堀江佐吉は幕末に津軽藩お抱え大工の子供として1845年に弘前にて産まれた。産まれながらにして非凡な大工の血筋を受け継ぎ、子供の頃より熱心で 好奇心が旺盛だった彼は、当時大工の必読書と呼ばれる書籍(注1)を朱線を引いて熱心に勉強する。又、15才の頃には当時海外事情を伝える絵入り本「海外 余話」(酔夢痴人著、1851年刊、全5冊)を絵も含め克明に書き写したほか、外国の風俗画を見入っては興味を募らせていたと伝えられている。
幕末で活躍した人達の伝記を読むと、大体は子供の頃に猛勉強をしたとなっている。堀江佐吉もそれにもれずかなりの勉強家だったようだ。それに「海外余話」の 絵は聞くところによると結構細密画に近い絵だったようなので、それを書き写す事は、大工にとって必要な画才と文才が磨かれていった事だと思う。これほど好 奇心が旺盛で、しかも才能豊かな大工である佐吉は、外国に行きたい気持ちは人一倍強かったのではないだろうか。多分、色々な異国の書籍を読みながら、若 かった頃の佐吉は内心色々な思いに駆られた事だろう。
その当時、明治政府は西洋建築の技術を学ぶため英国より才能豊かな一人の若い建築家を雇った。名前をジョサイア・コンドルと いう。イギリスでは一流建築家の登竜門であるソーン賞を受賞した新進気鋭の建築家だった。彼は1877年に来日して工部大学校教師に就任した。彼の元に は、その後、明治の近代建築家を代表する人材が集まり育っていった。辰野金吾、曽禰達蔵、片山東熊と言った面々である。コンドルを含む、彼らの業績を簡単 に記す。
ジョサイア・コンドルは鹿鳴館(1883)の建築がまずあげられる。その後1884年に 工部大学校を解雇させられている。その理由はわからないが、その後に就任したのが彼の一番弟子である辰野金吾である。解雇後も日本にとどまり、建築事務所 を開設し多くの財界人の依頼で建築を行っている。ニコライ堂(1891) 、岩崎久弥邸(1896) 、三井倶楽部(1913) 、諸戸邸(1913)等。日本文化を愛し、日本人の妻をめとり、終生日本で暮らした。彼はその後日本近代建築の父と呼ばれた。
辰野金吾は、コンドルの元で勉強し主席で工部大学校を卒業、その後イギリスに留学し戻ってから工部大学校教授となる。代表作は日本銀行本店(1896)、奈良ホテル(1909)、東京駅(1914) 等
片山東熊は一生を宮廷建築家として活躍した。代表作として赤坂離宮(迎賓館)があげられる。山県有朋の厚い信頼を得ていたと伝えられている。
曽禰達蔵はコンドルと同じ歳であり、特にコンドルとの親交が深く、かつ強い師弟関係の間柄であった、そしてコンドルと共に丸の内の街並(オフィス街)を作った。他に代表作は慶応大学図書館がある。彼には辰野の2番手の印象が強いが、人望に篤く人格者だった。
僕は日本に現存する西洋館の中で、諸戸邸(洋館部)は特に美しい建築だと思っている。諸戸邸は典型的な和洋折衷の建物で、コンドルはその洋館部分を設計した。
こ れら4人の建築物を見てみると、建築における日本の歴史の表舞台といった印象を受ける。政府および財閥からの依頼による建築が殆どなのだ。語られる歴史は 常に中央の歴史かもしれない、でも歴史は中央だけでは造る事は出来ないと思う。いや、もっと踏み込んで言えば、歴史は語り継げる事のない人々によって、実 際は造られているのだとさえ僕は思う。ちなみに、百科事典で上記の4人の名前を探し調べる事が出来る。でも堀江佐吉は百科事典(エンカルタ)には載っても いなかった。
話を堀江に戻す。堀江は外国に行きたいという強い気持ちを抑えながら、父(堀江伊兵衛)の元で修行を続ける。初仕事は16 才、堀江家菩提寺の専徳寺の欄干の竜の彫り物だった。見事な彫り物だったと伝えている。その後21才で結婚(妻の名前はさた)し10人の子宝に恵まれる。 仕事は熱心で骨身を惜しまず、リーダシップもあり、若くして棟梁となる。佐吉は、技は天才、剛胆、無欲、自らが先に率先して動き、義侠心に富み、統率力と 包容力を持っていた。
現代で考えると、僕が書いた佐吉の人柄は完璧すぎるので、疑いをもって見られる事だと思う。でも伝え聞くところによ ると、若い時から棟梁として、数百人の大工を率い、家には一切の貯えがなく、しかし信用は落ちる事がなく、田舎大工の風采で仕事に没頭する。弟子達と部下 の大工を大事にして、息子達には熱心に大工の技を教えていく姿が、今でも伝えられている。彼の碑が弘前市に現存しているが、高さ7mの立派な碑であるとい う。大工棟梁の碑が造られる事自体(多分日本では彼だけだと思う)、佐吉が如何に慕われていたのかがよくわかる。
確かに今では組織がしっ かりして、無能有能に関係なく役職はある程度上がる事が出来る。もう一つ言うと、現代の組織では、役職が上がれば上がるほど、無能になっていくというパラ ドックスを抱え込んでいる。良くある話だが、最初有能な社員として創造性に富み、数多くの改善を行ってきても、上に行けば行くほど具体的な仕事から遠ざか り、ついには何も自分では出来なくなる。判断能力を磨ければ良いと言うが、ある程度の詳細が把握できなくて、どうやって判断すれば良いのだろうか?
