休日出勤をした。工事立会いだったので一旦問題があり連絡がくれば早々に現場に行ける距離に居続ける必要があったが、たまたま会社の近くだったのでいつもの机に座り仕事をする。待機のような状態でも机に座れば仕事はきりがないほどある。でも、と思う。この山ほどの仕事は成果から見ると僕でなくても良い。会社での仕事は概していうと成果物からの視点で見れば一様である。成果に至る過程は個人の持っているものに委ねられるが結果として
の成果は変わり映えはしない。それに僕がいなくても誰でもできる。それが重要であればあるほどバックアップは用意されているし用意されるべきでもある。
その人しかできない仕事、その人がいなければ成り立たない仕事を考えてみる。無医村に赴任したたった一人の医者の医療、技能が卓越した職人が造りだすもの、芸術家の造りだすアート、そのように考えていくと「労働」と「仕事」の違いが明確になっていく。あくまでも僕にとってだが。「労働」を軽んじているわけでは決してない。成果が一様な会社の仕事=労働は暮らしてゆくために必要なことだし、実際に僕も含めて極めて多くの人たちは生
きるために労働する。
問題なのは「労働」と「仕事」のヒエラルキーを明示することではなく(そんなものはない)、そうではなくて現代において「仕事」の領分が「労働」に取って代わられていることにあると僕は思う。大量生産そして消費されるミュージシャン・俳優・芸人もしくはアイドルたち、彼ら彼女らの一部は自分たちのことをアーティストと自称している。クリエイティブもしくはデザイナーは広い意味でつかわれることはなく、単に職業の一つの名称になっている。(考えてみれば全てカタカナで呼ばれる人たちだ)彼らの共通点を一つあげるとすれば、彼らが生産する成果物は会社での成果物と同様に寿命が短いという事だ。
これは一体何を意味するのだろう。
2012/03/31
「労働」と「仕事」
2012/03/29
黒
冬になると黒とかグレー系が多くなる。最近特に冬は黒を着ている人が多い。昨年コートを買いに行ったときに、店員から最初になくなる色が黒だと言われ勧められた。初めから黒を買うつもりがなかったので「黒はいいです」と言ったら、「黒は若い人が着ているから抵抗がありますよね」等ととんちんかんな答えが返ってきて思わず苦笑いをした。いつから黒が若い人の色になったのだろう。でもそういう眼で見てみると確かに若い人の多くは黒を着ている。僕の時代はネイビーだった。ネイビーが男性の洋装の基本色だった。まずはそこからズボンだとかの他の洋服を合わせていった。黒だと他の色を合わせる楽しみはおそらく半減するのではなかろうかと余計な心配をする。また黒は色ではないと僕は教わった。モノトーンでの色あわせはシックになる。でも色を楽しむという感覚は薄いように思える。それに僕自身モノトーンの群衆に見飽きてしまったのある。4月になればもっと多くの色が溢れてることだろう。そう期待しながら春を待ちわびている、と思っていたら来週は既に4月。多くの色の世界がまずは人間界ではなく自然界から溢れ出す。
空気感
会社の同僚が長い休暇から戻ってきた。タイに行ってきたのだという。タイに行ったことがない僕は思わず聞く「タイの空気感はどんなのですか」。実を言えばこの質問に期待通りの回答を得られたことは殆どない。大概の回答は、一瞬僕の問いに戸惑いながらも乾燥しているとか湿気が多いとか温度が高い低いとかそんな感じとなる。聞き方が悪いのだと思うが、聞きたいことに適切な日本語が見つからない。その中でも「空気感」という造語に近いこの言葉が一番適当なのである。案の定同僚も「乾燥している」との答えが返ってきた。
なんだろう現代において異国に行く意味とは。その土地に住む人々との交流、確かにそうだ。視覚情報はネットを検索すればいくらでも手に入る。だから視覚からのみ得られる情報でないことは確かだろう。その場所に行かなければわからないこと、全身に感じる空気の流れ、匂い、光(視覚から得られる光ではなく触感で感じる光のことだ)、街のざわめき、などなど。それらの全ての情報を通して感じる何か。僕にとって空気感とはそういう事を言うのである。
