った友人達と早速に始める、映画の「つっこみどころ」は、映画への没頭に対する逆作用と考えれば、その量の多さは映画の成功を現しているのかもしれない。そう、この映画は突込み所満載だった。ただ、僕はその点も含めて楽しむ事が出来た。

「正義」だとかゴッサムシティの「都市論」だとかは、この映画では無縁だと僕は思う。単純に思う事は、ビギンズは「父性」について考えさせられる映画だということだ。それはダースヴェーダーが「母性」に関することと対照的でもある。ビギンズでは、主に父親の事が語られ、一緒に暴漢に合い殺された母親の事は殆ど出てこない。バットマンを鍛えるリーアム・ニーソン、見捨てることなく愛情を注ぐ執事マイケル・ケイン、彼に知性を授けるモーガン・フリーマン。彼らは、それぞれに父親の一つの姿を現しているかのようだ。しかも、少年時代に井戸に落ちた逸話は、オスライオンが我が子を谷底に落とす逸話と同じだ。

父親を喚起するイメージが多く登場するビギンズは、それが多く登場するがゆえに、逆に「父親の不在」が前面にでていると思う。
「何故井戸に落ちた」
「這い上がるためだ」

何故今バットマンなのか、それは商業的にはスターウォーズの最後の作品公開前という思惑があったことだろう。スターウォーズとこの映画は、僕にとっては完全に競合する。スターウォーズはダースヴェーダーが誕生し、ビギンズはバットマンが誕生する。それぞれの誕生が何を現すのか僕にはわからないが、ただ両者とも面白い映画であることは間違いなさそうだ。次はいよいよスターウォーズである。

2005/06/19

2005年6月19日の日記

■今日は久しぶりに朝よりツーリング。行き先を決めずにまずは東名に入る。走りつづける。しかしいやにハーレーが多いなぁとおもうが、気にしない。気になるのは、行き交うハーレー乗りが挨拶をしてくる事だ。昔であれば、ツーリング時は所謂ピースサインがすれ違いざまに交わされていたが、現在ではそういう共同体幻想は既に崩れているので(笑)、滅多に交わす事はない。
それを考えると今日はすごい。
時間を決めず、のんびりと、つまりはPAとSAに止まり止まり走り、御殿場で東名を降りる。箱根に行こうかと思ったが、箱根方面には嫌な雲がかかっている。そこで、山中湖方面にいき、そこから中央道に入って東京に戻る事にする。途中で、昼食を取り、見知らぬ土地を散歩し、またオートバイに乗る。そんな事の繰り返し。
時間と共に、オートバイの何台も見かける、しかも同じメーカー、行き交うオートバイは全て僕と同じと思えるほどだ。少し不思議に思い始める。
途中で右のウィンカーが電装系トラブルと思える状態で、点滅しなくなる。そこでコンビニエンスに立ち寄り状況を確認する。そこにたまたま一緒になったライダーと語る。勿論その方も同じメーカー。
「なんでこんなにハーレーが多いのでしょう」
と聞く僕に、彼は驚いて僕を見る。
「え、貴方はあれに来たんじゃないの}
「はぁ???」
聞けば、年に一度開催しているハーレーの祭典「富士ブルースカイヘブン」が行われていたとの事。そう云えばそういうのあったなぁ、と思い出す。しかも僕は入場券もバイク屋からもらっていたっけ・・・
気がつかずに、開催地と同じ場所に向かっていて、知ったときは終わっていたという、なんというこの身のアホさ加減。まぁ知っていたとしても行かなかったとは思うけど、その物言いが、負け惜しみに聞こえるのが不思議なところ。

■本当は別途記事をあらたに立ち上げたいほど最近気にしている事がある。それはブドウだ!
東京世田谷の自由が丘の近くにぶどう園があって、そこのブドウがたまらなく美味しい。世田谷で昔から果物を栽培していた農家があった。飯田さんといいう方で、その方のブドウは手間隙をかけつくられとても美味であった。その飯田さんのを師匠として、高橋さんがブドウを作り始める。僕が毎年行くぶどう園は高橋ぶどう園である。高橋さんのブドウへのこだわりは大きい。(世田谷ブドウ研究会のサイト
ブドウの品種は本当に多いが、高橋ぶどう園で食べる事が出来るのは、黒系では「高尾」と「高墨」「ピオーネ」、赤系では「紅瑞宝」「安芸クイーン」と「ハニーレッド」。
殆どの方のお目当ては「高尾」である。「高尾」は東京生まれの巨峰系ブドウであり、巨峰より若干小粒だが、甘味が強く、巨砲より断然に美味しい。種無し。
美味しいブドウを食べたくて、山梨まで行こうと思っていたとき、ためしに高橋ぶどう園の「高尾」を食したとき、他に行く気がしなくなった。黒系でこれに次ぐのは、藤沢のブドウくらいかも。
といっても全国には、食した事がない美味しいブドウがたくさんあると思うので一概には言えないとは思うが。でも出来れば一度「世田谷のぶどう」を食べて欲しい。
8月の一日、今だ決まらぬ日にちだが、指折り数えるブドウの日である。

2005/06/18

携帯短歌

NHKスペシャルで「携帯短歌」の話があった。帰宅してテレビをつけたら ニュースの後に放映していたのだが、その日のニュースで倉橋由美子の訃報もあったので、そちらに気をとられ、番組の中盤くらいで消してしまった。ただ、後から考えると様々なことが思い浮かび、最後まで見るべきだったのかもと少し後悔した。

番組では15歳の少女を紹介していた。彼女が表現手段としてなぜ短歌を選んだのか、そのことについていっていた言葉が気になってきたのだ。既に僕の記憶は曖昧だが、確か彼女はこう言っていたよう思う。
「詩だと長すぎるし、話としては上手くまとめることができない。5・7・5・7・7の定型の短歌であれば丁度よいし、ストレートに自分の気持ちを表現できる」と。

別に彼女のことを話そうと思っているのではない。何らかの表現手段を持っていることはよい事だと思う。そう、それは今僕がこのブログで、メモと称して何かを書き綴っていることと似ているのかもしれない。

番組のはじめに女の子の声で、言葉の氾濫ということを言っていた。確かに世の中は言葉に満ち溢れている。携帯電話でのメールを作成する姿は既に日常化している。それらは、主に友人から友人への伝言であり、近況報告であるのだろう。携帯短歌での宛先は誰だろうか。そんな事をつらつらと考える。

ロシアの詩人マンデリシュターム(1891?1938)はエッセイ「対話者について」の中で、「投壜通信=詩」であると語っている。もしかして携帯短歌も同様なのかもしれない。投壜通信とは航海者が遭難時に海に投じる瓶に詰めた手紙の事を言っている。何も携帯短歌をしている方が遭難者といっているわけでなく、マンデリシュタームの言葉を借りれば、今でなく未来に、その短歌を見つけた人に向けての発信という事だ。未来の人といっても、もしかするとそれは自分自身宛かもしれないが、それはそれで振り返ったときに笑って人に話せればと思う。

身近な家族・知人・友人に話をするのでなく、携帯短歌として発信するのは、身近な人との会話は、身近であるがゆえに限定されるからだと思う。身近だからこそ話せない事も多い。それは僕がブログをしていることから想像できる。距離を遠く離れてしまった恋人同士は、逆に電話・メールなどの交信が頻繁になるだろう。距離はあると云う事は、相手が見えないという事は、もしかすると言葉を産み出すのかもしれない。

同じくマンデリシュタームは、政治家・散文作家・演説家は今を語り、聞こうとしている者達を歓迎する、でも詩人はそうではない、逆に現在の人達に向けての詩は時として詩の美しさを犠牲にする、とも語っていた。それは、詩がアフォリズムになってしまう事への危惧を言っている様にも感じている。

『したがって散文作家は、社会より「高く」、「優れて」いなければならない。散文の中枢は教訓である。だから作家は台座が必要なのだ。詩は別物である。詩人は摂理による対話者とのみ結びつく。詩人は必ずしも自己の時代より高く、自己の社会より優れていなくても良い』
(マンデリシュターム「対話者について」 早川真理訳より引用)

