2005/05/17

セクストス・エンペイリコスが懐疑論的方法としてあげた5つの基本方式

ヘーゲルは「哲学史講義」でセクストス・エンペイリコスをギリシャ最大の懐疑論者とした。以下は竹田青嗣氏の「言語的思考へ」に書かれていた、セクストス・エンペイリコスが懐疑論的方法としてあげた5つの基本方式のまとめ。単なるメモとして載せる。
  • 見解の違いを主張する方式・・・多くの独断論がどれも等しい権利で主張されうる。
  • 無限背進に追い込む方式・・・「懐疑派の証明するのは、ある主張の根拠としてもちだされるものが、それ自身また根拠を必要とし、その根拠がまたべつの根拠を必要とする、といったふうな無限背進が生ずることである」。
  • 認識の相対性に注目する方式・・・「われわれにあらわれる対象は、一方で判断主体と関係し、他方で他の事物と関係しつつあらわれるので、それ自体がありのままのすがたであらわれることはないのである」。
  • 前提を問題とする方式・・・「独断派は、無限背進の危険をさとると、証明されることのないある事柄を原理としてたて、それを単純に証明なしに承認しようとする、~それが公理である。」と主張する。
  • 循環論法ないし循環証明に追い込む方式・・・問題となる事柄の根拠として提出されたものが、別の根拠を必要とするとき、その根拠としてはじめのことがらがもちだされて、ふたつの事柄が互いに相手の根拠となる。たとえば、「現象の根拠は何か。力である。しかし、力とは何かといえば、それがまた現象の諸要素からくみたてられるほかないのです」。
(竹田青嗣「言語的思考へ」から引用 P68 「」内はヘーゲル「哲学史講義」長谷川宏訳)
帰謬論とは、相手の論理を貶めることにより自分の論理を高める方式。懐疑論の多くは帰謬論とあわさる。とくにそれを懐疑論的帰謬論という。

以下は雑感
僕が知る多くのブログは、その書き手の信念から発する事柄、もしくはその人の信念を作る過程が、そこに現れている様に感じる。まぁ、日記を含め人が書くものとはそういうものだとは思うが・・・。ここでいう信念とは、大袈裟なことでなく、「よい・わるい」または「すき・きらい」等の書き手が持っている判断の根拠をいっている。
極端な話を言えば、僕を含め書いているのは、数年に渡る研究成果を記した論文でも、形式化された法律でも、商談のためのプレゼンテーション資料でも、なんでもなく単なる日記であるから、懐疑論の方式を採用すればだいたいは論破可能だと思っている。
でも逆に言えば、ブログが、共同体での了解事項だけ、もしくは形式化された内容だけのものであれば、多分そのブログは全然面白くないことだろう。その人自身がそこに多く現れているからこそ、その人のブログは面白いのだと思う。
つまりは、ブログに対して懐疑論は似合わない、やる意味もないし、すべきでもない。懐疑論的帰謬論となればなおさらだと僕は思っている。
そんなこと殆どの人はやってないが、いくつかネットで見かけたので・・・メモにあわせて。

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