誰でも異国に行けば全身の感覚は通常よりも鋭くなる。だから同僚もその空気感を得ているはずである。問題なのはその空気感を得ることは長くは続かないと言うことだ。人間はすぐに異国の空気感になじむ。異国と行っても同じ人間の術の世界でもある。なじまないわけがない。そしてなじんだ後、視覚が再び越権的な強さを取り戻すのである。後はもう惰性なのかも知れない。どこかのパンフレットに載っている景色を確認するだけの。
2012/03/28
久しぶりに
久しぶりに友達と会うことになりそうだ。その友達とは数年あっていない。昨年から再開したメールのやりとりで久しぶりに会いたいと書いたら春になったら会っても良いと返事が来た。でも最近は体調がよくないらしい。彼女は乳癌で腫瘍があった乳房を全摘出手術をしている。手術後は放射線治療だとか投薬だとかで、その治療の都度具合が悪くなる日々が続いているらしい。ただ幸いなことに半年ごとの検査では再発はないとのことだった。
彼女と最後にあったのは全摘出手術をすることが決まった時だった。実を言えば、その時に僕は彼女の全摘出する乳房を触った。おそらく彼女自身以外では最後にその乳房を触った最後の人かも知れない。柔らかくとても素敵な感触の乳房だった。この乳房に腫瘍があるとは僕にはとても思えなかった。誤解をする方もいるかもしれないので言えば、僕らは最初から最後まで友人関係だった。会えばお互いの出来事を話し合った。だから僕は彼女の生活のこととか、特にご主人のこととか、子供たちのこととか、彼女が好きだった人のこととか、その人との別れのこととか、多くの彼女の身に起きたことを自分のことのように知っている。また出会えば同じようにお茶でも飲みながら話をすることになるのだろう。
何故か理由は知らないが、ある意味僕は彼女に選ばれたのだと思う。彼女自身の存在の証として。誰かが言っていたが、人の出会いは一期一会なのだそうだ。その本当の意味をその人が知っているかはわからない。でもある程度の年齢を重ねれば、また彼女と僕のような状況になれば、その言葉は単なる言葉だけではなく実感が伴って感じると言うよりはまさしくそのままの情況として在るように思うのだ。
2012/03/27
2012/03/24
「写真」と「光画」
江戸末期に旅行ブームが起きた。今でいう旅行代理店とか旅先の情報を提供する業者も現れた。ただ旅行と言っても現在とは違いある意味命がけでもある。だから再び家に戻れない状況も想定でき、それゆえか旅行に出かける人々は自分の似顔絵を描いて家に残した。その似顔絵を描く専門の絵師もいて、彼らは自分たちを写真師と言っていた。「写真」は中国から伝わった絵の作法の事で「写生」と同じような意味だった。でも僕は似顔絵師自ら写真師と称したように、「写生」とはやはり違う使われ方をしていたと思う。「写生」が自然もしくは静物などを対象にし、「写真」は主に人物を対象にしているように思うのだ。だから後にカメラという機械を使って撮る「フォトグラフ」が西洋から伝わったとき、「写真師」が現代の言うところの「写真家」になっていったのは自然の事だった。
「写真」とう言葉には、「真」という言葉が入っている。でもここでいう「真」とは「画龍点晴」のように絵に魂を込めるようなそんな意味に近いように思う。だから「真」という何か絶対的なもしくは普遍的な何かの存在を「写真」の「真」に求めるべきではないと考える。それにそのような「真」は明治になり西洋哲学が入ってきてからの思想のように思えるのだ。
おそらく初めて「写真」を観た人はとてつもなく驚いたのではないだろうか。そこにはまるで生きているように人がそのまま写っているのだから。似ているとかそういう次元ではなく魂そのものが写真に封印されているような感覚。その点から見ても「写真」と名付けられたとも言えると思うのだ。
