2005/05/23

今日、思考もしくは妄想の備忘録

本記事は、今日(日付では前日)頭に浮かび考えたことの単なる備忘です。だから、それぞれの項目に繋がりはありませんし、考えがまとまってもいません。つまり、思考もしくは妄想の種みたいな物です。

■マスコミで報道する際に良く聞く言葉、「シロ」と「クロ」。「シロ」は元々警察隠語だったのを、昭和40年代にマスコミが使い始めてから一般的になったらしい。「シロ」が使われることで、対応語として「クロ」が生まれた。警察隠語では、「クロ」でなく刑事ドラマでもわかるように「ホシ」とか言っている。また、実際に反抗を自供したり、もしくは裁判所の判決が下されたときは、「シロ」とか「クロ」の用語は使わない。つまり、「シロ」と「クロ」の用語をマスコミが使う場合、何らかの意図がそこにあると言うことになる。

■JR脱線現場から立ち去った2運転士「後悔強まり心苦しい」謝罪の手記を書いたそうだ。その事もそうだが、他にも色々とJR職員への批判があったことについて、少し考えた。

仮にもし僕がこの二人の運転手の立場であったらどうしただろうか。考えること自体意味がないことは十分に解っているが、瞬間でも思わざるを得ない自分がそこにいた。今までの経験からすると、現場に踏みとどまるかも知れない。勿論経験と言ってもこれほどの大惨事ではないから、実際にはわからない。彼らと同じ行動をするかも知れない。そして自分の行動に悩むことだろう。

悩むことについては止めようがない。また、実際にここで言いたいことも、そういうことでもない。なんというか、社会にたいし、重苦しさを感じてしまったのだ。

彼らは、宴会とかボーリング大会を開催した人たちは、非難されるべき人たちなのだろうか。彼らは一体何をしたというのだろう。期待に応えることが出来なかった、運転手として、鉄道マンとして、人間として・・・・?

期待とは誰が誰に対する期待なのだろう。少なくとも僕はそういう期待はしていない。だからこそ、そこで踏みとどまり救助をする人たちの行動が逆に光っている。

うまく言えないが、社会において各個人が役割を担い行動しているのはわかるし、それらの役割がある期待を持たれているのも理解できる。でもなんというか、個人としてみたときに、彼らのアイデンティティにとって、社会における役割はその一部ではないだろうか、ということだ。それを、一つに文字通り「同一化せよ」との暗黙なる圧迫が、この話の背後に感じてしまったとしたら、それは僕の考えすぎというものだろうか。

■日本人は心情が語るのは上手いが、物事を論理的に語ることは苦手だと、批判的な文脈の中で語られるのを多く聞く。それはある意味バランスが大事なんだと、語る側は言っていると思うのだが、その語りの中に、何かしら自分の立場の免罪符としている気配を感じてしまうのも事実である。
心情を語ることが上手いことは大いに結構なことだと僕は思う。それに、ある種の分析が困難な事項に対し、心情を交えて語るのが方法論として良い場合もあると思うのだ。
それに、書かれた文章というのは「私」と先頭にあるだけで、いくら論理的に書いたとしても、既に恣意的なのだと思う。

■近くの公園を歩く。欅、桜、松、梅、コブシ、サツキ、杉・・・等と木々が多い。公園の木々は人が公園造成時に計画的に配置している。だから、誰もそれを山に自生する木々と同一には見ないと思う。
いわば公園の木々は、自然を模倣する為に植えられた木であり、それは言葉は悪いが去勢された木でもある。少しでも枝振りを広げようとすれば切り取られるし、場合によっては根元から抜かれることもある。それらの木は管理され、管理できるものであると思われている。確かにそれは可能だろう。でも今日公園を歩き、木々の美しく様々な緑のヴァリエーションを、日差しを通して見ると、公園の木といえどもやはり一つの野生であり、人の想像力を越えて、命の力は強いのではないかと思った。
管理しているようでいて、実際は木の生命力に頼っている。そして木々は何処に植えられようが、根付いたときは人の思惑を越えて成長していく。そんなことを漠然と思った。

■公園を抜けて、上水道の道を歩く。底の両脇にはソメイヨシノが植えられている。
歩いていると、一本だけ別の種類の桜が植えられていた。そして木にはほんのりと赤みがある実が沢山なっていた。触ってみるとまだまだ固い。しげしげと眺めていたら、道脇の家の方が、6月初旬になれば熟しますよ、と教えてくれた。
でも最近の子供たちは採って食べないそうである。主に食べるのは鳥たちだそうだ。実と言ってもサクランボではなく、熟すると黒っぽくなるそうで、味は甘酸っぱいとのこと。熟したとき食べてみようと思う。
しかも、その桜の木の側にはびわの木まである。びわの実はまだ青いが、幾つもなっている。これも楽しみだ。

■中島みゆきの長編詩『海嘯』(1999.12.10 幻冬舎) を図書館で冒頭だけ立ち読みした。その中で中島みゆきは、海は人間と時間の観念が違うので、人間から見ると海が語る言葉は聞く事が出来ないと言っていた。
勿論この言葉は、中島みゆきが海が人間と同じ生き物であると言っているわけでなく、彼女のある心情を語っていると思うのだが、この文章を読んで、僕が日頃に「樹」について感じていることと同じ思いを感じた。

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