最近、ブームとしてのリストラの結果、優秀な人材が抜け組織力が弱まった。その為、やはり一番重要なのは人材であるとの、当たり前の認識に戻り、人材育成が 各会社で流行っている。でも人を育てる為には、その根本から知らなければならないと思う。そしてそれらは、MBA教科書にも、それに類するビジネス書には 載っていないと思う。佐吉を含め、日本には数多くの優秀な教育者がいる(佐吉は勿論、職業としての教育者ではない)、これら先人達の事を識る事が、もっと も近道のような気がする。
堀江佐吉は明治12年(1879)に函館に仕事に行く。これが佐吉にとってそれからの人生に大きな転機となる。 明治12年頃の函館は佐吉にとって外国と同様だった。函館は長崎、神戸、横浜と並ぶ国際港として、各国の領事館があり西洋の情報が集まっていた。しかも、 多くの西洋館が建ち並び、日本でありながら異国そのものだった。その函館で佐吉は異国の空気の中で貪るように西洋建築を学んでいく。生来勉強家で好奇心の 旺盛な佐吉は、スケッチブックを持ち、仕事の合間に函館を歩き回った。そして西洋建築をスケッチしていく。又時には、建築関係者と会い、話を聞き、設計図 をもらったりもした。設計図は勿論、日本のそれとは書き方も違っただろう。でも佐吉にとっては、それも勉強の1つだったと思う。毎日が楽しく、感動する日 々であったと想像できる。たぶん瞬く間の1年間だった事だろう。でもその1年間でそれからの仕事の内容が変わるのである。
弘前に戻ってき た佐吉は精力的に仕事を続ける。この頃が棟梁として円熟期だったかもしれない。仕事の内容も多岐にわたっている。学校、病院、役所、教会、警察署、兵舎、 橋、等々。全ては堀江佐吉の設計・施工の手によるものだ。彼は大勢の部下達を率いているが、設計だけは彼が全て書いていた。彼の名声はこれらの仕事で徐々 に高くなっていった。
明治37年、第五十九銀行本店竣 工。当時の銀行頭取に「堀江さん貴方の好きな様に造ってください。何も言いませんから」の一言に感動した佐吉は、これまでの経験を生かし、かつ今までにな い自由な構想をもって設計を行う。設計はいつものように丹念に、精密に行った。外観はルネッサンス様式。一見すると石造りの印象を受けるが木造2階建であ る。防火のために、内側は土蔵作りの技法を取り込んでいる。頂上には展望台兼用の装飾搭を置いている。木材は佐吉が山中を歩いて、探し回った青森産のヒバ とケヤキを使っている。完成までに2年かかっている。現在は青森銀行記念館として現存している。国の重要文化財指定でもある。そして、この建築によって佐 吉の名前は全国に知られるようになった。
ますます名声が高まる事により、仕事は頻繁に依頼されるようになった。
明治39年、軍都でもあった弘前の第八師団関連の請負工事で得た利益を公共に還元するために佐吉は弘前市立図書館を竣工する。
弘 前に第八師団が設置されたのは明治29年の事だった。当時の陸軍はプロシア、ドイツを範としていた。その為、陸軍の欲する建物は洋風であった。その時に堀 江佐吉を弘前に擁していたのは陸軍にとっても、佐吉にとっても幸運な事だった。結果的に弘前は日本でも西洋舘が多く立ち並ぶ街となった。第八師団関連の請 負工事とは日露戦争とは無縁でないと思う。日露戦争により軍部は色々な面で拡張する事になる。その関連工事での利益だと思う。
この図書館 を造るとき、佐吉は図書館として将来にわたり残り続けるのだからと、予算枠を完全に超えても納得のいく仕事をしたと伝えられている。木造3階建て、八角形 の双塔に赤いドームの屋根をもつ。、漆喰塗りの外壁、縄で開閉する上げ下げ窓、和風造りの庇など、西洋建築の中に日本建築の良い部分を取り入れている。し かし、この建物は佐吉の意図とは逆に、その後売られ民間のアパート、喫茶店として昭和62年まで使われていた。現在は弘前市が買い取り保存している。
弘前市立図書館竣工の頃より、佐吉の体調が悪くなっていく。明治40年には、弘前偕行社(陸軍士官社交クラブ)、斜陽舘などの設計を行うが、施工は息子達が行う事になる。弘前偕行社は現在国の重要文化財に指定されている。
