2005/05/26

「アソーレス、孤独の群島」から教わるタブッキ「島とクジラと女をめぐる断片」 (その2)

アントニオ・タブッキの小説集「島とクジラと女をめぐる断片」の一編「ピム港の女?ある物語」は、1995年に発行した単行本(青土社)で20ページの小編である。あらすじは、アソーレス群島の一つであるファイアル島に、欧州戦線から逃れてきた女性と島の男性との痴情のもつれから、男性が女性を殺害するというありふれた内容となっている。設定では、その話をタブッキはファイアル島のピーターズ・カフェで知り合った、一人の酔っぱらいから、過去の話(30年以上昔の話)として聞いたとなっている。

「アソーシス、孤独の群島」で杉田敦はこの物語について以下のように語っている。

『この物語を、ピム港の酒場で実際に出会った男の話に着想を得たとして、フィクションともそうでもないともとれる曖昧な状態に置いている。自分自身とは異なる別の語り手を得ることで、本来タブッキ自身では書くことが出来ないようなステレオタイプな物語を語ることが可能になったのだ』
(「アソーシス、孤独の群島」 杉田敦 から引用)

そして、杉田氏はタブッキが酒場の男を通してそうした物語を語らせた理由として、まず事件が起きた時代背景が第二次世界大戦の切迫とした状況にあること、そしてその時代は、ピム港では捕鯨がおこなわれていたこと、などをあげている。

つまり、ピム港はその当時、米国の重要な基地であると同時に、欧州から南北アメリカに亡命する人が立ち寄る場所としてあり、女性はそんな避難者であること。その時代捕鯨がおこなわれていたことにより、ピム港自体がクジラの臭いが立ちこめ、港は黒みを帯びた血の色に染まっていたイメージがそこに出てくる。

しかも、女性が物語のなかで住んだ場所は、現在でも実際に残っていて、元はクジラの解体場所でもあったらしい。物語では男性が女性の血を浴びる場所が、実際上はクジラの血を浴びる場所であったという隠喩がそこにある。

『港を舞台とした女と男の出会いと別れという俗世界の物語は、急に神話めいた血と愛情の寓話のような色合いを帯びてきた。さらに、男の最後の言葉が追い打ちをかける。父親と二人で捕鯨と、捕鯨の合間にウツボ漁で生計を立てていた男が、ウツボを突きに行くと父親に嘘をついて出かけた夜、銛で突き刺した女の名前は、女が男に話した唯一の真実だった。イェボラシュ。イブを連想させる名前と蛇との距離は近い。彼はまさしくウツボを突いたのだ』

男が女に惹かれたのは、島にないものを秘めた美しさであった。男は女を見詰め続け、さらに女の後を追い住み場所を見つけ、部屋に入れてくれと哀願する。女は最初見向きもしないが、男が島に古くから伝わるウツボを穴から追い出す歌、それは聞いたことがないほど切ない歌、を女の家の前で歌う。そうすると女は家のドアを開け男をなかに導く。しかし、ある日女の家に行くと、そこには見知らぬ男がいる。別の男に連れて行かれることに耐えられなくなり、男は女を突き殺す。(イェボラシュの意味については、本記事最後に掲載する)

『タブッキは、一見するとありふれた物語を前面に出しながら、その背後に奇妙な神話とその挫折を忍ばせたのかもしれない。その時代と、その時代の島について少しだけ想いを巡らすだけで現れてくる物語。そんな物語を包み隠すには、飲んだくれの男の言葉が必要だったのだ』
(「アソーシス、孤独の群島」 杉田敦 から引用)

これらが、僕が「アソーシス、孤独の群島」に書かれている、「ピム港の女?ある物語」の読みである。「アソーシス、孤独の群島」は評論ではなく旅行記なので、突っ込んだタブッキの評論はおこなってはいない。でもアソーシスに滞在し、その空気に触れた杉田氏の読みは適切であると僕は感じた。ただ、僕自身は杉田氏の読みを概ねで受け容れながら、それでも杉田氏が思う、「タブッキが酒場の男を通してそうした物語を語らせた理由」が若干根拠が薄いように思えているのも事実である。

確かにこの小説において、「タブッキが酒場の男を通してそうした物語を語らせた理由」を問いとするのは重要なことだと思う。タブッキは「島とクジラと女をめぐる断片」の「まえがき」で、この小説についてこう語っている。

『それから、巻末の短編は、僕がピム港の居酒屋で出会ったある男から打ち明けられたのではなかったか。とはいっても、ひとつの人生の物語には、ひとつの人生の意味しかないと信じる人間の思い上がった理屈から、それにいくつかの事柄をつけ足して、男が話してくれた物語に改変を加えたことは否定しない。この話を聞いた居酒屋では大量のアルコール類が消費されていて、そんなとき、通常にふるまっては礼儀を失すると僕が判断したことを告白すれば、少しは情状酌量していただけるだろうか』
(「島とクジラと女をめぐる断片」 アントニオ・タブッキ 須賀敦子・訳から引用)