短歌を考えるのはとても楽しい。それらは心の断片でもあり、記憶の一こまでもあるだろう。ストレート過ぎる短歌とか、格言にもにた短歌は、個人的な好みではないが、時としてはっとさせられる物も多いのは確かだ。それらの中の幾つかが残され、後の人に伝える事が出来たらと思う。

これらの事を考えたとき、ブログと携帯短歌とは似ているようで少し違うものだと思い始めている。ブログが広い意味での日記であるのなら、やはりそれは記録に近いものかもしれない。ただ、宛先については投壜通信に似たものを感じてはいる。

2005/06/16

冬の日光金精峠で幽霊を見たと勘違いした話

昔の事だが忘れられない話がある。会社有志でスキーに行く事になり、僕が幹事になったことがある。色々とスキー場はあるが、僕は自分の趣味から奥日光湯元スキー場に決めた。理由は簡単、冬の日光に行きたかったのだ。本当に我侭な幹事だと思う。自分のことしか考えていない。でも何故だか、その企画を友人達に言ったとき、反対は一人もいなかった。それも面白いんじゃないかと言うのだ。湯元スキー場は雪質が良いといわれていたので、それもあったのかもしれない。

というわけで、僕らは2月頃だと思うが、日光に向けて出発した。実の所、僕はスキー以外にもう一つ計画があった。それは一緒に行く友人達には話さなかったが、湯元から金精峠を越えて菅沼まで歩いてみるということだった。雪がなければ、湯元から菅沼までは観光用の有料道路があり、金精トンネルを抜ければすぐに菅沼だったので、そのイメージがあった僕は割と気楽に考えていた。

着いて翌日早朝に、友人達にちょっと金精峠に行ってくると言って出かけた。気持ちで言えば、本当に「ちょいと」という感じであった。でもそれは、有料道路を歩くといってもやはり冬山であって、雪が浅い場所でも膝くらいまでの深さを、汗をかきながら少しずつ進むといった状況であった。その日は朝から珍しく晴天で、それも行って見ようと言う気持ちにさせた理由の一つだが、一人の雪山を大いに楽しんだ。

金精トンネルの入り口に着いたとき。少し曇り始め、雪がちらほらと降り始めた。でもまだまだ視界はよく、そこから見下ろす冬の戦場ヶ原は、なんというか圧巻だった。また戦場ヶ原のむこうには中禅寺湖も見ることが出来、僕は一人その景色を楽しんだ。
金精トンネルは、雪が中に入り込まない様に、木製の大きな蓋のようなもので塞がれていたが、人が入る事が出来る程度の隙間があって、そこからトンネル内部に入る事が出来た。
トンネルを抜けるとすぐに菅沼だ。菅沼の静かな冬の情景を見ることが出来る。そんな気持ちで、僕はトンネルの中に入っていった。

トンネルの中は、蓋をしているとはいえ隙間が幾つもあり、入り口付近は案外明るかった。しかし、トンネルの出口のほうは全くの闇だった。ほんのり出口の明かりも見えないかと、僕は凝視したが、それは全く見ることが出来なかった。それでも別に構わないと、僕はトンネルの中へと歩いていった。折から、雪と風が激しくなりトンネルの蓋が細かな音を立てた。暫く歩いていると、だいぶ暗闇に目が慣れてきた。それでも出口らしき明かりは全く見えない。後ろを振り返ると入り口は小さく、ほのかな明かりとなっていた。歩く方向は闇であり、立ち止まって周りを見ると一人でやはり闇の中であった。

そのとき、前方に何体かの人影が見えた。えっと思い、目を凝らし見ると確かに人影がある。でもそんなはずはなかった。二月の封鎖された雪山のトンネルの中に、数人もしくは数十人の人がいるとは思えなかった。急に怖くなった。それは背筋から頭に突き抜ける悪寒と共に、さらに強まった。その人影は数体どころではなかった。数十という数で、微動だにせずそこに立ちつくしている。高さにして160から180cmくらい。僕は後ずさりし、そして来た道を戻ろうかと思い始める。でもそれ以上に、その正体が何かが気になった僕は、その人影に向かい歩いた。

それは氷の柱だった。トンネルの上部隙間から漏れ出した水分が下に落ち、それが瞬く間に氷って柱になったのだった。傍に行き、氷の柱を触る。気がつくと、僕が今まで歩いてきたところにも、周囲に何本も立っていた。気がつかずに傍を歩いてきていたのだった。風と雪がさらに激しくなってきたらしい。トンネルの蓋ががたがたと音を立ててゆれ始める。その時だった、僕は自分がこの闇の中に一人でいる事を強く実感したのだった。周囲には無言で立ち尽くす氷の柱。恐怖が僕を襲った。僕はトンネルの入り口に向かい走った。

トンネルを出ると激しい吹雪だった。風が強い。暫くはトンネルの中にいた方が良いかもしれないと少し思ったが、僕はトンネルの中に入りたくはなかった。そこは幽霊達のいる場所で、人がいてはいけない場所、そんな気がしたのだった。とにかくこの場から立ち去りたかった。だから、迷わず有料道路を湯元に向かって歩いた。来るときは楽しかった景色は、雪に覆われた木々があたかも僕を襲うかのように思えた。僕は、まさしく転がる様に、みっともなく、汗でドロドロになってスキー場にたどり着いたのだった。

スキー場で楽しく談笑している友人の一人が、とぼとぼと歩いている僕を見つけ、顔が真っ青だといったが、僕はただ笑うしかなかった。

2005/06/15

グレン・グールド雑感

■グールドに興味が尽きない。『「草枕」変奏曲』(横田庄一郎)と『漱石とグールド』を読んだ。『漱石とグールド』は8人のグールドに関する評論を、しかも「草枕」を通じて、集めたものだ。特にその中で、グールドが漱石の「草枕」に傾倒した事実を早くに発表した、翻訳家のサダコ・グエン氏の文章があり、彼女の文章が読みたかった。横田さんの『「草枕」変奏曲』も面白かったが、サダコ・グエン氏を含めた8名の評論の方が、それぞれ個性的でより楽しめた。

■そういえば、グールドが百数十回も見た映画があるとかで、それが安部公房原作の「砂の女」だというので、正直驚いた。グールドの愛読書「草枕」といい、映画といい、日本のものに興味があったようだ。でもグエン氏が評論で言うように、グールドの演奏、もしくは解釈に東洋的なものは感じる事はできない。東洋的な憧れというより、もっと直接的にグールドの肌に合ったということなのかもしれない。

■安部公房の「砂の女」は僕にとっても印象的な作品である。高校時代に安部公房に僕は熱中していた。それは一種の格好付けの熱中でもあったかもしれないが、動機はどうあれ、「砂の女」は本当に面白かった。勿論映画も見た。勅使河原宏監督作品だが、監督を気にするよりも、岸田今日子の演技が印象的だった。しかし、百数十回も通してみる事は僕には出来ない。

■その他、「文藝別冊 グレン・グールド」も読んだ。2000年4月に出版したこの雑誌で一番面白かったのは、伊東乾さんの評論であった。その中で、伊東さんは、グールドが率先して活用したレコードが、現在のコンサートビジネスにおいて収益の一つの柱であり、その結果楽団に頻繁なる特定楽曲の演奏を強い、練習などの修練をする時間不足による、全体を見ての技術の低下があることを示唆していた。また、各登竜門としてのコンクールの発展も、このコンサートビジネスとともに発展してきたとも述べていた。音楽といえども、市場経済を背景にした、コピーによる低品質だが低価格の大量販売という、工場製品的な製造から逃れられないのは事実なのだとあらためて考えた。さらに、現在のデジタル編集技術では、売れる音楽へと、いかなる音楽も編集可能なのかもしれない、そうなると必要なのは、ブランド化した演奏家もしくは指揮者を造る事なのだと思い至った。これもグールドが先鞭をつけたことなのだが、彼にとっては自分の音楽を完璧にするためでもあったはずなのに、流れとしてはその逆に流れている様に少し思う。