「光画」と写真を名付けたのは野島康三さん等が発行した写真雑誌からだと思う。時代は昭和初期、写真史ではピクトリアリズムからストレート写真への転換期でもある。「光画」という呼び名は「写真」よりも適切かという問いはさして問題ではない。それに「光画」は単に「フォトグラフ」を直訳しただけとも言えるので、その呼び名が何か写真論的な主張があったとは思いづらい。僕にとってその呼び名に関心を持つのは、「光画」という呼び名には「写真」への驚きが欠けているように思えることだ。100年も経たずに当初の写真への驚きは薄れ、かつ西洋的思想を基に写真の意味が再構築されている点である。言うなれば「光画」という名称で現代の「写真」と同じ意味内容を持つにいたったと思う。その結果得たものは写真への様々な技法であり、無くしたものは「写真」への驚きに相違ない。
写真とは観る者にとっての驚きである
写真とは観る者にとっての驚きである。写真には撮る人(撮影者)、撮られる対象(対象物)そしてその写真を観る者(観者)の三者が登場する。場合によって三者のうち真っ先に排除されるのは観者となる。例えば撮った写真を現像することなくフィルムのまま放置する場合とか。でも観者なくして写真の意味は半減するだろう。少なくとも現像されていないものは写真以前の何かでしかない。写真とは観るものであり、観てもらうものなのだ。観者の存在が写真にとって大きな存在にも関わらず観者の言葉は意外に少ない。写真は撮影者である「写真家」の言葉が最も重き扱いを受けているようだ。でもそれでは片手落ちというものだろう。だからあえて言うのだ。写真とは観る者にとっての驚きであると。でもこの「驚き」という感覚がどういうものなのか伝えるのはとても難しいと僕は思う。
ウォークマン・iPod
ウォークマン・iPodなどのポータブルプレイヤーは様々な技術の進化の結果とも言えるが、それがもたらされた影響は、屋外に自分の好きな音楽を持ち出すという表層的なことではなく、音楽が聴覚主体から視覚主体に移り変わったと言うことのように思える。今では音楽は眼を閉じて聴くものではなく、目を開いて見るものになった。それは景色の至る所に結びついて現れる。
2012/03/23
「象の背中」という映画
「象の背中」という映画がある。役所広司さん主演のある男性の死に臨む姿を描いたいたって真面目な作品だ。でもこれはいかんと思う。僕の特技の一つに見る映画全てが面白く感じることができる、がある。時折映画評を見て酷評される映画があるが、なぜ映画に対し批評的な眼差しを向けることが出来るのか実を言うとわからない。きっと僕は「死霊の盆踊り」を見ても「尻怪獣アスラ」を見てもきっと面白いと言うに違いない。ある意味、誰も言ってはくれないが、僕は映画に悟りの境地を得ているのかもしれない。誰もそんなもの望んじゃいないだろうけど。
その僕をして「像の背中」はいかんと思う。どこがいかんのか。それは肝心な主人公の人間としての深みが感じられないところだ。いや、得てして現実の場合はそんなものだろう、人なんて他人のことはわからない。と、弁護をする方もいらっしゃるに違いない。でも是は映画である。映画だからこそそこらへんはきちんと描いて欲しかった。でも悟った僕はいかん部分ではなく良いと感じた部分を書きたいと思うのだ。
あるサラリーマンが不治の病を宣告される。六ヶ月の命である。でも彼はいつも通りの生活をすることに決める。そして過去に出会った人たちを訪ねていく。まぁそれは良い。でもそうなった背景には主人公の叔母さん(お姉さん?)の死に様がそこにある。彼が息子に自分の病名と死期を語るときに、息子は治療するようにと願いそれを告げる。その時にその叔母さんのことが語られる。「お前は叔母さんの死に様を見ただろう。俺はああいう風に死にたくはない」これが全ての発端でもある。