タブッキは作品に置いて隠喩を提示することで知られる作家でもある。ただ、この「まえがき」を読むことで僕が感じることは、タブッキ自身のアリバイ工作である。つまり、この短編は自分が語っていないことを強調している姿である。「まえがき」で書かれていることは、短編のなかでも既に書かれていることであり、この説明は二重になっている。強いて、「まえがき」にしか書かれていないことをあげれば、それはこの話は尾ひれが付いて針小棒大となっていると言っているだけであるが、小説であればそれは改めて説明する話でもない。

アリバイ工作をしてもなお、タブッキが造った短編を「居酒屋で出会った男」に話をさせる必要があったのだろうか。僕が思うに、それはタブッキが話せない内容だったからだと思う。また、小説という形であっても、タブッキが造った話と思われてはいけない話だったのだと思うのだ。それは杉田氏の考えのように、覆い隠すためでなかったように思う。それよりも、この事件は島の男が起こさなくてはいけなかったと僕は思うのだ。

殺される女性はヨーロッパ戦線から逃れてきている、いわば「大陸」の女性である。その女性は島にない美しさを持っている、それはいわば「大陸」の象徴としての女性だったのではないだろうか。そして、その女性を殺める男は「島」を象徴している。そう考えれば、「大陸」の男であるタブッキがこの話を語れない理由が見えてくると思う。小説の最後で、島の男が女性と会い、殺意を固める場面がある。そこでは象徴的に、「大陸」が「島」に対し、「下男」という言葉で表しているように思える。

『あした、発つの。女が言った。待ってた人が帰って来たのよ。まるで、おれに礼をいうみたいに笑っていたのを、どういうわけだったのだろう、おれは、あの歌のことを考えているな、と思った。部屋の奥でだれかが動いた。年かさの男で、服を着るところだった。なんの用だ。いまおれも理解できるようになったあの国の言葉で、男が訊いた。酔っぱらいよ。女が言った。むかしは捕鯨手だったけれど、銛をヴィオラに変えたのよ。あんたのいないあいだ、あたしの下男だったの。追っぱらいな。男はおれを見もしないで言った』
(「島とクジラと女をめぐる断片」 アントニオ・タブッキ 須賀敦子・訳から引用)

「大陸」からの旅行者は「島」に「大陸」から逃げるようにしてやってくる。「島」に来た「大陸」の旅行者は、「島」を気が付かないまでも、ある種の尊大なそぶりで「島」を眺める。まさしく、「大陸」にとって「島」は小説のなかで女性が言うように、下男として、「大陸」から好きなように使われる。
それが一番顕著に表れたのが、物語の時代設定である第二次世界大戦中だったように思える。中立国であるポルトガルは、枢軸国と連合国の双方に危ない綱渡り的な政治を行っていたが、独自色が強いアソーレス群島にとっては、米国基地の設置と大量の避難民が押し寄せる事態をどう思っていたのであろうか。

アソーレス群島では1980年代後半まで捕鯨がおこなわれていた。捕鯨をアソーレスにもたらしたのはアメリカからというのが一般的らしい。捕鯨と言っても日本と違い鯨油を得るためだけにおこなう。でも島の人たちにとって、カヌーで巨大なクジラを銛で突く漁は、まさしく誇りに思う男の仕事であっただろう。でもクジラを解体し血にまみれる「島」の男たちを「大陸」の人は、「島」の人と同様の眼で見ていたとも思えないのだ。やはりそこには下男にやらせる仕事の意識があったように思える。

「島」は「大陸」を目指すが、「大陸」は「島」を本気で相手にするわけではない。結局、短編の女性のように「大陸」の男に連れて行かれることになる。それに対する反抗をこの物語では語っているのでないだろうか。そして、島の男は罰を受け、「島」は「島」であることをあきらめと共に受け容れる。

この物語は、全体構成がアソーレス群島と密接な関係にある「島とクジラと女をめぐる断片」の一編であることを考えれば、1個の独立した短編と見ることが出来ないのでないかと思う。この短編も群島のひとつの島として、アソーレスの実体を語る要素もそこには含まれていると僕は思っている。

杉田氏の読みを否定しているのではない。僕は杉田氏の読みを受け容れている。ただ、それだけではないように思えた。それだけの話である。

補足:イェボラシュの意味(「アソーシス、孤独の群島」 杉田敦 から引用)
ポルトガルのアレンテージョ地方の古都、エヴォラは、アラブの支配下にあった時期に"Yeborath"と呼ばれていた。エヴォラの街の名前の由来は、エプローネス人によるものなど諸説ある。イェボラシュの発音は、テトラグラマトン(神聖四文字、YHWH)を誤用したとされるエホヴァ(Yehova)にも近い。エホヴァは、ユダヤでは蛇神と表現されることもある。一方イヴの周囲にも、エデンの園の物語に限らず、蛇の物語が見え隠れする。アラビア語では、イヴは、生命と蛇の名を兼ねた"hayyat"である。

追記:
イラク戦争直前の米国・イギリス・スペインの各首脳会談の場所も、上手く説明できないが、なんというか、欧州と米国の中間という地理的意味だけでなく、「島」だから選ばれたという印象も僕には多少はある。
これで「アソーシス、孤独の群島」を図書館に返却できる(笑)。

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