■グールドがコンサートから撤退した理由、グールドに関する評論で様々に語られる理由はそれぞれに理解はできるが、どうも腑に落ちることが少ない。その中でも一番わかりやすかったのは、ある一人の演奏家の言葉だった。彼は逆にグールドが聴衆の反応に影響を受けやすかったのでは、と言っていた。彼は、「まじめに受け取らないでくださいよ」、と前置きをいれていたのだが、同じ演奏家としての言葉が、なんだかんだといっても一番グールドの気持ちに近いのではないかと思う。

■この演奏家の言葉は説得力があるが、やはりレコード技術の発達がなければグールドのコンサート撤退は実現不能だと思う。それは音の録音と編集の技術であり、コピーアンドペーストの技術といっても良いのかもしれない。

■グールドが撤退したコンサートとは、コンサートホールという場での聴衆と音楽家とのコミュニケーションであり、そこでは同一時間と同一空間を共有し合う。グールドにとっては、聴衆とのコミュニケーションは、自分の音楽を追求する上で不必要であったということだろう。コミュニケーションをとる場合、相手に対する配慮とか気遣いを人は意識せずに行っている。その結果、自分の意見を相手に受け入れられるように少し変える事もある。それが普通といえば普通の話ではあるが、グールドにとっては耐えられないことでもあったようだ。

■別の云い方をすれば、グールドは音楽に完璧を追求するために、不純物を削ぎ落としていったのだ。そしてその不純物の一つに、聴衆との直接のコミュニケーションがある。それはある意味、演奏家として、聴衆との会話の断絶を意味している様に僕は思っている。ではグールドは個人として友人・知人との会話も苦手だったかといえば、そうでもない。グールドはユーモアを交え楽しく明るい会話をする。少なくとも表面上はそうだったようだ。でも彼は、例えば彼の書簡・著作物で語る程は、自分の信念を会話において吐露している様には思えない。

■完璧を追求する時、人は孤独の中で、自己の思考の中で、それを求めるのかもしれない。完璧でなく、成熟もしくは円熟をグールドが求めたのであれば、多分コンサートとは決別する事はなかったと僕は思う。成熟もしくは円熟は人との会話の経験・体験を必要とすると思うからだ。

■実はグールドを考える時、僕の中では「会話の喪失」という状況に思い至るが、それらはまだうまく説明できない。まさにその点でグールドは僕と現在の社会を考えるときに繋がっているように感じる。

2005/06/14

倉橋由美子さん死去に思う

倉橋由美子さんの書籍で思い出すのは、「スミヤキストQの冒険」、「聖少女」、「暗い旅」、そして「アマノン国往還記」。とくに僕が面白いと思ったのは「アマノン国往還記」だった。
つい先週、図書館で久しぶりに倉橋さんの小説が読みたいと思い、倉橋さんの小説が並ぶ棚の前でしばし迷った。「スミヤキストQの冒険」を手に取り迷いながら、結局借りずに帰ってきた。今から思うと、なぜ急に倉橋さんの小説を読みたいなどと思ったのだろう。今日、帰宅してニュースで訃報を耳にすると、偶然とは言いながら少し気になった。

僕にとって倉橋由美子の小説は、変な言い方だが、小説らしい小説、それも飛び切りうまい小説、そんな印象をもっている。「アマノン国往還記」を始めて読んだとき、その筆力と構成力とに驚いて、日本にもこのような小説家がいたのかと喜んだのを覚えている。考えてみれば、それが始めての倉橋さんの小説との出会いであった。1986年の出版だから、今から約20年近い昔のことだ。

これまた変な例えかもしれないが、夏目漱石は「非人情」という言葉で、小説における作家の姿を書き表している。それは「不人情」ということでなく、漱石に言わせると、親が子供に対するがごとく、ということらしい。つまりは、子供がおもちゃが欲しいと泣いているとき、親は一緒に子供の気持ちになって泣かない、作家も物語の中で親が子供に対するがごとく小説を書くべきとの意味らしい。間違えているかもしれないが、僕はそんな感じに受け取っている。それと同じ精神を、漱石とは全く違う小説家である倉橋さんに重ねてしまう。

彼女のベストセラーとなった「大人のための残酷童話」では、物語は読み手の望むほうには決して流れない。それは童話から物語への変換であり、そのためには漱石の言うところの「非人情」が要素として必要だと思う。でも倉橋さんにとっては、あらためて考慮するまでもなく、それは物語作家として当然であり、だからこそ、あれらの作品は彼女にとって必然だったのだと思うのだ。

底が浅い追悼のブログ記事になってしまいましたが、倉橋さん、残していただいた作品に感謝します。

2005/06/12

極上のソファーあるいはグレン・グールドの椅子

6年ほど前に僕は自分にとっての極上のソファーを探し続けた。ある1つのイメージが僕にはあった。それは僕にとっての理想のソファーだった。自分の読書専用のソファー。僕はそこに座り、時には包まれるように横たわり、本を読むのだ。ソファーと一体になり、僕自身を無くすのだ。そうすれば至福の読書をすることが出来る。

部屋の大きさからおけるサイズは自ずから限界がある。二人用の大きさ、所謂ラブチェアと呼ばれているサイズで少し大きめのソファ。構造は木枠フレームでがっしりしているもの。張り地は、出来れば牛革が良いのはわかるが、合成皮革を選択する。布張りは長期間の使用に不安を残すし、何より至福の読書をするためのソファーには布張りは似合わない。肘掛けは、横になったとき枕代わりであり、足を乗せる台になるので小さめが良い。なるべくソファーとの一体感を得るために、ロータイプは選ばない。ロータイプは部屋の環境に調和し、逆にそれが読書に没頭するために疎外になるように思うからだ。

しかし何よりも大事なことは、もちろんのこと、ソファーの座り心地にあるのは間違いない。そのために購入検討対象となるソファーには、店の方が嫌がる迄、長時間座り続ける必要がある。逆に言えば、それでソファー売り場の質というのが解る。短時間であれこれと説明をし続ける店員がいるところではソファーは買うことが出来ない。ブランドは最初から考えていなかった。それはなんというか、ソファーは個性的なものなのだ。自分に合うソファーというものが世の中には必ずひとつはある。それを見つけるには、ブランドは逆に選択する目を覆ってしまう事になる。だから、僕にとってはブランドは邪魔だと思った。

そうやって手に入れたのが、今の読書用のソファーである。ただ購入しただけでは、そのソファーは完璧とはいえない。あとは育てなければいけない。育てるために、まず自分が気に入ったソファーを購入する所から始まるのだ。「本を読む」という行為は、環境を必要とする。環境はその人の身体がそこに受け容れられることから始まるような気がする。違和感がある環境の元では「本を読む」こと自体難しい。その環境として、自宅で本を読む場所としてのソファー、勿論それは必ず読書はそのソファーですべきと言う話ではなく、選択肢としての場所のひとつでもあるのだが、それらインテリアを「本を読む」という行為を基準にして選択すること、それが僕にとっては何かひとつのまとまりをもった、自分の空間を作ることでもあるような気がしている。

カナダの演奏芸術家グレン・グールドには愛用の椅子があった。それは彼の父親が造り息子に与えたものだった。グールドにとってピアノを演奏すると言うことは、ピアノと一体になることだったと思う。まさに演奏するための機械になること。それはバッハを演奏する際に、バッハ?グールド?ピアノの連鎖の中で、出来るだけグールドをなくし、バッハ?ピアノに持っていくことでもあった。そのために必要だったのが父親が造った椅子であった。その椅子がなければグールドはピアノを演奏することは出来なかった。

写真集「グレン・グールド写真による組曲」では、様々なグールドを見ることが出来るが、最後に掲載していた写真は「グールドの椅子」であった。もしくは、CD「アンド セレニティ」では、彼が音楽に求めたのは絶えざる響きとおだやかな心として選曲しているが、CDを取ったときに現れる画像も「グールドの椅子」であった。まるでその椅子は、1982年に脳卒中で亡くなったのはグールドの体だけであり、あくまで精神はそこに顕在しているかのように、そう、まるで真のグールドのように写っていたのだった。つまり僕にとっては、グールドの椅子は象徴ではなく、変なことを言うが、グールドそのものの様な錯覚に囚われているのだ。

