2005/03/09

花森安治「戦場」とNHKスペシャルでの東京大空襲

NHKスペシャル「東京大空襲 60年目の被災地図」を見た。その時に花森安治さんの文章「戦場」を思い出した。その文章で花森さんは、東京大空襲の経験を散文調で書いている。「戦場」とは空襲にあった地域のことを言っている。しかし花森さんが「戦場」と呼んだ場所は、現代でもそうは呼ばれてはいない。だから、僕は彼の文章をブログを通して紹介したいと思った。
(以下 『』 内の文は全て花森安治さんの「戦場」からの引用です。)
『戦場とここの間に 海があった 兵隊たちは 死ななければ その海をこえて ここへは 帰ってこられなかった』
それまで米軍は軍需工場への爆弾によるピンポイント攻撃に終始していた。その作戦を変えたのはカーチス・E・ルメイ将軍だった。彼にとって民間人を攻撃する理由は、軍需工場の従事者を減らすこと、それと戦意を落とすことにあった。彼は日本の木造家屋を効率的に消失する焼夷弾の研究を行う。その結果できたのが東京大空襲に使用された焼夷弾だった。

この焼夷弾は投下後、空中で複数の焼夷筒に分裂し、日本の木造家屋の瓦屋根を突き抜け部屋の中に刺さる。その後、ゼリー状の燃えた油が飛び散り、家屋を内側から燃やしていく。その焼夷弾が100万発投下されたのだった。

まず攻撃地域の外側をぐるりと爆撃し、逃げ場を失わせてから、その内側を爆撃する。外に出る物があれば、B29の機関銃によって撃たれる。いわば「皆殺し作戦」でもあった。
『地上 そこは<戦場>では なかった この すさまじい焼夷弾攻撃にさらされている この瞬間にも おそらく ここが これが<戦場>だとは だれひとり おもっていなかった』
ある男性は学校に逃げ込んだ、襲いかかる炎をさらに逃げようと、彼は学校のプールに飛び込んだ。そこには既に大勢の炎から逃れた人で溢れていた。彼は、同じように学校に逃れた母と姉と妹の事を気遣うゆとりは全くなかった。
プールの中で人は押し合い、彼をプールの最深部の方に押しやった。プールの最深部は人が立つことができない深さだ。人に押され最深部で溺れる人が出てくる。そして、その溺れる人の上に乗って助かろうとする者もいる。
彼はそういうことにはならなかったが、助かった後に自分の妹がプールで溺れ死んでいるのを発見する。90才近い今となっても、彼は自分が(押すことで)妹を殺したのではないかと悩み続ける。

ある病院の看護婦だった彼女は、このままでは病院ごと患者さんが焼死してしまう恐れから、看護婦全員それぞれに患者さんを割り当て、病院から脱出する。
亀戸当たりまで逃げたとき、逃げる先が炎に包まれていることがわかる。患者さん達は、どうせ死ぬのなら病院で死にたいと看護婦さん達に願い、彼女たちもそうしようと再度病院に戻る。

決死の思いで再び病院にたどり着いたとき、病院は全焼していたが既に鎮火していて、患者さん達と共に一命をとりとめる。でも戻ってこない看護婦さん達が数名いるのに気が付く。戻っていない人は、重傷患者さん達に付き添った看護婦さん達だった。
生き残った彼女は、戻ってこなかった彼女たちの命の重さに、適うだけの人生を送ったのだろうか、と自問自答する人生を送ることになる。

幼い子供を背負い、夫と共に橋に逃げた彼女は、橋の上が人で溢れているのを目撃し、炎から逃れるため隅田川に入っていく。そこは3月の初旬、身も凍る冷たさだ。背負う子供が濡れないように気を遣う彼女。その時、寒さから猛烈な睡魔に襲われる。このままでは子供が危ない。そう思った彼女は隅田川に浮かぶ大八車にしがみつく。でもそこには既に多くの人がいて夫の場所までは確保できない。夫は無表情に隅田川の中で立ちつくしている。
彼女は大八車にしがみついたまま意識がなくなる。気がつくと既に朝、回りに夫の姿はみえない。夫は寒さから力尽き流されてしまったのだ。子供はうなだれ意識がない。子供も全身が濡れ凍死していた。彼女は子供を背負っていたので、背中が濡れず助かったのだった。
子供を守らなくてはならない親が、逆に子供の犠牲で助かったことを彼女は生涯思い続けることになる。