つまりはこの叔母さんの死に様への拒否が彼の死に様への選択となっている。この叔母さんのことはこの時の一回だけで、勿論叔母さんの姿は登場しない。でもこの叔母さんはずっとこの映画の底流に横たわり続けている。叔母さんの死に様は病院で治療に専念しそして亡くなったということなのだろう。それは彼の選択と逆の選択であったと言うことだ。あとから主人公は別の場所でこう語る。「死ぬことを考えていたら、どう生きるかを考えていた」。どう生きるか。それが主人公の目線で叔母さんの死に様を拒否した結果に得たことなのだろう。でもそれほどに叔母さんの死に様は拒否されるべきものなのだろうか。でも映画はこの答えに対し最後まで答えることはない。僕はこの影の主人公とも言える叔母さんのことが気になった。最後まで生きようとした、生きると言うことの意味を主人公とは違う意味で捉えていたとは決して思えない、ただ最後まで快復を信じ願っただろうこの叔母さんのことを。言うなれば主人公は最後の最後まで身勝手なのである。行動が身勝手なのではなく、他者に対する眼差しが身勝手なのだ。
しまった!良い部分を書くのであった。実を言うとこの映画は脇役達が素晴らしかった。高校時代の野球部の仲間であった高橋克美さんもよかったが、やはり素晴らしかったのは主人公の会社の援助が受けられずに倒産した会社の元社長役の笹野高史さんだろう。主人公が、元社長の会社が倒産することを知っていたが、そのことを隠して接していたと告白し謝るシーン。高野さん扮する元社長は謝る主人公に近寄り、鬼気迫る表情で主人公を蹴る。蹴って蹴って最後に主人公に告げる「藤山さん、あなたが知っていることを知ってましたよ」
主人公は妻に治療をしてもらいながら語る。「(暴力をふるうことで俺を)許してくれたんだよ」と。でもあの時の高野さんの演技にはそんなこと微塵も感じられなかった。彼は怒りそして主人公を呪っていたとしか見えなかった。それだけの迫力と異様さが高野さんの演技にはあった。あの主人公と元社長の感情のすれ違い(と見えた)は、逆に主人公の生き様(死に様ではなく)を薄いと言う意味で的確に表していたのではなかろうか。
結局のところ、この映画は男にとっての一つの憧れを描いているように思える。原作(秋元康さん)が中高年層に大きな共感と感動をもたらせたとあるが、きっとその多くは男性であったに違いない。
2012/03/22
職場での食堂にて
職場での食堂での話。僕の隣の席で若い男女が恋話をしていた。
「ちょっとネガティブな方向が強いというのかな。こんな私で良いの、もし他に好きな人が出来たらそっちにいってもいいからね、とか言うんだよね。」と男が自分の彼女のことを話す。
「そんな女性って一定の割合でいるんだよね。自分に自信がないというのか、そんな事ないよって言って欲しいのを待っているというか。」と女。
「でも僕は相手に何かを望んだことってないんだよね。あっ、一つあったか。もう少し身だしなみに気を遣ってって言ったことがある。それから少し気を遣うようになったけどね。」
僕はそんな事も言ったことがない。相手の趣味に口を挟むなんて全然思わない。好きって、その趣味とか感性もひっくるめてなんじゃないのかい!と思わず突っ込みたくなった。
怖かった話
昔バイクで日本海まで海見たさに走ったことがある。これはその時の話だ。日本海から帰路についたとき丁度夕暮れで山道に入ったときにはすっかりと夜になっていた。僕は山道の連続するカーブを慎重に下ったり上ったりしていた。
その時に突然にバイクのライトの明かりが切れた。僕は慌ててバイクを止めた。下向きのライトの電球が切れたらしいが山道の途中でもあり他に車も人家もないことから僕はライトを上向きにして走行することに決めた。しばらく走っていると先に何か青色の光の点が見えた。人家も何もない山道だから僕はその光る点がなんだろうかと思ったが、近くによるとそれは信号だった。そして僕が近寄ると急に信号は赤に変わった。
繰り返し言うが人家もなにもない山道である。しかも当たり前のように車も通らないし、ここまでの道のりで車とすれ違ったこともなかった。信号は何もない場所にただそこにあったのだ。僕は信号が赤だったからバイクを停止線の手前で止めた。馬鹿らしい話だ、周囲に何もなければそのまま走り抜けても何の問題もない。でも習性というのか、教育の賜というのか、赤信号だから僕はバイクを止めてしまった。なぜこんなところに信号機があるのかという疑問さえ持たずに。