極上のソファーを探し回った僕は、グレン・グールドとは較べることさえできない凡人であるが、グールドが何故その椅子にこだわり続けたのかが、なんとなくだけど理解できる。身体が触れるもの、たとえばそれはパソコンのキーボードだったりマウスだったりも含めて、それらはまさに触れることで、単なる物質的なものから自分の身体の一部になると思う。身体は慣れるという。それは間違いないと僕は実感する。慣れるのであれば、それらを選ぶ必要はないのかも知れない。でも無理矢理に身体を慣らしてまで受け容れる必要性も僕に感じられない。

自分にとって極上のソファーは、まず慣れるという点で、既に自分の身体が自発的に受け容れている。あとはそこで数多くの書籍に出会う体験を得ることなのだ。そうすることで、ソファーは育てることが出来る。書籍1冊1冊の記憶と思い出によって。

2005/06/11

トーマス・ベルンハルト「破滅者」

「リヒター、グールド、ベルンハルト」(杉田敦)で何故この3人が並べて語られているのか、この本を読み始めたときは僕には少しもわかっていなかった。第一、これら3人の作品、リヒターの作品、グールドの演奏、ベルンハルトの小説、を一度も、見たことも、聞いたことも、読んだこともなかった。
そこで一旦中断しグールドを聞きベルンハルトを読もうと思った。実際にはグールドを聞きながらベルンハルトの小説「破滅者」を読むという事なのだが、これがやり始めると癖になるというか、僕にとってはとても心地好かった。グールドとベルンハルトは、音楽と小説のジャンルは違えども、とても相性が良かったのだ。

グールドの演奏曲は勿論バッハのゴールドベルグ変奏曲であるが、ベルンハルトの小説を読むことでグールドの何かが解り、グールドを聞くことでベルンハルトの何かが解る、そんな気さえする。
解る何かとは一体何だろう、それはグールドを聞いている最中、ベルンハルトを読んでいる最中に、僕の耳と眼、そして時々自然と黙読するために動く口、それらから僕の身体の中に、渾然一体となるグールドとベルンハルトのイメージを体験する事によって、漠然とそこにあらわれるもの、と言うしかないのが事実なのだ。
でもその時、杉田敦氏が、リヒターについては未だ僕には不明なのだが、少なくともグールドとベルンハルトに関しては、並び語る事がとても自然だと、僕は感じたのだった。

ベルンハルトの小説は、「破滅者」の訳者のあとがきによれば、とても読みづらい小説なのだそうだ。どういう小説なのかはこの「訳者あとがき」の一文を読めばよく分かる。

『一般の小説のように何か特別の出来事があって、それが展開し結末を迎えるというわけではなく、そのため、いわゆるあら筋というものはほとんど述べることができない。全体が書き手である「私」の<思い>なのであって、それが微妙に形を変えながら多層的に進行し、膨大な思考の流れを形成してゆく。なんと原書では、第一ページのこの三つの短い段落の後、全編にわたってまったく段落の切れ目がなく、「私」の思いが、長いセンテンスの積み重ねによって、つねに止まることなく進行し増殖するかたちで綴られてゆくのである』
(トーマス・ベルンハルト「破滅者」 岩下真好訳 「訳者あとがき」から引用)

人の思考というのは整理され秩序だって流れているわけではない。それは繰り返し繰り返し、一つの言葉、出来事、思い、記憶、イメージが現れては消え、もしくはそれを補足肉付けし、言葉として形づけられ、自分の信じる形となって表に出てくるものの様な気がする。さらに、前記の僕の言葉だけでも足りない出来事がこころの中でおこなわれている。それらを、そのまま何も手を加えずに差し出した時、この小説のようなものになるように思う。

この小説では、ほとんどの文は、「と私は思った」で終わる。一つの長いセンテンスの中に、この「と私は思った」は頻繁に使われる。

『途方もない巨大さをもったひとつの世界になろうとしていたものが、終わってみれば笑止な細部としてしか残らなかった、と彼はいったっけ、と私は思った。全て同じさ。いわゆる偉大さというものも最後には、その笑止千万さ、哀れさに感動を覚えるような段階に到達する。シェークスピアだって、ぼくらの見る目が鋭ければ、笑止千万なものに収縮してしまう、と彼はいったっけ、と私は思った。神々がぼくらの前に現れるのは、もう長いこと、髭を生やした姿で陶製のビア・ジョッキの植えにおわすときだけなのさ、と彼はいったっけ、と私は思った。』
(トーマス・ベルンハルト「破滅者」 岩下真好訳 から引用)

「と、私は思った」が頻繁に使われること、また同じ内容が執拗に繰り返される文体。しかし、まったく同じように見えても、少しずつ違い、それらが繰り返されることにより、最初とはまったく違う場所に知らずに連れられる。しかも、それらを読み手は意識することなく、読んでいると小説中の語りが、まるで自分の思考と同一化するようになり、登場人物である友人とグレングールドに対する気持ちが、そのうえで「私」と一緒になる。

登場人物の3人は、いうなれば大人になってからの引きこもりと言っても良い。あらすじは特にないと「訳者あとがき」では語っていたが、実際は「私」の友人の自殺とグレングールドの、二つの中心に「私」の思考は楕円でもって周回する。それは、片方の中心に近づくたびに速度を増し、離れると、また片方に向かって速度を増す。周回しながら、双方の点からの様々な記憶が「私」に付着し、それにより「私」の思考は肥大していく。

僕は「破滅者」をもうそろそろ読み終える。でもトーマス・ベルンハルトへの傾倒は始まったばかりだ。彼の小説をもっと読みたい、そう思う。「リヒター、グールド、ベルンハルト」を一旦中断していたが、とりあえずは元に戻れそうである。元に戻ると言っても、手ぶらのまま戻ったのでないことは確かで、逆に「リヒター、グールド、ベルンハルト」自体が脇道のひとつであるという事実を知ったことが一番大きいのかも知れない。

トーマス・ベルンハルト著作一覧(実際には小説30編・戯曲20編近くある)
・詩集『地上にて地獄にて』(1957) デビュー作品
・『霜』(1963)
・『石灰工場』(1970、邦訳あり) 在庫なし、中期代表作、これは図書館でしか読めなさそう
・『理由』(1975)
・『地下室』(1976)
・『呼吸』(1978)
・『寒さ』(1981)
・『子供』(1982)   上記『理由』から『子供』までの5作は自伝的小説
・『ヴィトゲンシュタインの甥』(1982、邦訳あり) 在庫なし、購入希望
・『破滅者』(1983、邦訳あり) 書店で多少の在庫あり、図書館から借りたが別途購入予定
・『消去』(1986、邦訳あり) 昨年邦訳されたばかりの代表作、購入済み

戯曲家としても『しばい屋』(1985)『リッチー、デーネ、フォス』(1986)『ヘルデンプラッツ』(1988)など多数の作品があるが、全て邦訳はされていない)

補足:最初にベルンハルトの事を知ったとき、何故だかユイスマンスを思い出した。勿論まったく違う。ベルンハルトには、三島が言うところのユイスマンスのデカダンスの香りは微塵もない。なぜ、ユイスマンスを最初に思い出したのか、単なる無知の技とは思うが、それこそ笑止であった。

2005/06/10

グレングールド著作集で見つけた謎の紙片

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図書館から本を借りたとき、その本に赤ペンで線引きがされていたり、思いつくままの言葉が書き込まれていたり、マーカがついていたりと、前回もしくはそれ以前に借りた人の痕跡が残っている時がある。図書館の書籍なので、それは様々な方の手から手に伝わっているのは間違いないが、それらが頁をめくるその刹那に眼にはいると、本の内容から少し離れ、その方の思いを僕の目を通して伝わってしまうのだ。以前に読まれた方の思いが伝わる。その形は様々だ、赤ペンで線引きをされた人は、その箇所をどういう思いで読み取ったのであろうかとか、頁の隅に書き込まれた言葉は一体何を伝えたかったのだろうかとか、そんな事だ。

