「象の背中」という映画がある。役所広司さん主演のある男性の死に臨む姿を描いたいたって真面目な作品だ。でもこれはいかんと思う。僕の特技の一つに見る映画全てが面白く感じることができる、がある。時折映画評を見て酷評される映画があるが、なぜ映画に対し批評的な眼差しを向けることが出来るのか実を言うとわからない。きっと僕は「死霊の盆踊り」を見ても「尻怪獣アスラ」を見てもきっと面白いと言うに違いない。ある意味、誰も言ってはくれないが、僕は映画に悟りの境地を得ているのかもしれない。誰もそんなもの望んじゃいないだろうけど。
その僕をして「像の背中」はいかんと思う。どこがいかんのか。それは肝心な主人公の人間としての深みが感じられないところだ。いや、得てして現実の場合はそんなものだろう、人なんて他人のことはわからない。と、弁護をする方もいらっしゃるに違いない。でも是は映画である。映画だからこそそこらへんはきちんと描いて欲しかった。でも悟った僕はいかん部分ではなく良いと感じた部分を書きたいと思うのだ。
あるサラリーマンが不治の病を宣告される。六ヶ月の命である。でも彼はいつも通りの生活をすることに決める。そして過去に出会った人たちを訪ねていく。まぁそれは良い。でもそうなった背景には主人公の叔母さん(お姉さん?)の死に様がそこにある。彼が息子に自分の病名と死期を語るときに、息子は治療するようにと願いそれを告げる。その時にその叔母さんのことが語られる。「お前は叔母さんの死に様を見ただろう。俺はああいう風に死にたくはない」これが全ての発端でもある。
つまりはこの叔母さんの死に様への拒否が彼の死に様への選択となっている。この叔母さんのことはこの時の一回だけで、勿論叔母さんの姿は登場しない。でもこの叔母さんはずっとこの映画の底流に横たわり続けている。叔母さんの死に様は病院で治療に専念しそして亡くなったということなのだろう。それは彼の選択と逆の選択であったと言うことだ。あとから主人公は別の場所でこう語る。「死ぬことを考えていたら、どう生きるかを考えていた」。どう生きるか。それが主人公の目線で叔母さんの死に様を拒否した結果に得たことなのだろう。でもそれほどに叔母さんの死に様は拒否されるべきものなのだろうか。でも映画はこの答えに対し最後まで答えることはない。僕はこの影の主人公とも言える叔母さんのことが気になった。最後まで生きようとした、生きると言うことの意味を主人公とは違う意味で捉えていたとは決して思えない、ただ最後まで快復を信じ願っただろうこの叔母さんのことを。言うなれば主人公は最後の最後まで身勝手なのである。行動が身勝手なのではなく、他者に対する眼差しが身勝手なのだ。
しまった!良い部分を書くのであった。実を言うとこの映画は脇役達が素晴らしかった。高校時代の野球部の仲間であった高橋克美さんもよかったが、やはり素晴らしかったのは主人公の会社の援助が受けられずに倒産した会社の元社長役の笹野高史さんだろう。主人公が、元社長の会社が倒産することを知っていたが、そのことを隠して接していたと告白し謝るシーン。高野さん扮する元社長は謝る主人公に近寄り、鬼気迫る表情で主人公を蹴る。蹴って蹴って最後に主人公に告げる「藤山さん、あなたが知っていることを知ってましたよ」
主人公は妻に治療をしてもらいながら語る。「(暴力をふるうことで俺を)許してくれたんだよ」と。でもあの時の高野さんの演技にはそんなこと微塵も感じられなかった。彼は怒りそして主人公を呪っていたとしか見えなかった。それだけの迫力と異様さが高野さんの演技にはあった。あの主人公と元社長の感情のすれ違い(と見えた)は、逆に主人公の生き様(死に様ではなく)を薄いと言う意味で的確に表していたのではなかろうか。
結局のところ、この映画は男にとっての一つの憧れを描いているように思える。原作(秋元康さん)が中高年層に大きな共感と感動をもたらせたとあるが、きっとその多くは男性であったに違いない。
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