信号機はなかなか青に変わらなかった。周囲は夜の闇の中である。それで僕は気晴らしに周りを見渡した。すると左側に空き地があるのがわかった。そこには一台の古びたバスが止まっていた。そしてバスの横には何故だかわからないが電話ボックスがあった。その電話ボックスは薄明るい照明で中が照らされていた。人気のない山道に信号と電話ボックス。もしかすればここは山道と勝手に思っていたがそれは誤りで何処かの村の近くなのかも知れない、と僕は思った。そこでさらに人家がないか確認するために周囲を見渡した。でもそれは無駄だった。人家を見つけることは出来なかった。しかし僕が止まった場所、つまりは信号機の側には少し広めの沼地があることがわかった。
何故わかったかというと水の音が聞こえたからだ。それは小さな音で何かが飛び込む音だった。丁度魚が水面を飛び跳ねてまた水に入るときの音のような。何となく不安がよぎったのはその時だった。なんというか背筋から首筋にいたり急に凍るような感じが走った。なぜだか僕は広場の古びたバスの隣にある電話ボックスが気になった。そして視線をそこにうつすとそこにはうっすらと人影が見えた。そして突然に今度はまさしく大きな音を立てて水の中に何かが飛び込む音が聞こえた。もう僕には何が何だかわからなかったが恐怖心で一杯になった。この場に居たくはなかった。
でもまだ信号は赤である。でもそんなこと言っていられなかった。で、バイクのアクセルを開いた。でも急にアクセルを開いたものだからエンジンが止まってしまった。何かが僕に近づいてくる気配がした。僕は何度もエンジンをかけたが動かない。その何かは僕の背後まで来たように思えた。僕は叫び声を喉まで出かかったが、その時エンジンがかかった。あとは後ろを振り返らずにそのまま全速力で走り去った。
今から思うと全ては僕の妄想だったのかも知れない。でも不思議なことは世の中にいくらでもおこるし、特に山の中ではそれは多いとも思うのだ。
2012/03/21
映画「今度は愛妻家」
2010年1月に公開した映画「今度は愛妻家」で主人公である豊川悦司さん扮する写真家が愛用していたカメラはハッセルブラッドだった。と言っても一回しか観ていないし、その一回もずいぶんと前のことだから誤っているかも知れない。この映画を見終わったときに疑問に思えたのは、無論それは映画に対する批判ではなく単なる写真好きの病気とも言える疑問なのだが、なぜ主人公は写真家の設定なのかと、何故使っているカメラはハッセルブラッドなのか、と言うことだった。
ハッセルブラッドであるのは、おそらく現在でもスタジオカメラマンの多くが使っているから、が適切な回答なのかも知れない。でもこの映画でハッセルブラッドが使われたのは別の理由もあるようにも思えるのだ。思っていることを結論から言うと、それはハッセルブラッドで写真を撮る場合、写真家は被写体である妻を撮る際に視線を下に向けるということだ。それは豊川悦司さん扮する写真家と彼の妻との関係を表していた。彼は妻を正面に見つめ対応することはなかった。
彼は自分の妻が亡くなってから写真を撮れなくなっていた。しかし妻の幻影は彼に自分の写真を撮ることを望んでいた。写真は目の前にないものを撮ることはできない。だからといって写真が真実を写しているとは全く思わないが、少なくとも写真に写るものはこの世界に在るものだけなのだ。だから写真家が幻影の妻の写真を撮るのをためらったのは理解できる。彼には見える妻の姿が写真には写っていないことを認めるのが嫌だったのだ。
最後に幻影の妻を写真に撮るときは、やはりハッセルブラッドだった。そしえ写真家は視線をハッセルブラッドのファインダー、つまり視線を下に向け、妻の写真を撮る。是は記憶違いかも知れないが、最後に彼は自分の助手にこのハッセルブラッドを譲る。間違っていなければこの行為はとても象徴的なことだと思う。かれが助手に渡したのはカメラというものではない。それ以前に彼の人と人との今までの関わり方を変えようと思ったのだ。
しかし豊川悦司さんはこの映画の写真家のようにどうしようもない男を演じるのが上手い。そして多くの人が知っているように殆どの男はこの写真家のようにどうしようもないのだ。