ある時は、「日本の巨樹」という図鑑のある頁に、鉛筆で「後で連絡すること」と走り書きがされてあった。栃木の日光街道の杉並木のあたりだったと思う。書き込んだ人は日光街道の杉並木の写真を見ているときに、何かを思い出したのかも知れない。そんな想像をする。

今回借りた「グレン・グールド著作集2」(みすず書房)には、今までにない痕跡が残っていた。それは本ブログの写真として掲載したので見て欲しいが、横10cm・縦14cmの紙片に書き込まれた謎の絵柄である。グレン・グールド著作集の頁220と221の間に栞の様にして挟まっていた。その箇所は「音楽としてのラジオ」というタイトルで、グレン・グールドがラジオでの活動をしていたときのインタビュー記事の所であった。

紙片は栞として挟み込んだのか、もしくはわざとなのか、僕にはまったく解らない。また、紙片に書き込まれている内容も、単なる落書きなのか、もしくは何らかの意味があるのかも不明だ。そんなに突っ込んで考えることはしない質だが、面白いので少し興味がわく。書いた人の思いを想像する。その中でこの紙片は、彼(彼女)がグレン・グールドに思いを馳せる際に湧き出たアイデアのイメージとして現れる。そのアイデアは、この絵、しかも点対象で描かれるべき、ものだったのだろう。中の絵は人の顔の部分だと思う。「見る」と「語る」、「嗅ぐ」と「すぼむ」だろうか。それらは相互に関連している。様々な事柄が現れては消える。もしこれがわざとであれば、僕は見事に彼の術中にはまってしまったことになるのだろう。

丁度その謎の栞が示していた頁で、グレン・グールドは彼のドキュメント番組「北の理念」を通じて、モノラル放送とステレオ放送の技術的な長所短所を語っている。このインタビューのグレン・グールドはさながら優秀なプロデューサーの印象を受ける。
今読んでいるトーマス・ベルンハルトの小説「破滅者」で描かれているグレン・グールドは音楽そのものの存在として描かれていた。「破滅者」は小説なので、現実に存在したグレン・グールドとはまったく違うかも知れない。ただ、読み始めたばかりではあるが、僕はこの小説に、正確にはベルンハルトの小説に圧倒され続けている。この小説については読後感想は無理だと思う。読んだその都度僕は感想をメモしていきたい。

バッハの自筆楽譜がドイツのワイマールの図書館で見つかったと新聞報道していた。バッハ関連のことなので思わず新聞記事に目がいく。勿論、世の中の出来事は偶然で起きているのは間違いない。ただ、このような記事に、ベルンハルトの小説に、そしてグールド著作集にはさまれていた謎の栞に、僕自身が出会うのは、現実に客観に存在する世界への僕の見方が、大袈裟でなく以前とは少し変質している、そんな気がしている。

2005/06/09

自分に向けての拙い備忘的な宣言

現場でしか書くことが出来ない文章というのは確かにある。それらの一部は僕らの目の前に差し出される。たとえば今僕の手元にある有名なラス・カサスの「インディアスの破壊についての簡潔な報告」はその一例かも知れない。その中でラス・カサスは1つ1つ具体的にインディアスが受けた虐殺を描いている。ラス・カサスはどちらかと言えば加害者側に属し、その報告書はされる側からの文章ではない。される側の文章は、する側に較べ多くは残っていないことだろう。それでも残されているのも多い。問題は残されることが出来なかった人たちの記録かも知れない。

今実際に何処かでおこなわれている殺人と虐殺。それらを少しでも想像する。その中で記録として書き綴っている人もいるかもしれない。それが後世にどの様な形で伝わるのか、もしくは伝わるのかも含めて、僕には不明だが、その心情は想像が出来るだけに、考えるだけでその立場にいることの恐怖が伝染する。

スーダン政府は民衆を虐殺している。そのスーダンで油田の採掘権を日本のNGOが得たと毎日新聞に掲載されていた。NGOと言えども、その子会社は会社組織としてあるのだろうから、企業と本質は何も変わらないと思うがどうなのだろう。
その企業がスーダンの油田採掘権を得るためには、様々な困難と、それに立ち向かい知恵と工夫で乗り越えてきた事だと思う。担当者も日々あれこれと考え、企画を策定し、会議を開き方針を決め、細かなアクション項目をリスト化し、優先順位を決め、スケジュールを定め、それを基に進捗管理を行い進めてきたのだと思う。新聞記事でもそれは一つのサクセスストーリーとして書かれていた。でも何かが違う。それは、スーダンの今の姿を語る物語ではない。当事者でないラス・カサスが書いた報告書と同じものを、何故企業には書けないのだろう。

それぞれの企業には企業文化というものがある。人それぞれにより考え方は様々だが、企業としては、ビジネスをするという観点から、様々であっては困るというわけだ。それはなるべく一つに集約しなければならない。その考え方で企業文化の基として、企業は「顧客」を造った。常にお客様のことを考えようと言うわけだ。でもそれはどだい無理な話だ。大体「顧客」とは一体誰のことだろう。

顧客を作り上げたもう一つの理由としては、以前のモデルとしての出世=人間形成が立ちゆかなくなったからだ。終身雇用制が崩れている以上、変わりのモデルを企業は造らなければならなかった。そしてそれを外部に求めた。しかし人として働くということは、それを外部に求めることではないし、それは原理的に不可能だ。だから結果的に「顧客」は一人一人の信念として、個々にそれぞれの姿を持ち、それ故に、それは声の大きな社員の意見を尤もらしく見せるための道具に成り下がっている。

たとえば、西日本JRの顧客の命を預かる責任、それはあらためて言うことでもなく、だれでも解っていたことだったと思う。西日本JRがどの様な対応をしていくのか、それは日本の企業における一つの模範となってくれれば良いとは思うが、出発点が少し違うような気もしている。

企業文化に一つ足りない箇所があるとしたら、それは一体何だろう。それは企業としての倫理観に他ならないと僕は思う。たしかに、個人情報の保護については各企業の意識は高い。それはとても重要なことだと思う。社会に利益を還元することとか、地球環境を考えることとか、1つ1つの言葉はとても美しい。でもそれでも僕は倫理ということを企業は考えることが出来ないと思う。それは企業というものの本質が、もしくは考える為の軸が、そこにはないからだ。

やっていいことと悪いこと、それは人間として個人のレベルで解ることが、企業としては不明となる。その上で僕が企業人として出来ることとは一体何だろう。多分、それは企業内で声を出すことだと思う。たとえば或る一つのサービスを立ち上げるとき、それがビジネスプランとして成立するか否かの視点だけでなく、やって良いことか悪いことかの意見を言うべきなのだ。伝えるためにはビジネスの現場としての言葉でそれを語らなければならない。それが少々やっかいではあるが、とりあえずその意識を持って始めてみようと思う。

この拙く言葉が足りない小文は、僕が僕に向けての一つの宣言です。

2005/06/07

グレン・グールド、はじめのいっぽ

結局、杉田敦氏の「リヒター、グールド、ベルンハルト」から読み始めた。読み始めると、そこから宛もなく出口を求めて彷徨う蔦のように、関連する書籍へと流れていく。時には一時中断して違う道を歩むときもある。読書の仕方は紛れもなく散歩の仕方に相通じる。
たとえば、今僕の手元にトーマス・ベルンハルトの「破滅者」とグレン・グールド著作集がある。両者とも杉田敦氏の著作で引用していた書籍である。そして僕は「リヒター、グールド、ベルンハルト」に栞をはさんで閉じ、ベルンハルトの「破壊者」を読もうとしているのだ。また元の道に戻れるのであろうか、多少不安になるが、これも性分だから致し方ない。

グールドを起点に脇道として考えたことが二つある。一つはクラシックを演奏すると言うことについて、もう一つはフィリップ・グラスの音楽と言うこと。
クラシックを演奏すると言うこと、については別にクラシックでなくても何でも良い。僕が一脈通じるかなと思ったのは、朗読劇を聞くと言うことであった。高嶋政伸は朗読劇をライフワークにしている。彼のサイトには貴重な朗読劇を幾つか見ることが出来る。僕は彼のサイトで、泉鏡花の「天守物語」とか、チェーホフの「桜の園」とかの朗読劇を見て、その面白さに夢中になったことがある。「天守物語」には泉鏡花という作者がいる。その「天守物語」を書籍で一人で読むのと、朗読劇で聞く違いとは一体何なのだろう。そう言うことを考えたとき、それはクラシックを演奏するのを聞くのと一脈通じると思ったというわけだ。