偕行社は現在、弘前女子厚生学院所有となっている。この学校は保母さんの学校で、偕行社は保育園として使われていた。陸軍士官の社交の場が子供達の社交の場になっているのが面白い。
明治40年8月19日、斜陽舘、偕行社の仕事を最後に佐吉は、家族と大勢の弟子達に見守れながら安らかに永眠する。
佐吉は生前に家族に常に言っていた言葉がある。
「わ れのことを世の中の人は、棟梁と呼んでくれるが、棟梁なんてそんな柄ではない。大工の家に産まれ、産まれながらにしてチョウナの音を聞いて育ったのだ。た だよい大工になろうというのがわれの望みだった。大工という仕事に誇りを持ってやってきたのだから。死んで葬式を出す時も、旗に書くときは大工佐吉とだけ 書いてくれ。そのほかはいらない。」
言葉通りに、霊旗には「大工佐吉之霊」と書かれた。しかし、彼を慕って葬式には数千人の人がきたとされる。
弘前は軍都でありながら、京都・奈良・鎌倉と同様に空襲を免れた都市でもある。その結果弘前には佐吉が設計した建物が多く残されている。勿論、佐吉だけではなく、そのほかの古い建物も多く残っている。
又江戸時代から始まった堀江家の大工の血は今でも続いている。そして「堀江組」は今でも弘前で活躍している。
堀江佐吉は、中央でコンドル達が活躍した時と同時代の人である。中央ではイギリスから専門家を招き、西洋建築を基礎から徹底的に学んだ。堀江佐吉はその様な 先生はいなかったけど、彼の想像力と旺盛な好奇心、何よりも大工の誇りをもって、独学で西洋建築を学んでいった。佐吉の時代には形だけ真似ての西洋舘が多 かったが、佐吉の場合は形だけでない西洋建築だった。佐吉は非常に珍しい存在だったとも言える。
両者に接点はないけど、僕はその時代における、中央と東北地方の建築家の相違が面白いと思った。
僕は建築家は芸術家ではないと思っている。それに、少なくともこれらの人達は自分の事を芸術家と考えてはいないと思う。でも彼らの仕事は創造的で独創的だと も思う。特に佐吉の場合はそう思う。そして設計し竣工した建物が時として美しいと感じる。別に僕は芸術家を否定するつもりはないけど、人は美をそうやって 造ってきたと思うのだ。
最後に堀江佐吉は、自分が納得できるまで設計を何枚も書き直したと言われている。又、その結果、予算を超えてしまう事が度々あったそうだ。その時佐吉は自分のお金を使ったと聞いている。大工に誇りを持った佐吉は、大工として見事に自分の人生を建てた様にも思えてくる。
(注1)建築の設計から施工まで一手に行う大工を、棟梁建築家という。堀江佐吉は多くの大工を束ねる親方でもあり、常に人からは棟梁と尊敬をもって呼ばれていたと思う。
(注2)「大工初心図解初編」「新選早引、匠家雛形之編」「番匠町雛形」などの書籍が当時の大工の入門書籍だった。
今回色々な文献にお世話になった。本来であれば、それらの文献をここに列記するべきかとは思うが、なにせ個人が楽しむBlogで遊びとして書いているのだから、その点は容赦してもらいたい。
今回、僕は読んではいないが、堀江佐吉の伝記としては「棟梁 堀江佐吉伝」がある。堀江佐吉を語るときには不可欠の資料となっている。発行は白神書院、著者は船水清氏。この本を読まずに堀江を語るなかれと言われる本だけど、読まずに語ってしまった・・・
幕末で活躍した人達の伝記を読むと、大体は子供の頃に猛勉強をしたとなっている。堀江佐吉もそれにもれずかなりの勉強家だったようだ。それに「海外余話」の 絵は聞くところによると結構細密画に近い絵だったようなので、それを書き写す事は、大工にとって必要な画才と文才が磨かれていった事だと思う。これほど好 奇心が旺盛で、しかも才能豊かな大工である佐吉は、外国に行きたい気持ちは人一倍強かったのではないだろうか。多分、色々な異国の書籍を読みながら、若 かった頃の佐吉は内心色々な思いに駆られた事だろう。