これらの証言は全て、NHKスペシャル「東京大空襲 60年目の被災地図」で放映していた内容を僕がまとめた。彼らの証言は尊い。そして誰1人、焼夷弾を投下した米国の話も、戦争に導いた当時日本の政府の話もなかった。割愛された可能性もあるが、放送を見て、彼らが語る表情からそれは感じることはできなかった。正直に自分の思いを語っている様だった。彼らにとって東京大空襲は、日米両国の戦争が原因であることは知ってはいるが、身内が亡くなった問題を自分の内で捉えている様でもある。彼らが見ていたのは、敵と相まみえる戦場の姿でなく、烈しく襲いかかる炎と、そこで焼け死ぬ人、逃げまどう人々の姿だった。
『爆弾は 恐しいが 焼夷弾は こわくないと 教えられていた 焼夷弾はたたけば消える 必ず消せ と教えられていた みんな その通りにした 気がついたときは 逃げみちは なかった まわり全部が 千度をこえる高熱の焔であった しかも だれひとり いま<戦場>で 死んでゆくのだ とは おもわないで 死んでいった』
『しかし ここは <戦場>ではなかった この風景は 単なる<焼け跡>にすぎなかった ここで死んでいる人たちを だれも <戦死者>とは呼ばなかった この気だるい風景のなかを働いている人たちは 正式には 単に<被災者>であった それだけであった』
NHKスペシャル「東京大空襲 60年目の被災地図」放映のきっかけとなったのは、最近見つかったリストによる。そのリストには犠牲になった方々の亡くなられた場所が書き示されていた。それによって、犠牲者が自宅からどのように逃げ回ったのかが推測できる。そのリストでは、犠牲者の欄名が「被災者」と明示されていた。

大本営の発表では、空襲があり何時何分に鎮火したとの報告しかなく、犠牲者の数は全国に知らされることはなかった。亡くなられた方は約10万3千人。これは広島長崎の犠牲者を上回る。これ以降、米軍の爆撃は焼夷弾投下中心に切り替わる。でもその対応と対策を当時の政府はなにもしなかった。あの炎の中では、深さ2mくらいの防空壕では何の役にも立たなかったと思う。防空壕の上を数千度の炎が通り過ぎる毎に、その防空壕の中の人は、地獄の責め苦の様な凄まじい死を迎えたのではないだろうか。彼らは民間人で、公式にはそこは戦場ではなかった、だからだれも彼らを戦死者として扱わなかった。そして、その様な死に方がふさわしい人なんて誰もいなかった。
『ここが みんなの町が <戦場>だった こここそ 今度の戦場で もっとも凄惨苛烈な <戦場>だった』
花森安治さんは焼け跡を歩き続けた。呼吸をしている自分を意識することで、自分が生きていることがわかる。そして歩き続ける。沢山の人が死んでいる。その中で花森さんは「生きていてほしい」と願う。しかし自分はこれからどうして生きてゆくのかわからない。
彼が戦後「暮らし」を守る為に戦う様になる。その出発点がこの焼け跡を歩くことだったと僕は思う。
『とにかく 生きていた 生きているということは 呼吸をしている ということだった それでも とにかく 生きていた』
3月10日の東京大空襲以降、数回米軍は焼夷弾による空襲を行う。そして5月の終わりには焼夷弾で燃やす物は東京にはなくなる。
東京大空襲と呼ばれる空襲は、3月10日の空襲を言う。大空襲の「大」とは、犠牲者の数でもあり、使われた焼夷弾の数でもある。でも空襲に遭った人から見れば「大」も「小」もない。
『戦争の終わった日 八月十五日 靖国神社の境内 海の向こうの<戦場>で死んだ 父の 夫の 息子の 兄弟の その死が なんの意味もなかった そのおもいが 胸のうちをかきむしり 号泣となって 噴き上げた』
『しかし ここの この<戦場>で 死んでいった人たち その死については どこに向かって 泣けばよいのか その日 日本列島は 晴れであった』
東京大空襲を計画立案したカーチス・E・ルメイ将軍について、NHKの取材に応じた米軍関係者によれば、倫理観が高いとは言えない人だったらしい。だから、空襲で女性と子供を含む民間人が犠牲になったことについて、なんら逡巡はなかった。

その後彼は、グアム島米軍爆撃隊の司令官となり、広島長崎の原爆投下に深い係わりをもったと言われている。

カーチス・E・ルメイ将軍はその後、航空自衛隊設立への高い貢献が認められ、日本国から勲一等旭日大綬章が送られている。それを送ったのは後にノーベル平和賞を受賞する佐藤栄作首相だった。

政府レベルでは、辛い過去のことを乗り越えて、未来志向で行きましょう、と言うことなのかもしれない。でも僕にとっては政治に未来志向の言葉にウソを感じる。政治はあくまで現実主義という名の「その場主義」だと思うのだ。

両国の狭間で、業火に逃げまどい、焼かれなくなって行った人たちの思いは、花森さんの言うとおりに何処に向かうのであろうか。

明日3月10日00:08に開始した東京大空襲から、もうすぐ満60年を迎える。犠牲に遭われた約10万3千人の御霊が安らかにと祈る。それは少なくとも、この記憶を風化させないことなのだと、今生きている僕は思っている。

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