先だっての日曜日
先だっての日曜日、僕は渋谷から新宿まで歩いた。途中のフレッシュネスバーガーでオレンジティーを飲む。テラスに座り柑橘系の甘酸っぱい香りを大きく吸い込みながら煙草を吹かす。そして何を考えるまでもなくただ通りを眺める。夜と昼の狭間。境界線など何もなく、しかし確実に夜の予感を感じさせる時間。空は灰色で時折雨が降り落ちる、かといって本降りになる様子もない。風は穏やかで、そのせいかこの景色で感じられるほどは寒くはない。
僕が今この時間にここにいることを家人は知ることはない、とその時に思った。ましてや僕が今何を思っているかも。でもそれは家にいても同じことかもしれない。それに僕自身も家人の心を知るよしもないのだ。それは哀しいことなのだろうかと少し思う。その時、「その時」という言葉を使うこと自体僕にとっては正確ではない。時間は流れていなかったし、仮に流れていたとしても陽のうつろいとは全く別の次元でバラバラのものとしてそれは存在していた。僕は目をつぶる。僕が感じたことは言葉に出来ず、行動したいことに手足は動かず、僕が見たいものはなにも見ることはない、と僕は感じた。虚ろな機械としての身体の牢獄の中で僕はただそこに在るだけだった。
2012/03/19
2012/03/18
2012/03/17
TOKYO Girls Collection
「TOKYO Girls Collection」をテレビで観た。特に今年は「TOKYO KAWAII TV」にて選出された視聴者も出ると聞いていたのでちょこっと気になってみた。モデル・観客のはじけるような笑顔が気持ちいい。女の子のはじける笑顔が多い国ってきっと良い国なんだろうと思う。
2012/03/16
卒業式
今日は先輩の卒業式だった。卒業式と行っても学校ではなく会社から離任するという話だ。役員までいった先輩は会社から留任のオファーを受けていたらしい。それを受けなかったのは過去に前例はないそうだが、先輩は新たな道を強い決意で選ぶことにしたのだそうだ。今度の会社は200人程度の小さなIT企業だとのこと。きっとどこにいっても彼であれば成功するに違いない。
卒業式は会社に隣接するホテルで開催した。元々企画を立てたのは先輩が入社当時に所属していた部署の面々だったので有志一同の形ではあったが、それでも100名ほどの人が先輩との別れを惜しみ集まった。僕にとっても昔から知っている顔がそろう。何か同窓会のような雰囲気で会は進んだ。こんな会を開くことが出来、懐かしい人たちと会うことが出来たこと自体先輩のおかげでもある。
僕は写真担当でカメラを持って参加した。ファインダー越しにみるそれぞれの顔は昔の面影を多少は残しながらも確かに年月が顔に刻んでいる。それでも笑う顔は昔ながらの顔に戻るから不思議だ。最後に集合写真を撮った。みんな笑顔だ。久しぶりにこんなに笑顔に溢れた場にいると思った。最後に先輩は挨拶で語った。「生きていて良かった」と。感動し時折声を詰まらせながらも見事な凜とした、それでいてユーモラスなスピーチだった。
少しだけ先輩と話した。話は協力会社の一人の営業の話だった。その営業の男性は随分前に若くして亡くなっていた。僕もとてもお世話になった人だった。今までにありがとうと言いたい人を10人絞るとしても彼はその中に入っている、と先輩は僕に告げた。僕も同じ意見だった。それでもありがとうと言えることが適わずに彼は既にこちらにはいない。先輩の最後の挨拶は集まってくれた人に向けての「ありがとう」だった。ありがとうと生きているうちに言えること。これこそが幸せなことだと先輩は言っているかのようだった。
2012/03/12
アジアの汗