中学の時、ベートーベンの交響楽第三番が大好きでカセットテープがすり切れるまで聞き続けた。あの時僕はベートーベン交響楽第三番を聞いていたと思ったし、だから指揮者とか楽団の事は一切気にもしなかった。カセットテープがすり切れ、別途ダビングしなくてはいけなくなったとき、僕は少し困った。なぜならその曲はCDでなく、カセットテープで購入したものだったからだ。そこで、CD屋に行き、学生だったのでお金もないことから、一番手頃な価格の第三番を購入したのだった。で、家に帰って聞いてみると、それは以前のとまったく違っていた。勿論曲としては同じなのだが、それを聞く僕としては、新たに買った方は聞くに堪えられないほど違っていた。

同じ楽譜、そこにはベートーベンによる細かな指示が書き込まれていることだろう。だから、誰が演奏しても同じになると中学の頃の僕は単純に思っていた。それに僕は、ベートーベンを聴きたいのであって、某の指揮者による、どこそこの楽団の演奏が聴きたいわけではなかったのだ。それが人によってこうも違ってくるのだろうか、そう思ったのだった。そう考えると、僕は以前に聞いたものは一体何だったのか解らなくなった。それはベートーベンの曲であって、ベートーベンの曲ではないような、そんな感触にさえ囚われたものだった。

それらのことを、再びグールドによって思い出したのだった。グールドは自らのことをこう語る。

『グレン・スタインウェイ、スタインウェイ・グレン、ただバッハのためだけの』

バッハ~演奏者~聴衆、バッハと演奏者の間には楽譜が存在するし、演奏者と聴衆の間には語る者とそれを聞く者の関係がある。グレンはピアノ(スタインウェイ)と一体化する事でバッハとの距離を縮めようとしたのでないだろうか。しかも、コンサートを拒否し、映画を編集するかのように自分の演奏を編集することで、さらにバッハとの距離を縮めようと試みた。

勿論、グレンが求めるバッハは、グレンが信じ確信する「グレンのバッハ」であるのは間違いない。それでも、そのバッハは追い求めるだけの価値があった。そんなふうに思っていたのかも知れない。

まだ、生半可なグレン・グールド感であるので、僕がこんな事を書いてもちゃんちゃら可笑しい事だろう。だから、この辺でひとまず終わる。朗読劇のこととか、演奏することとは、については、もう少し整理してから書きたいと思う。

もう一つのフィリップ・グラスについて考えたのは大したことではない。単に、「リヒター、グールド、ベルンハルト」を読みながらフィリップ・グラスを聞いていただけの繋がりなのだ。

でも、フィリップ・グラスの音楽について、上記に取るに足らないベートーベンの思い出から、なにかを直感的に感じたのだ。それが実は上手く言葉にならないで、内にもやとして漂っている。反復する旋律、高低差の少ないトーン、それは浜辺に寄せては返す波の動きに似ていると言えば似ている。でも簡単にそうは言いたくない気持ちが強い。彼の音楽は、反復の面では同じではあるが、本質的にはまったく違う、そんな気がしている。そのうちに言葉となって出てくるかも知れない。

2005/06/06

高浜虚子の「斑鳩物語」

高浜虚子の小説「斑鳩物語」は面白い。「斑鳩物語」だけが面白いというのでなく、僕自身が五重塔とか三重の塔などに興味を持っているから、その延長として、この「斑鳩物語」を読んでしまうので、ことさら面白みを感じてしまうのだ。

高浜虚子が斑鳩の里で、法起寺の三重の塔を見て、中に入りたいと寺の小僧に言うが、その気持ちがよく分かる。確かに図面などで塔の構造はわかるが、やはり中に入り、上に上がり、欄干からの景色を眺めてみたいと思う。
小説中で虚子は塔の構造を知らなかったようでもあるが、その覗きたい気持ちは、だからとても理解できる。その願いを聞いた寺の小僧の言い分が、「きたのうおまっせ」である。
虚子の中を覗きたいロマン的な気分を、「汚いですよ」の一言で返す寺の小僧との微妙なすれ違いがおもしろい。

でも確かに汚いのだ。中は薄暗く気味が悪い、埃と煤で汚れているし、しかも構造上、上に登るのにアクロバット的な行動が必要となる箇所もある。
途中で虚子も嫌気がさし、小僧に「もうやめよう」などと弱音を吐く。しかし、先を登る小僧は「もう少しだ」といってそれを聞かない。虚子はその小僧の言葉に権威を感じ従うだけとなる。
もう少し登ると、上はまだまだ遠く、下も同じように遠い。どちらに行っても命を張るならばと、虚子は観念して上へと登る。その言い回しが、面白みを醸しだし、自然と読んで笑みが出る部分でもある。

最上階の迄登り、雀の糞で白くなった欄干の手すりにつかまって虚子が見たものは、景色でなく、斑鳩の宿屋で仲居のお手伝いをしていて、好感を持った女性「お道」と小坊主「了然」の逢い引きであった。二人の逢い引きは、丁度三重の塔の下だった。その姿を見て、一緒に登った小僧が言う。

『私お道すきや、私が了然やったら坊主をやめてしもて、お道の亭主になってやるのに、了然は思いきりのわるい男や。ははははは』
(高浜虚子「斑鳩物語」から引用)

小僧は兄弟子の了然とお道について、了然が修行途中で添い遂げる決心がつかないこととか、お道が了然に捨てられれば死ぬまで思い抜くと思い詰めていること等を虚子に話してから、上記の言葉を吐いて、たからかに笑うのである。勿論、法起寺の三重の塔の欄干で。
この小僧の笑いは、お道の行く末とか、了然の揺れる男心とかを、読者に考えさせる事を停止させる程の力があり、妙な面白みだけが前面に出る。

『所は奈良で、物寂びた春の宿に梭の音が聞えると云う光景が眼前に浮んで飽く迄これに耽り得る丈の趣味を持って居ないと面白くない。お道さんとか云う女がどうしましたねとお道さんの運命ばかり気にして居ては極めて詰らない』
(高浜虚子著『鶏頭』序 夏目漱石)

なんというかこの小説にあるのは風景である。それも油絵とかそういうものでなく、色鉛筆でのスケッチ、しかも色数は少ない、と言う感じで斑鳩での滞在記録を描いている。
この物語を読むとき、何を気にするかで、随分と印象は違ったものになるのかも知れない。僕にとっては、お道のことも気になるが、やはり塔の中をよじ登る描写と、寺の小僧とのやりとりが面白い。

2005/06/05

書籍備忘録

・塔の思想  マグダ・レヴェツ・アレクサンダー
何回か読んでいる本。塔好きの僕にとって、塔を美術史もしくは建築史的でない視点で論述しているこの書を始めて読んだとき新鮮な感動を味わった。
佐原六郎の「世界の古塔」と同様に塔に関心ある者にとっては必読書かもしれない。日本で同様の立場で書かれている本は、梅原猛氏の「塔」くらいだと思う。ただ、彼の「塔」は、いまいち実感が僕には伝わらなかった。「塔の思想」は何故か時折読みたくなる。ヨーロッパの塔中心なので、日本の塔を含めそのほかの地域の塔を考えると違和感をもつのは正直言ってあるし、それを含め、感想文を書きたいと思っているのだが、なかなか難しい。

・マイノリティの権利と普遍的人権概念の研究  金泰明
現象学研究会のサイトで紹介していたので読む気になった本。目黒区と世田谷区の図書館に所蔵してなく、他区図書館から回ってきた。案外早く手に入った事から、この手の本は人気がないなぁと思った。目次をぱらぱらとめくってみると、どうもキムリッカの多文化主義に影響を受けているようだ。少し前に読んだ杉田敦氏の「境界線の政治学」では、リベラリスト、共同体論者、多文化主義者の問題点が洗い出されていたので、その批判に対し、この書ではどのような回答をしているのか興味が出てきている。しかし、厚い本だ・・・

