高校の時の僕は「意味」は世界から与えられものだと思っていた。ここでいう「意味」とは人が生きる源のようなものを言っている。学園紛争などもなく比較的穏やかな時を過ごしていた僕にとって、逆にその穏やかさこそが世界からの疎外感を感じたのだった。例えばその空気感は幕末の志士達にあこがれ「時代が時代ならば」という吐息にも似たつぶやきに満ちて成り立っているかのようだった。でもそのうちに「意味」は世界から与えられるものではなく、自分自身で自分のために与えるものだと考えるようになった。でもそれも今から思うと一つの時代の空気なのだろう。時は新自由主義の始まりで人々はバブルに浮かれていた頃の話だ。今でも「意味」は自分が自分に与えるという価値観は生きているかも知れない。でもそれは「与える」「与えられる」の、よく言われるように一枚のコインの裏表に過ぎない。「意味」を誰が誰に与えるのかという構図には何の違いもない。そして僕は三番目の「意味」について考える。それは「意味」は至る所にあり、それを自分が見つけるということだ。意味のイデア論とも思えるこの考えにはすぐに疑問を持った。「全てのことには意味がある」も「意味などありはしない」も簡単に語ることが出来る。ただそれだけだと単に言葉遊びにしかならない。おそらく「意味がある」の「意味」と「意味がない」の「意味」は似た言葉でありながら違うものを指しているのだろう。だから両者が対立することはそれこそ何の意味もない。ただ僕でも思うのは、「意味」を求めることは人間の条件の一つだということだ。「意味」は個々がそれぞれに抱え持っているが、それぞれが見せ合うことも、もしかすればそれぞれに持っているものも違うのかも知れない。でも何らかのものとして探すまでもなくそれぞれの人間が(人間だけが)既に持っているものなのだろう。そしてなんであれ人は自分のことがわからないものなのだ。
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