江戸末期に旅行ブームが起きた。今でいう旅行代理店とか旅先の情報を提供する業者も現れた。ただ旅行と言っても現在とは違いある意味命がけでもある。だから再び家に戻れない状況も想定でき、それゆえか旅行に出かける人々は自分の似顔絵を描いて家に残した。その似顔絵を描く専門の絵師もいて、彼らは自分たちを写真師と言っていた。「写真」は中国から伝わった絵の作法の事で「写生」と同じような意味だった。でも僕は似顔絵師自ら写真師と称したように、「写生」とはやはり違う使われ方をしていたと思う。「写生」が自然もしくは静物などを対象にし、「写真」は主に人物を対象にしているように思うのだ。だから後にカメラという機械を使って撮る「フォトグラフ」が西洋から伝わったとき、「写真師」が現代の言うところの「写真家」になっていったのは自然の事だった。
「写真」とう言葉には、「真」という言葉が入っている。でもここでいう「真」とは「画龍点晴」のように絵に魂を込めるようなそんな意味に近いように思う。だから「真」という何か絶対的なもしくは普遍的な何かの存在を「写真」の「真」に求めるべきではないと考える。それにそのような「真」は明治になり西洋哲学が入ってきてからの思想のように思えるのだ。
おそらく初めて「写真」を観た人はとてつもなく驚いたのではないだろうか。そこにはまるで生きているように人がそのまま写っているのだから。似ているとかそういう次元ではなく魂そのものが写真に封印されているような感覚。その点から見ても「写真」と名付けられたとも言えると思うのだ。
「光画」と写真を名付けたのは野島康三さん等が発行した写真雑誌からだと思う。時代は昭和初期、写真史ではピクトリアリズムからストレート写真への転換期でもある。「光画」という呼び名は「写真」よりも適切かという問いはさして問題ではない。それに「光画」は単に「フォトグラフ」を直訳しただけとも言えるので、その呼び名が何か写真論的な主張があったとは思いづらい。僕にとってその呼び名に関心を持つのは、「光画」という呼び名には「写真」への驚きが欠けているように思えることだ。100年も経たずに当初の写真への驚きは薄れ、かつ西洋的思想を基に写真の意味が再構築されている点である。言うなれば「光画」という名称で現代の「写真」と同じ意味内容を持つにいたったと思う。その結果得たものは写真への様々な技法であり、無くしたものは「写真」への驚きに相違ない。
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