・記憶 物語  岡真理
岩波の思考のフロンティアシリーズの一冊。読みやすくさらっと読み終えてしまった。とくに可もなく不可もなくという感じ。ただ、「プライベートライアン」の映画評が面白かった。
また、最初のほうで「物語」と「小説」を切り分けている事に、少々疑問を感じた。ポストモダニスト達の文章は面白いと思うが、だから何?と言いたくなるのはどうしてなのだろう。

・リヒター、グールド、ベルンハルト  杉田敦
政治学者でないほうの、評論家の杉田敦氏の本。この本は以前より読みたかった。3人の芸術家に関する評論みたいなもの。中心はゲルハルト・リヒター。
『この本は、グールドやベルンハルトが、その背後にいるリヒターの方を指し示すように、リヒターのさらに背後の何ものかを指し示している。それがアートだ。』
うーん、なかなかこのフレーズが良い、と一人悦にいっている。

・時の娘たち  鷲津浩子
実は、今回図書館から借りて、一番はまりそうな本がこれ。最近発売されたばかりの本だが、誰も予約者がいなくてすんなり借りることができた。人気作家であればこうはいかない。
アメリカ文学に関する研究書だけど、その見方というか、筆者の論の進め方がユニークだと思い、それが面白そうなので読みたいと思った。テーマは「アメリカ」文学とは何か。なぜ、アメリカ文学だけが、国名をつけているのかという素朴な疑問からこの研究書が出発している。しかも、手がかりとして、「アート」と「ネイチャー」から始める。ぱらぱらとページをめくると、不思議なからくり機械とか、そういうものが少なからず登場してくる。第一印象は不思議な本。

・詩集「石」 オシップ・マンデリシュターム
エッセイ「対話者について」を読みたくて借りてきた。このエッセイに、以前にブログで書いた投壜通信のイメージが書かれている。短いエッセイだが、さらっと読むのに抵抗があり、何回か繰り返し読もうと思っている。

・ジャンケレヴィッチ  合田正人
合田さんの文章が好きである。この人は哲学者よりも詩人の素養を持っているのでないかと、失礼ながら文章を読むとそう感じてしまう。正直言って文章はわかりづらさがあるし、明解ではない。なにより、合田さん自身がわからなくて悩んで書いているような、そんな印象をもってしまう。とくに、「レヴィナスを読む」を読んでそれを強く感じてしまった。でも言葉の使い方が、とても美しい。だから、合田さんの文章は僕にとっては言葉に身をゆだねるという、およそこの手を書籍にふさわしくない読み方をしてしまう。読み終えたときに、具体的には何も残らないが、全体のなんというかイメージが身に残る。でも結構そういうほうが忘れなかったりするものだ。あ、この本はジャンケレヴィッチの評伝みたいな本。

さてと・・・こんなに読めるのかと自分では思っているが、何とかなるだろう。途中でつまらなかったり、何が言いたいのかがわかったら、さらっと流すと思うし。でも言葉というか、文字というか、その中にどっぷりとつかりたい派なので、できればさらっと流す部分は少ない事を願ったりもしている。

2005/06/03

北斎漫画制作キットで遊ぶ

皇子

北斎漫画制作キットで遊ぶ。なかなか難しい。実は3作作ったがどれもいまいち。今見ると、何がなんだかちっともわからん!大変失礼しました・・・
サイト:北斎漫画制作キット

2005/06/02

細見和之「言葉と記憶」を読んで

細見和之氏の「言葉と記憶」(岩波書店)では3人の詩人が登場する。

尹東柱は1917年に当時の中華民国東北部(満州)間島に生まれた、朝鮮人の詩人である。1945年2月に極度の衰弱のすえに27才で獄死している。彼の詩は朝鮮語で書かれ、刊行した詩集と、日本から友人宛に送って詩編は、共に彼の友人の手で地中深く埋めて隠された。

カツェネルソンはポーランド系ユダヤ人、1886年にベラルーシ(白ロシア)ミンスク近郊の寒村に生まれた。第二次大戦前には東方ユダヤ人社会で既に活躍をしていたが、大戦勃発後の数日で地域はナチスに占領、カツェネルソンは家族と共にワルシャワに逃げ延びる。
ワルシャワ・ゲットー蜂起にも参加するが、蜂起指導部から詩人として生き証人を求められ、偽の中米パスポートを使いフランスに辿り着き、そこでナチスに捕まる。ナチスは連合国側の自国捕虜交換の交換要員としてカツェネルソンらを考えていた。
その期間にカツェネルソンは「滅ぼされたユダヤの民の歌」をイディッシェ語で書き上げ、抑留キャンプの地中に隠す。
交換要員としての役に立たないと判明したナチスは、カツェネルソンをアウシュビッツに移送し到着直後その場で直ちに殺してしまう。

ツェラーンは1920年に当時ルーマニア支配下にあったチェルノヴィッツでユダヤ系の家庭に生まれ、ドイツ語を母国語として育った。
ナチス占領により両親は亡くなったが、彼は戦後を生き抜き、それまでに彼が作詩した多くの詩編をドイツ語に翻訳し直す。彼は語学の才能があり、それまでの作品を極めて多彩な言語で作っていたのだった。
しかし、「死のフーガ」が戦後ドイツで高く評価され、教科書にすら採用されるようになったとき、むしろツェラーンは戦後のドイツに現に存在する反ユダヤ主義とナチ時代の犯罪へのアリバイとして機能しているのではないかと真剣に考えるようになる。彼は1970年セーヌ川に入水自殺をする。

上記3人の詩人について細見和之氏は書中で以下に述べている。

『その最後の作品群を抹殺されるという致命的な事態を代償にして、かろうじて残された作品の言葉を「ただしい」宛先に届けえた尹東柱、最後の作品を渾身の力で書き上げながらも、事実上その宛先の多くを失ってしまったカツェネルソン、そして、おびただしい作品を書きながらもそれが「まちがった」宛先に届くという事態を絶えず警戒しなければならなかったツェラーン』
(「言葉と記憶」 細見和之 より引用)

詩人を含め、何かを書き記すとき、何処の言語を使うかで、誰に向けて書き綴っるのかが明示される。そのことに、日本に生まれ育った日本人である僕は気が付きもしなかった。当たり前のように日本語で文章を毎日のように綴る。日常の一環として、弛緩した空気の中で綴られる僕の言葉は、一体誰宛に向けて書いているのであろうか。

確かに今では、日本国内でも英文その他の言語で小説を書いたり、論文を書いたりする日本人は多くいらっしゃる。でもそれは英語圏の人に向けてのテクストという意味合いとは少し違う。それらは不特定多数の多くの方に読まれたい文章であって、上記の3人の詩人の様に特定の誰かに向けて出したテクストではない。
カツェネルソンは何故復活したヘブライ語で書かなかったのか。それはイディッシェ語が当時の東方ユダヤ人達にとっての日常語だったからだ。そして、今ではホロコーストにより失われた言葉の一つとなっている言葉でもある。当時の状況は、カツェネルソンにとってイディッシェ語でしか書き表せなかったのだと思う。

SF作家小松左京が「日本沈没」で描きたかったのは、難民化した日本人の姿だったと思う。だから実際に(小説の中とはいえ)日本を沈没させたかった。それは象徴としての「日本沈没」ではないと思う。難民化するという思いを少しでも日本人に感じて欲しかった、だから、あの作品は「始まり」であって「終わり」ではない。

この「言葉と記憶」ではもう一つ示唆をいただいた言葉があった。それはツェラーンがいう「投壜通信」という言葉だ。ツェラーンが啓示を受けたのは、ロシアのユダヤ系詩人オシップ・マンディシュターム(1891ー1938)の以下のエッセイからである。