その当時、明治政府は西洋建築の技術を学ぶため英国より才能豊かな一人の若い建築家を雇った。名前をジョサイア・コンドルと いう。イギリスでは一流建築家の登竜門であるソーン賞を受賞した新進気鋭の建築家だった。彼は1877年に来日して工部大学校教師に就任した。彼の元に は、その後、明治の近代建築家を代表する人材が集まり育っていった。辰野金吾、曽禰達蔵、片山東熊と言った面々である。コンドルを含む、彼らの業績を簡単 に記す。
ジョサイア・コンドルは鹿鳴館(1883)の建築がまずあげられる。その後1884年に 工部大学校を解雇させられている。その理由はわからないが、その後に就任したのが彼の一番弟子である辰野金吾である。解雇後も日本にとどまり、建築事務所 を開設し多くの財界人の依頼で建築を行っている。ニコライ堂(1891) 、岩崎久弥邸(1896) 、三井倶楽部(1913) 、諸戸邸(1913)等。日本文化を愛し、日本人の妻をめとり、終生日本で暮らした。彼はその後日本近代建築の父と呼ばれた。
辰野金吾は、コンドルの元で勉強し主席で工部大学校を卒業、その後イギリスに留学し戻ってから工部大学校教授となる。代表作は日本銀行本店(1896)、奈良ホテル(1909)、東京駅(1914) 等
片山東熊は一生を宮廷建築家として活躍した。代表作として赤坂離宮(迎賓館)があげられる。山県有朋の厚い信頼を得ていたと伝えられている。
曽禰達蔵はコンドルと同じ歳であり、特にコンドルとの親交が深く、かつ強い師弟関係の間柄であった、そしてコンドルと共に丸の内の街並(オフィス街)を作った。他に代表作は慶応大学図書館がある。彼には辰野の2番手の印象が強いが、人望に篤く人格者だった。
僕は日本に現存する西洋館の中で、諸戸邸(洋館部)は特に美しい建築だと思っている。諸戸邸は典型的な和洋折衷の建物で、コンドルはその洋館部分を設計した。
こ れら4人の建築物を見てみると、建築における日本の歴史の表舞台といった印象を受ける。政府および財閥からの依頼による建築が殆どなのだ。語られる歴史は 常に中央の歴史かもしれない、でも歴史は中央だけでは造る事は出来ないと思う。いや、もっと踏み込んで言えば、歴史は語り継げる事のない人々によって、実 際は造られているのだとさえ僕は思う。ちなみに、百科事典で上記の4人の名前を探し調べる事が出来る。でも堀江佐吉は百科事典(エンカルタ)には載っても いなかった。
話を堀江に戻す。堀江は外国に行きたいという強い気持ちを抑えながら、父(堀江伊兵衛)の元で修行を続ける。初仕事は16 才、堀江家菩提寺の専徳寺の欄干の竜の彫り物だった。見事な彫り物だったと伝えている。その後21才で結婚(妻の名前はさた)し10人の子宝に恵まれる。 仕事は熱心で骨身を惜しまず、リーダシップもあり、若くして棟梁となる。佐吉は、技は天才、剛胆、無欲、自らが先に率先して動き、義侠心に富み、統率力と 包容力を持っていた。
現代で考えると、僕が書いた佐吉の人柄は完璧すぎるので、疑いをもって見られる事だと思う。でも伝え聞くところによ ると、若い時から棟梁として、数百人の大工を率い、家には一切の貯えがなく、しかし信用は落ちる事がなく、田舎大工の風采で仕事に没頭する。弟子達と部下 の大工を大事にして、息子達には熱心に大工の技を教えていく姿が、今でも伝えられている。彼の碑が弘前市に現存しているが、高さ7mの立派な碑であるとい う。大工棟梁の碑が造られる事自体(多分日本では彼だけだと思う)、佐吉が如何に慕われていたのかがよくわかる。
確かに今では組織がしっ かりして、無能有能に関係なく役職はある程度上がる事が出来る。もう一つ言うと、現代の組織では、役職が上がれば上がるほど、無能になっていくというパラ ドックスを抱え込んでいる。良くある話だが、最初有能な社員として創造性に富み、数多くの改善を行ってきても、上に行けば行くほど具体的な仕事から遠ざか り、ついには何も自分では出来なくなる。判断能力を磨ければ良いと言うが、ある程度の詳細が把握できなくて、どうやって判断すれば良いのだろうか?
