2004/10/11

昔この国にオリンピックがやってきた


1964年(昭和39年)10月10日に第18回オリンピックが東京で開催された。アジアで最初のオリンピックでもあり、オリンピックに向けて日本が莫大なエネルギーを集中した時期でもあったと思う。例えば、神宮外苑にある国立競技場は昭和32年に起工、33年には竣工という早さで、2ヶ月後のアジア大会ではメイン会場となっている。

よくオリンピック以前と以後というように、東京はオリンピックを境にその姿が大きく変わった。首都高が出来、新幹線が開通し、道が拡張舗装され、ホテル等の建物が建築された。特に会場となる運動場の周辺は大きく変わったと聞いている。駒沢総合運動場はオリンピック以前は駒沢球場で東映フライヤーズ(現在の北海道日本ハムファイターズ)のメイン球場だった。駒沢球場の周辺は何もない湿地帯だったと聞いた事がある。なにしろその前はゴルフ場であり、明治帝の御狩り場だったこともある地域だ。駒沢運動場の周りで舗装されている道路は国道246号線くらい(戦前246号線は戦車道路と呼ばれた。厚木基地と首都圏との連絡道路の役割のため早いうちから整備されていたと聞いている)

僕は経済には疎いけど、その時期はオリンピック景気と呼ばれ主に土木建築業界と鉄鋼業界がこの国の経済を引っ張っていったのだと思う。そしてそれが後年の「日本列島改造論」に結びついていくような気がしている。

脇目もふらず、ただ前を向き目的に向かって全力で走り抜ける。その結果、東京オリンピックは大成功を収める。でもなくした物も沢山あったのではないのだろうか・・・・

市川混監督の記録映画「東京オリンピック」はまずビルの破壊のシーンから始まる。破壊そして建築。それは悪い事ではないかもしれない。でも破壊された物は二度と戻らない。新たに建築されたとしても、それは破壊した物の代わりではないのだから。

お江戸日本橋の上に首都高が通っている。初めて日本橋を見に行った時、勿論随分昔の事だけど、広重の浮世絵のイメージが強かったせいか日本橋を見つける事が出来なかった。人に聞きやっとたどり着いたのは、探しながら何回も通った橋だった。川の上に首都高が通っている、確かに川の上に作る方が用地買収などで楽だったのかもしれない。竣工までの期間が短い建築だったと思うので、合理的な方法をとったのかもしれないと思うけど、道路起点の場所としては少し寂しいものを感じる。

東京オリンピック以降、東京への一極集中はさらに強まった様に感じる。その結果前記の「日本列島改造論」が出る事になるのだけど、改造論では地方に東京並の街を作り一極集中を緩和しようとの目論見ではなかったのだろうか。結果は益々の一極集中となっている。

僕は「東京オリンピック」は戦後復興における一大イベントであり、それが素晴らしく成功した事を同じ日本人として誇りに思う。それと同時に僕は戦後復興から現在まで続くこの国がなくした物達を偲ばずにはいられない、それはこれから続く道の大事な指標になり得ると思うからだ。

追記:実は円谷選手のことを書きたいと常々思っている。東京オリンピックのことを書きたいと思っていた背景には円谷選手の事が脳裏から離れないためだった。でも結局かけなかった。彼の死を書くにはあまりにも僕の筆力では足りなすぎる、そんな気がしたのだ。人は視点によって、見る内容は著しく変わる。そして彼の死をその土俵に乗せることは僕にとっては不遜の様にも思えた。「頑張れ」と常に言われ。それに答えようとした円谷選手に当時の光と影を見てしまうのは、これも結果を知っての「後出しじゃんけん」なのかもしれない。

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