2005/05/18

「禅とオートバイ修理技術」でのオートバイ文章

『オートバイに乗って休暇を過ごすのは、他にない一種独特の趣がある。車は、いわば小さな密室であり、いったん慣れ親しんでしまえば、自然の何たるかを知りえない。窓の外を移りゆく景色は、テレビを見ているのと何ら変わりがない。私たちは、ただ枠のなかを流れてゆく景色を漠然と眺めている受け身の観察者にすぎないのだ。
だがオートバイにはその枠がない。私たちは完全に自然と一体になる。もはや単なる傍観者ではなく、私たちは自然という大きな舞台のまんなかにいて、溢れんばかりの臨場感に包まれる。足下は唸るように流れていくコンクリートは、現実のものであり、足を踏みしめて歩く道路そのものである。 (中略) すべてのもの、すべての経験、これらは決してじかの意識から逸脱することはない。』
(ロバート・M・パーシグ 「禅とオートバイ修理技術」 五十嵐美克、児玉光弘 共訳)
「禅とオートバイ修理技術」は最近の風呂専用書籍(笑)です。1974年の米国ベストセラーで、今から30年ほど前の本だが、内容において古さは少しも感じない(時折出る名詞で感じるときもあるが) 。

僕にとって時代を感じさせたのは、著者の友人が乗っているオートバイが「BMW R60」であること。ボクサーツィンの空冷水平対向2気筒オーバーヘッドカムエンジンのオートバイ。キックスタートのエンジンで、現在このバイクに乗っている人がいたらかなりのマニアだと思う。

現行のBMWのボクサーツィンは新型で見た目はすっきりとなったが、美しさで言えばこのR60の方がある。ちなみに言えばBMWは航空機メーカーが発祥だが、次ぎにオートバイ、その後に車を生産している。勿論いまでもオートバイを造り続けている。BMWはオートバイに関して相当なこだわりを持っている様に思う。こだわりというのは、オートバイメーカーとしての「らしさ」の追求で、それゆえ、BMWのオートバイは遠目でも一目見てそれだとわかる。

昔ツーリングしているときに、山口の秋吉台付近で、後ろから音もなくBMW(R100)に抜かれていった事を思い出す。そのコーナリングはとても美しかった。

「禅とオートバイ修理技術」の文を引用したのは、僕が感じているオートバイの良さがとてもよく表現されていると思うからだ。少し補足する。

僕らが車に乗る時、身体の外延は車のそれと同じ境界となる。だから、車体が少しでも何かにぶつかりそうになるだけで、僕らは驚く。その驚きは、車体が破損したときの損害の大小でなく、まずもって車体ではなく身体への障害のそれに近いと思う。
オートバイの場合、ライダーの身体の外延はオートバイのそれと同じになるが、オートバイ自体が人間の身体が露わになる乗り物なので、人間の身体そのものとほぼ同じとなる。
だから、オートバイは車に乗る以上に自然と一体化となると僕は思っている。風を受けて走る爽快感は、まさしくリアルな人間の感触である。勿論、人によって違うと思うので、万人が僕と同じ事を感じるとは全く思わないですけど。

「禅とオートバイ修理技術」は、元教授が病気で電気ショック治療を受け、その事から過去の記憶の一部が喪失する。その失われた記憶を求めての話と、息子クリスとのツーリングなどの話が書かれている。中心となる話がテクノロジー批判なのだが、文体はかなり読みやすい。
残念なことに、この著作を発表した後、数年して息子クリスは強盗に襲われ刺殺されてしまう。それを知って読むと、本でのクリスの姿がとても印象的になる。

多分この本については、読み終えた後で感想を書くと思う。

追記:この本ではモータサイクルでなくオートバイと呼んでいるので、それに合わせた。

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