最近、ブームとしてのリストラの結果、優秀な人材が抜け組織力が弱まった。その為、やはり一番重要なのは人材であるとの、当たり前の認識に戻り、人材育成が 各会社で流行っている。でも人を育てる為には、その根本から知らなければならないと思う。そしてそれらは、MBA教科書にも、それに類するビジネス書には 載っていないと思う。佐吉を含め、日本には数多くの優秀な教育者がいる(佐吉は勿論、職業としての教育者ではない)、これら先人達の事を識る事が、もっと も近道のような気がする。
堀江佐吉は明治12年(1879)に函館に仕事に行く。これが佐吉にとってそれからの人生に大きな転機となる。 明治12年頃の函館は佐吉にとって外国と同様だった。函館は長崎、神戸、横浜と並ぶ国際港として、各国の領事館があり西洋の情報が集まっていた。しかも、 多くの西洋館が建ち並び、日本でありながら異国そのものだった。その函館で佐吉は異国の空気の中で貪るように西洋建築を学んでいく。生来勉強家で好奇心の 旺盛な佐吉は、スケッチブックを持ち、仕事の合間に函館を歩き回った。そして西洋建築をスケッチしていく。又時には、建築関係者と会い、話を聞き、設計図 をもらったりもした。設計図は勿論、日本のそれとは書き方も違っただろう。でも佐吉にとっては、それも勉強の1つだったと思う。毎日が楽しく、感動する日 々であったと想像できる。たぶん瞬く間の1年間だった事だろう。でもその1年間でそれからの仕事の内容が変わるのである。
弘前に戻ってき た佐吉は精力的に仕事を続ける。この頃が棟梁として円熟期だったかもしれない。仕事の内容も多岐にわたっている。学校、病院、役所、教会、警察署、兵舎、 橋、等々。全ては堀江佐吉の設計・施工の手によるものだ。彼は大勢の部下達を率いているが、設計だけは彼が全て書いていた。彼の名声はこれらの仕事で徐々 に高くなっていった。
明治37年、第五十九銀行本店竣 工。当時の銀行頭取に「堀江さん貴方の好きな様に造ってください。何も言いませんから」の一言に感動した佐吉は、これまでの経験を生かし、かつ今までにな い自由な構想をもって設計を行う。設計はいつものように丹念に、精密に行った。外観はルネッサンス様式。一見すると石造りの印象を受けるが木造2階建であ る。防火のために、内側は土蔵作りの技法を取り込んでいる。頂上には展望台兼用の装飾搭を置いている。木材は佐吉が山中を歩いて、探し回った青森産のヒバ とケヤキを使っている。完成までに2年かかっている。現在は青森銀行記念館として現存している。国の重要文化財指定でもある。そして、この建築によって佐 吉の名前は全国に知られるようになった。
ますます名声が高まる事により、仕事は頻繁に依頼されるようになった。
明治39年、軍都でもあった弘前の第八師団関連の請負工事で得た利益を公共に還元するために佐吉は弘前市立図書館を竣工する。
弘 前に第八師団が設置されたのは明治29年の事だった。当時の陸軍はプロシア、ドイツを範としていた。その為、陸軍の欲する建物は洋風であった。その時に堀 江佐吉を弘前に擁していたのは陸軍にとっても、佐吉にとっても幸運な事だった。結果的に弘前は日本でも西洋舘が多く立ち並ぶ街となった。第八師団関連の請 負工事とは日露戦争とは無縁でないと思う。日露戦争により軍部は色々な面で拡張する事になる。その関連工事での利益だと思う。
この図書館 を造るとき、佐吉は図書館として将来にわたり残り続けるのだからと、予算枠を完全に超えても納得のいく仕事をしたと伝えられている。木造3階建て、八角形 の双塔に赤いドームの屋根をもつ。、漆喰塗りの外壁、縄で開閉する上げ下げ窓、和風造りの庇など、西洋建築の中に日本建築の良い部分を取り入れている。し かし、この建物は佐吉の意図とは逆に、その後売られ民間のアパート、喫茶店として昭和62年まで使われていた。現在は弘前市が買い取り保存している。
