ここ一週間ほど身体が少しだるい。熱があるわけでもなく、風邪を引いたという自覚もない。ただ、ここしばらく続いていている寒さと暑さに身体の疲れが取れないだけだとは思っている。同じように、季節の変わり目でだるさを感じられている方も多いのではないだろうか。
そう言う状態の時、やはりうブログで書く文章もそれに反映しているようだ。
ブログに書く材料が無くて困ることなど現実社会には少ない。問題はその材料を書くだけの価値があるのかと言うことだとは思うが、それはブログの書き手の判断に委ねられることになる。ただ身体に「だるさ」を感じる場合、そもそも考えること自体億劫なので、何かを書いても通り一遍になりがちになる。そんな文章であれば新聞サイトに行って読めばいいのであって、自分としては書く気にもなれない。
しかし、この「だるさ」の感じは不思議なものだとお思う。何処かに痛みがあれば、その痛みを取り除くべく、なんらかの対策を講じるだろう。たとえば痛み止めの薬を飲むとか、傷口があれば絆創膏を貼るとか。熱があれば、熱冷ましの薬を飲むことだろう。さらに熱が高ければ氷枕をして眠るのも良い。
でも今の僕の場合、多少、手足の筋肉の痛みはあるが、「だるさ」は内から奇妙な泡のようなものが、身体の穴から外に向かって浸み出していくような感じに近い。浸み出す過程の中で、少し筋肉の痛みに伴う張りのような、緊張と弛緩とが同時に出るような、そんな何ともいえない気分になっている。
考えてみれば、僕は「だるさ」も含めて、「痛み」、「吐き気」、「痒み」、等の身体に起こる幾つかの変化を言葉で語るとき、多少のとまどいを持って、上手く表現できないもどかしさの中でしていることを思い出す。体温計、血圧計などのスケールがあれば話は簡単かと言えば、どうもそうでもないように思う。人によって目安にばらつきがあると思うからだ。
身体が幻想的であると語る人は多い。僕もそれに同意する。
昔友人との雑談で、手鏡で女子高校生のスカートの中を覗こうとして捕まった大学教授の話をしたとき、友人は、男は女の身体に幻想を抱く、スカートの中にはパンツがあるだけだが、そんなこと誰もが解ってはいるが、スカートで隠されいる結果、そこにはある種の物語が隠されていると思うようだ、などと言っていたのを思い出す。勿論、破廉恥で反社会的な行為であることは間違いない。でも元々、痴漢とは「アホな男」と書くのであるし、そういう男は自分が造る幻想的世界と現実社会の区別が付かないのだろう。
ただ、女と男の身体が幻想的であるとは僕も思う。自分のことを「おじさん」と語る哲学者もいる。「少年」、「青年」、に続く「壮年」を「おじさん」と言うのかもしれないが、その線引きはあくまで恣意的だろう。間違いなく、その方は「おじさん」と語ることで、語る相手を限定していることになり、それを承知で半分冗句として言っていると思う。大人同士の語らいの中で、自分を「おじさん」と言う人はいないのは間違いない。「おじさん」ということで、自分を曖昧として、語る内容にある種の免罪符を手に入れている。ある意味上手い戦略かも知れない。
「だるさ」を言い訳にして、意味もなくだらだら書き連ねている僕が言うことではないのも間違いない。
0 件のコメント:
コメントを投稿