2005/01/17

阪神大震災から10年目、河島英五の唄

産経新聞に毎日連載している記事に「凛として」がある。既に亡くなられた著名人をエピソードを中心に、その人となりを紹介している。今連載している人は「河島英五」だ。その中で、彼が「復興の詩」を始めるに至った話が出ていたので、少し紹介します。

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『それとは別に、長い目で、何か自分なりにできることがあればいいな…と、英五は乗り気を見せた。
「おれは大阪でやるわ。大阪は神戸の隣町や。これからずっと助けなあかんと大阪の連中に訴えたい」

前田との五時間ほどの打ち合わせで、広告費はかけず、収益は全額寄付することが決まった。
「生きてりゃいいさ」(昭和五十五年)をプログラムに加えてほしい、と前田が頼むと、「そうやな…考えとくわ」と英五は返事した。

英五は東大阪市で育った。「河内のど関西人」と言われもするが、そうしたイメージに縛られるのを嫌っていた。
シンガー・ソングライターとも自称せず、「一歌手」といい続けた。神戸と格別な縁はなかったが、開放的な港町が好きだったらしい。
「この街はいい街やな、という中に、坂道の函館とか尾道とか、神戸は絶対入るよね」と桑名に語っている。

一八二センチ、八〇キロの体格。思い立ったことは、その体で躊躇(ちゅうちよ)せず実行する。若いミュージシャンを引き連れ、大阪城公園やJRガード下で自らビラを配り、路上で歌った。

「四月二十九日、大阪城野外音楽堂で、河島英五プロデュース、復興の詩(うた)チャリティーコンサートがあります。よろしくお願いします」。
口上が終わると、一同はギターをかき鳴らし、数時間歌い続けた。』

(産経新聞 2005年1月10日東京朝刊 「凛として」から引用)

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第一回の「復興の詩」終了後、河島英五は経費を自己負担し10年は続けると宣言した。しかし10年目の「復興の詩」開催には彼の姿はコンサートで見ることはなかった。彼は7回目の直前、平成十三年四月に四十八歳で急逝したのだった。そして7回目は遺影での参加となった。

「復興の詩」開催するにあたり、河島英五の唄「生きてりゃいいさ」が大きな役目を持ったのは事実だろう。それ以上にこの唄が「復興の詩」開催の動機になったと言ってもいいのかもしれない。しかしその唄も河島英五という人がいて、歌ったからこそ、阪神大震災の多くの被災者達に勇気と感動を与えたのだと思う。

河島英五は、一見するとその体格の良さと、彼を代表する「酒と涙と男と女」のイメージから豪放磊落で酒好きのイメージがあるかもしれないが、実際にはその唄を作った時、一滴もお酒は飲めなかったらしい。常にギターを側に置いて離さず、少しの暇さえあればギターを演奏し歌った。名が知られるようになっても路上で歌い続けた。

「生きてりゃいいさ 生きてりゃいいさ
そうさ生きてりゃいいさ
喜びも悲しみも 立ち止まりはしない
めぐりめぐっていくのさ」
(河島英五「生きてりゃいいさ」から)
僕のiPodには数が少ないが日本の歌も入っていて、その中に河島英五もいる。彼の歌を時折聴く。彼の歌声は正直言って美しくはないが、何か心を揺さぶるものがある。それは彼の音楽に対する真摯な気持ちが人に与えるのだと思う。それにしても、河島英五がいなくなり、後に続く歌手はいるのだろうか。歌の持つ本来的な強さを信じる事が出来る歌手は、今日本にどのくらいいるのだろう。ふと、そんなことも考えたりしている。

今年1月17日に阪神大震災から10年目を迎えた。その10年間に多くの災害があった。
新潟県中越地震、三宅島噴火、スマトラ沖大地震とインド洋大津波。1つ1つの災害がおきた日は、それぞれの被災者達にとって忘れることが出来ない日になることだろう。災害では多くのボランティア達が、人の為に働いた事も忘れることが出来ない。人を癒すのはやはり人なのかもしれないなどと、河島英五を聞きながら思った。

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