弘前市立図書館竣工の頃より、佐吉の体調が悪くなっていく。明治40年には、弘前偕行社(陸軍士官社交クラブ)、斜陽舘などの設計を行うが、施工は息子達が行う事になる。弘前偕行社は現在国の重要文化財に指定されている。
偕行社は現在、弘前女子厚生学院所有となっている。この学校は保母さんの学校で、偕行社は保育園として使われていた。陸軍士官の社交の場が子供達の社交の場になっているのが面白い。
明治40年8月19日、斜陽舘、偕行社の仕事を最後に佐吉は、家族と大勢の弟子達に見守れながら安らかに永眠する。
佐吉は生前に家族に常に言っていた言葉がある。
「わ れのことを世の中の人は、棟梁と呼んでくれるが、棟梁なんてそんな柄ではない。大工の家に産まれ、産まれながらにしてチョウナの音を聞いて育ったのだ。た だよい大工になろうというのがわれの望みだった。大工という仕事に誇りを持ってやってきたのだから。死んで葬式を出す時も、旗に書くときは大工佐吉とだけ 書いてくれ。そのほかはいらない。」
言葉通りに、霊旗には「大工佐吉之霊」と書かれた。しかし、彼を慕って葬式には数千人の人がきたとされる。
弘前は軍都でありながら、京都・奈良・鎌倉と同様に空襲を免れた都市でもある。その結果弘前には佐吉が設計した建物が多く残されている。勿論、佐吉だけではなく、そのほかの古い建物も多く残っている。
又江戸時代から始まった堀江家の大工の血は今でも続いている。そして「堀江組」は今でも弘前で活躍している。
堀江佐吉は、中央でコンドル達が活躍した時と同時代の人である。中央ではイギリスから専門家を招き、西洋建築を基礎から徹底的に学んだ。堀江佐吉はその様な 先生はいなかったけど、彼の想像力と旺盛な好奇心、何よりも大工の誇りをもって、独学で西洋建築を学んでいった。佐吉の時代には形だけ真似ての西洋舘が多 かったが、佐吉の場合は形だけでない西洋建築だった。佐吉は非常に珍しい存在だったとも言える。
両者に接点はないけど、僕はその時代における、中央と東北地方の建築家の相違が面白いと思った。
僕は建築家は芸術家ではないと思っている。それに、少なくともこれらの人達は自分の事を芸術家と考えてはいないと思う。でも彼らの仕事は創造的で独創的だと も思う。特に佐吉の場合はそう思う。そして設計し竣工した建物が時として美しいと感じる。別に僕は芸術家を否定するつもりはないけど、人は美をそうやって 造ってきたと思うのだ。
最後に堀江佐吉は、自分が納得できるまで設計を何枚も書き直したと言われている。又、その結果、予算を超えてしまう事が度々あったそうだ。その時佐吉は自分のお金を使ったと聞いている。大工に誇りを持った佐吉は、大工として見事に自分の人生を建てた様にも思えてくる。
(注1)建築の設計から施工まで一手に行う大工を、棟梁建築家という。堀江佐吉は多くの大工を束ねる親方でもあり、常に人からは棟梁と尊敬をもって呼ばれていたと思う。
(注2)「大工初心図解初編」「新選早引、匠家雛形之編」「番匠町雛形」などの書籍が当時の大工の入門書籍だった。
今回色々な文献にお世話になった。本来であれば、それらの文献をここに列記するべきかとは思うが、なにせ個人が楽しむBlogで遊びとして書いているのだから、その点は容赦してもらいたい。
今回、僕は読んではいないが、堀江佐吉の伝記としては「棟梁 堀江佐吉伝」がある。堀江佐吉を語るときには不可欠の資料となっている。発行は白神書院、著者は船水清氏。この本を読まずに堀江を語るなかれと言われる本だけど、読まずに語ってしまった・・・
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