口語体で新しい詩の境地を開いた萩原朔太郎は佐藤春夫の詩を評して現代的でないと言う。それに答えての春夫の言葉が、この二人の会話を文学史の中で 忘れられないものにしている。つまり、春夫は自らの詩を伝統に繋がるもの、和漢朗詠集と琴唄と藤村詩集とは僕の伝統だと答えている。萩原朔太郎は晩年に悩んだすえ文語の詩に回帰する。そして佐藤春夫は死ぬまで文語を捨てる事はなかった。
当然に僕は文語体の文章を知らない。それは言葉は生活に根付いているものだと思うからだ。文語体は平安時代の口語体が固定して明治維新まで繋がって いる言葉だと聞いた事がある。だとすると文語体は千年の間、さまざまな形で工夫が施されてきたことになる。繋がっている言葉とは、生活で普通に使われてい る言葉の事だ。生活感がない言葉で書かれている言葉は実感できないと思う。つまり言葉もやはり時代を写し取る鏡なのかもしれない。してみると、日本では平 安以降約一千年間、基本的には変わらぬ日常があったのかもしれない。いやいやそうでは無かったと考える。文語体がその時々の時代の変化に耐えうる言葉だっ たように思えるのだ。
生活に密接でない文語体の文章には実感ができないと書いたが、やはりそれにも例外はある。例えば島村藤村、北原白秋、佐藤春夫の一連の詩は、時とし て愛唱歌となり、人によっては自然に口ずさむ事もあるだろう。それらは歌になる事で忘れられない詩になったとも言える。それに詩に関しては文語体のほうが 何故かわかりやすい様に思える時もある。多分現代詩の場合、詩人達は色々なものを求め、そして詩に組み込み過ぎるからではないかと、素人ながら思う。それ に較べ以前の詩は単純で、例えば恋歌の場合、ただ人を恋いうる詩であったように思える。さすれば、前記の詩人達の心持を現代で真に継承したのは、アーティ ストと自らを呼ぶミュージシャン達なのかもしれない。
たまに映画で詩を朗吟する場面が出てくるときがある。映画で朗吟する詩は、演じる役所の社会で尊敬を受ける詩人が殆どのような気がした。また、朗吟 する詩を何を選ぶかで、その人の思想から性格まであらわしているようにも思える。それを考えると、日本の歴史で最も知られている朗吟は織田信長が桶狭間の 合戦に赴く時に「敦盛」の一節かもしれない。
「人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり、一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」
この詩は織田信長の人生観を現しているように思える。実際は「敦盛」は多くの武将が好んだらしいが、織田信長だからこそと思わせる内容が、この詩を して後世に伝えられたのだと思う。転じて現代の日本で朗吟する詩は一体何になるのだろうか。詩の選択には朗吟する状況にあわせる必要があるが、いかなる状 況を見ても僕には少しも思いつかない。佐藤春夫の詩は朗吟に耐えられる言葉の強さがある様に思えるが、如何にせん、僕が彼の詩で良いと思うのは恋歌ばかり である。
僕は文語体詩を懐かしく思い、無くなったものに対し美しく賛美しているのだろうか?それはないと思う。何故なら僕は文語体を知らないし生活の中で 使った事もないので、実際の所、美しいかどうかも不明である。だから僕には無くなったものに対する感傷はほとんどない。ただ、明治になり日本が無くしたも のと得たものを知りたいと思う気持ちが、この話題につながっている。そしてそれは明治から現代に続く道程でも同じ事が言える。かつ個々のプラスとマイナス の総計で理解できる範疇ではないように思えて仕方がない。
文語体から口語体に変わった一番の理由は、文語体が不便だったかららしい。でも現代でも、時折言葉を無くす状況に多く見舞われる。それは多分に自分 自身の語彙不足が原因だと思うが、単語自体に社会が持っている共通認識が崩れている事もあるように思える。だからその様な状況のときは言葉が冗長になり、 簡潔にはならず、そこから誤解を生じる事も多いように思える。
また別の角度で見ても、世代別に、「単語」とか「ことわざ」「慣用語」の内容は、それの正誤とは別に、日常会話の中で使われ方が違ってきている。今後ますますその傾向が強まり、大人達は子供達と会話をあわせるために、今まで使ってきた言葉を使わない傾向になると思える。しかし大人達にとってそれらの 言葉は、生活に根付いた言葉ではないので、そこに混乱が生じているように感じる。言葉が生活に根付いている限り、時代と共に変化する事は当然だとは思う が、その変化はネット、携帯電話などのコミュニケーションの輪が広がることで加速的な状況になっている印象がある。
言葉を便利にするために文語体から口語体に統一し、さらに新かなでやさしくなり、ネット等でコミュニケーションの輪が広がる中で、言葉が喪失の方向に向かっている事に皮肉を感じるとしたら、それは僕の認識不足なのだろうか。
追記:
・読み返してみると、内容にまとまりがない感を受ける。何気なく書き始めたけど、何か地雷を踏んだような気になっている。また時期をみて書いてみようと思う。
・実は朗吟の連想から最初に思い出した詩は、西脇順三郎だったが、続けて思い出したのはバイロンだった。「口づけ」という詩で、短いけど情熱的で若さがある。少し恥ずかしいけど載せる。
A long long kiss
A youth of kiss
and love
(長き長き口づけ、若き日の口づけ、そして愛)
生活に密接でない文語体の文章には実感ができないと書いたが、やはりそれにも例外はある。例えば島村藤村、北原白秋、佐藤春夫の一連の詩は、時とし て愛唱歌となり、人によっては自然に口ずさむ事もあるだろう。それらは歌になる事で忘れられない詩になったとも言える。それに詩に関しては文語体のほうが 何故かわかりやすい様に思える時もある。多分現代詩の場合、詩人達は色々なものを求め、そして詩に組み込み過ぎるからではないかと、素人ながら思う。それ に較べ以前の詩は単純で、例えば恋歌の場合、ただ人を恋いうる詩であったように思える。さすれば、前記の詩人達の心持を現代で真に継承したのは、アーティ ストと自らを呼ぶミュージシャン達なのかもしれない。
たまに映画で詩を朗吟する場面が出てくるときがある。映画で朗吟する詩は、演じる役所の社会で尊敬を受ける詩人が殆どのような気がした。また、朗吟 する詩を何を選ぶかで、その人の思想から性格まであらわしているようにも思える。それを考えると、日本の歴史で最も知られている朗吟は織田信長が桶狭間の 合戦に赴く時に「敦盛」の一節かもしれない。
「人間五十年、下天の内を比ぶれば、夢幻の如くなり、一度生を享け、滅せぬもののあるべきか」
この詩は織田信長の人生観を現しているように思える。実際は「敦盛」は多くの武将が好んだらしいが、織田信長だからこそと思わせる内容が、この詩を して後世に伝えられたのだと思う。転じて現代の日本で朗吟する詩は一体何になるのだろうか。詩の選択には朗吟する状況にあわせる必要があるが、いかなる状 況を見ても僕には少しも思いつかない。佐藤春夫の詩は朗吟に耐えられる言葉の強さがある様に思えるが、如何にせん、僕が彼の詩で良いと思うのは恋歌ばかり である。
せつなき恋をするゆゑに
月かげさむく身にぞしむ
もののあはれを知るゆゑに
水の光りぞなげかるる
身をうたかたとおもふとも
うたかたならじわが思ひ
げにいやしかるわれながら
うれひは清し、君ゆゑに
僕は文語体詩を懐かしく思い、無くなったものに対し美しく賛美しているのだろうか?それはないと思う。何故なら僕は文語体を知らないし生活の中で 使った事もないので、実際の所、美しいかどうかも不明である。だから僕には無くなったものに対する感傷はほとんどない。ただ、明治になり日本が無くしたも のと得たものを知りたいと思う気持ちが、この話題につながっている。そしてそれは明治から現代に続く道程でも同じ事が言える。かつ個々のプラスとマイナス の総計で理解できる範疇ではないように思えて仕方がない。
文語体から口語体に変わった一番の理由は、文語体が不便だったかららしい。でも現代でも、時折言葉を無くす状況に多く見舞われる。それは多分に自分 自身の語彙不足が原因だと思うが、単語自体に社会が持っている共通認識が崩れている事もあるように思える。だからその様な状況のときは言葉が冗長になり、 簡潔にはならず、そこから誤解を生じる事も多いように思える。
また別の角度で見ても、世代別に、「単語」とか「ことわざ」「慣用語」の内容は、それの正誤とは別に、日常会話の中で使われ方が違ってきている。今後ますますその傾向が強まり、大人達は子供達と会話をあわせるために、今まで使ってきた言葉を使わない傾向になると思える。しかし大人達にとってそれらの 言葉は、生活に根付いた言葉ではないので、そこに混乱が生じているように感じる。言葉が生活に根付いている限り、時代と共に変化する事は当然だとは思う が、その変化はネット、携帯電話などのコミュニケーションの輪が広がることで加速的な状況になっている印象がある。
言葉を便利にするために文語体から口語体に統一し、さらに新かなでやさしくなり、ネット等でコミュニケーションの輪が広がる中で、言葉が喪失の方向に向かっている事に皮肉を感じるとしたら、それは僕の認識不足なのだろうか。
追記:
・読み返してみると、内容にまとまりがない感を受ける。何気なく書き始めたけど、何か地雷を踏んだような気になっている。また時期をみて書いてみようと思う。
・実は朗吟の連想から最初に思い出した詩は、西脇順三郎だったが、続けて思い出したのはバイロンだった。「口づけ」という詩で、短いけど情熱的で若さがある。少し恥ずかしいけど載せる。
A long long kiss
A youth of kiss
and love
(長き長き口づけ、若き日の口づけ、そして愛)
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