『航海者は遭難の危機に臨んで、自分の名と自分の運命を記した手紙を瓶に封じ込め海へ投じる。幾多の歳月を経て、砂浜をそぞろ歩いていて、わたしは砂に埋もれた瓶を見つけ、手紙を読んで遭難の日付と遭難者の最後の意志を知る。私はそうする権利がある。わたしは他人あての手紙を開封したりはしない。海に封じ込められた手紙は、瓶を見つけた者へあてて書かれているのだ。見つけたのは、わたしだ。つまり、このわたしこそ秘められた名宛人なのである』
(「石」 オシップ・マンディシュターム 早川真理訳 より引用)

ツェラーンは、詩=投壜通信であると言っている。
それは遙か以前に書かれた詩であっても、今でも波間を漂っている。たまたま浜辺に打ち寄せられた投壜を開けて中の手紙を読んだとする。確かに、拾った方が「秘められた宛先」だとは思う。でも、瓶を見つけることとは、拾うこととはどういうことなのだろう。また瓶の中を開けて手紙を読むこととは。

変な例えをするが、通信技術で一般的なものとしてカプセル化がある。違うプロトコルを通す場合、カプセル化して、あたかも通すプロトコルに準じた形に変えて通すのだ。カプセルを開ける者だけが、その情報を正しく受け取る事が出来る。途中ではそれは意味もなく、他のデータと区別さえ付かない。つまり、投壜を見つけるという時点で、その人は既に正しい宛先なのだと思うし、他の人はそこに瓶があることはわかっても、それが投壜通信だとはわからないだろう。

瓶は言語の違いで隠すことが出来る。もしくは、詩編の1つ1つの言葉の使われ方により隠すことが出来る。そしてそれらは瓶を見つけた者だけが、封入した手紙を読むことが出来る。
投壜通信に封入された手紙は、遭難者の存在通知でもあるし、記憶の断片でもある。ツェラーンにとってみれば、現代の詩人はある意味遭難者と同じなのかもしれない。

ブログ世界の中でも時として遭難者の投壜通信のような記事を見かけることがある。もしかすると現在では、おびただしい数の壜がネットの海へと投げ込まれているのかもしれない。しかし、海は果てしなく広く、その中において投げ込まれた瓶の存在は果てしなく小さい。社会を形成する一人一人が遭難者の時代。そんなイメージが突如として湧き上がる。

細見和之氏の「言葉と記憶」を読んで、少し気になったことがあった。「投壜通信」としての詩のありかた。言葉の断片に刻み込まれた詩人の記憶。それらは従来のテクスト理論では解釈不能な状況になっているのでないのだろうか。しかし、細見和之氏はそれらのことを書きながらも、尚、デリダの「作家の死」からのポストモダニズム的なテクスト解釈を堅持する姿勢が感じられた。
所々、テクスト論のルールを破る所を見せながら、小論最後で『作品はあくまで作品それ自体から理解されなければならない』としている。そしてそれは「原則」としていながらも、ツェラーンの詩は例外としてあつかっているのだ。思うにツェラーンの詩だけが例外ではない。

その他にも細見和之氏とは歴史認識の違いも感じた。僕自身が自分の歴史認識について、その根底にまで遡っての検証を怠っている面が、そこにあるのはゆがめない事実ではあるが、所々何を根拠に氏は言っているのだろうと思う点があったのも事実。それを本ブログで書くつもりはまったくないが、氏の信念とする歴史認識が、一体何をどの様になることを望んでいるのか、この書籍で読み取れなかったのが残念ではあった。勿論、それは「投壜通信」として、僕が瓶を見つけることが出来なかっただけの話かも知れないのだが。

2005/06/01

二子山親方死去に思うこと

プリンスと呼ばれ土俵際の魔術師と呼ばれた男が、その短い生涯を閉じた。元貴ノ花関の死去に際し各方面からあがる追悼の言葉に、彼が与えた大きさを感じる。それは貴乃花関が僕らに向けて与えたものだけでなく、僕らが貴乃花関を通して求めていたものへの、回顧であり、その時代の気分でもあり、今を生きる者として確認する己の信念に近いものかも知れない。

テレビでインタビューを受けた人の答えは様々であった。
「サラリーマンで言えば、勝っても負けても立ち向かう頑張り屋でした」
「弱さが良かった。弱弱大関で50場所居続けたことが良い」
「小さい体で大きな体にぶつかっていく姿が良かった」
それぞれの回答は、貴ノ花関を見る自分の生き様に反映する言葉かも知れない。貴ノ花関に自分を投影することが出来たからこそ、記憶に残る力士になり得たのだと思うのだ。

相撲の力士を英語では「sumo wrestler」という。「wrestler」の意味が「組み打ちする人」(新英和中辞典 第6版 (C) 研究社)という意味であれば、確かにそうなのかも知れないが、やはり僕のイメージでは「レスリング選手」の意味合いが強い。初めて「sumo wrestler」が力士であることを知ったとき、随分と違和感を感じた物だった。その違和感はどこから来るのか、その時はわからなかったし、今でも同様だろう。

たとえば同じ興行で成り立つ大相撲とプロレスは、似て非なるものなのは間違いないと思う。なるほど両者とも、個人戦としての格闘技であり、金を貰って見せるという面でエンターティメント性も持ち合わせているだろう。また両者とも殆ど裸体で闘うことも同じではある。

ただ、プロレスにはそこに物語が必要であるが、大相撲の一番には物語性はないと思う。強いて言えば、1場所の15日間での物語が一人の力士を中心に見れば現れるかも知れないが、それでも物語を見つけるのは至難と思うのだ。大相撲の物語性は力士誕生から断髪式までの長い期間で語られるものに違いない。つまりプロレスとは物語の時間の流れが違う。

プロレスは一試合の中で、ギリシャ演劇とも思える程の、そこには悲劇があり喜劇があり、倒すべき悪役がいて、一人の英雄が血を流し、天に向かい血塗られた顔で叫ぶ、そういう物語性があるし、見に来る人もそれを密かに期待する。それは八百長だとか、そうではないとか言われる前に一つの完成されたエンターティメントだと思う。

大相撲の場合、少し次元が違ってくる。貴ノ花関について語られるとき、決まって登場するのはお兄さんである初代若乃花関である。お兄さんが開いた双子山部屋に入門した時、兄弟の縁を絶ちきり、兄は竹刀を持って弟を鍛える。そこにあるのは、ただ強い力士を育てるという強い気持ちと、それに応えようとする気持ちのぶつかり合いである。兄も弟も「辛抱」という言葉をよく使った。確かに、「辛抱」でなく「我慢」であれば、兄の竹刀による特訓に弟は限界を迎えたことだろう。我慢には限界がある。辛抱は、多分、字の如く身体に辛さを抱え、身体と同一化すると言うことなのかもしれない。

プロレスでは、悪役の度重なる反則技に、我慢の限界を超えた英雄が血みどろになりながら、反撃をして打ち倒す。その時に発する雄叫びは、我慢し蓄えた力の最後の発散に近い。

辛抱の姿は、昭和47年初場所での横綱北の富士と当時関脇貴ノ花の一戦に現れる。新聞で脅威の粘り腰と賞賛された戦いだが、結果は横綱の右手のかばい手により、貴ノ花関は黒星となる。元横綱北の富士は貴ノ花関の追悼の言葉として、その一番を振り返り、「あれは、俺の負けだった」と語る。そして、自分にとって何もかもを出し尽くした勝負であったとも言っている。テレビで見た元横綱の表情から、かばい手を使うこと自体からして負けなのだという気持ちが表れていたのが印象的だった。その時の貴ノ花関の脅威の粘り腰が、身体として抱え込んだ「辛抱」が表に出た一番だったと僕は思う。

貴ノ花関が国民的な人気力士になり得たのは、体の小さなものが大きなものに立ち向かうという、国民感情としての判官贔屓が根にあるだけでない。プリンスという、決して王にはなれないものへの「悲しみ」をそこに観たのでもない。そこには「辛抱」がキーワードとしてあるような気がする。「辛抱」を身体として見事に発揮した姿を見ることで、日常のそれぞれが抱える辛さに対する一種のカルタシスに近いものが得られたからと僕は思う。

元貴ノ花関(二子山親方)は若すぎるその死と共に、大相撲の歴史の中で忘れられない力士になったのは間違いないと思うのだ。

ご苦労様でした。安らかにお眠り下さい。