寺尾紗穂さんの曲で「アジアの汗」という曲がある。歌詞がコントロールされているものとされていないものの二つのヴァージョンがあり、されていないものは当然に放送禁止歌となっている。その歌詞が面白い。内容は日本のビル建築現場では様々なアジアの人たちが働きに来ている。その工事現場監督は技術と経験をたよりに今まで頑張ってきたおじさんで、彼も他のアジアの人たちと同様日雇いだ。おじさんはいくつも言葉を話せる。現場で様々なアジアの国の人たちを監督する必要があるからだ。でもおじさんは英語は話せない。話す必要もないし、働きに来ているアジアの人たちも英語は話せないからだ。この曲はおじさんが怪我をして働けなくなったところまで続く。そしてこの国のビルはアジアの汗で出来ていると伝える。グローバルという一見美しい経済用語は既にこの国の様々な現場の実態でもある。一年前の大震災でも多くの外国人労働者が被災されたのを思い出す。
2012/03/11
思いのまま感じるまま
思いのまま、感じるまま行動するというのは案外に難しい。何が難しいかというと、単に思いのまま感じるまま行動すると言うことは、その行動の基準は今まで自分自身が教育され造り上がられたシステムであることが多いからだ。そしてそのことを意識することなく美的判断を行ってしまう。だから自分にとって、自分だけのおもいのまま感じるままの行動は、逆に自意識を持たざるを得ない様に思える。でも意識を持っての思いのまま感じるままの行動は果たして可能かという疑問もわく。
大震災と写真
1年前の大震災において地震で助かった人たちが津波が来る前に自宅に戻り被災しているのが多かったと聞く。彼らは一体何のために自宅に戻ったのか。そのことが気になっていた。きっと大事なものを取りに戻ったのだと思う。お金・着るものだけではなく、その中には例えば位牌とかアルバムもあったかも知れない。当たり前のことかも知れないが、その際に手に取ったのが写真であれば、それは家族もしくは愛する人が写った写真であったに違いない。
瓦礫の中には多数の写真があった。後片付けをされる方はその写真を棄てるに棄てることが出来なかった。ボランティア達はその写真の汚れを落とし時には修復して一カ所に集めた。そこには多くの人が自分の家族が写った写真を探しに現れた。ある女性がその場所で行方不明の祖父の写真を見つけたとき、その女性は「おじいちゃんが見つかった」と叫んだ。僕はその場面をテレビで偶然に観た。その方の祖父があれから見つかることを願わずには居られないが、それでもあの時確かに彼女は祖父の写真から祖父を見つけたのだと僕には思える。
写真とはあくまでも個人的なものだと思う。ただ写真は政治とかジャーナリズムに利用されやすいのも事実だろう。多くの写真が大震災でも撮られた。そして多くの写真の持ち主に戻ることなく残された。その両者の写真をつなぐものがあるとすれば、それは一体何だったのか。人の祈りだろうか、それとも再び立ち上がる願いだろうか。ただそこに写真の本当、人が写真を造り今でも使い続けている理由があるように思えるのだ。
2012/03/10
秒速5センチメートル
新海さんの2007年公開アニメ。「きみとぼく」系といわれるアニメ。「きみとぼく」系とは「セカイ系」の一種、とカテゴライズすることは簡単だが、このカテゴライズは一つの思想に組することでもある。そしてその思想は多くの文芸評論と同様に製造された作品とその消費の面でしか捉えてはいないのも常のことだ。不思議なことに中間層が欠如していると揶揄される「セカイ系」の作品を製造するに辺り、それらの中間層との関わり抜きでは造る事ができないのも事実なのだと思う。「秒速5センチメートル」を構想・製作・製造・消費される行程の中で、多くの人と交流しながらも新海さんのこの作品にたいする思いとか熱意は少しもぶれてはいないように思える。そのぶれない思いは一体どこから来るのだろう。この作品を造りながら新海さんは消費のことも考えていたのだろうか、たとえばこんな風にすればお客さんは喜ぶとかそんなつまらぬことだ。新海さんのぶれない思いが、僕がこのアニメを観てそう感じさせたのであれば、このアニメは結果的に成功したと言うことなのだろう。その新海さんの思いはアニメのストーリーの中にあるわけではない。それはストーリーの中にあるのではなく場面毎の細部に宿っている。その細部に宿っている何かの連なりが新海さんの思いを僕に伝える。しかしその思い、その細部を、僕が人に伝えることは難しい。結局のところアニメに登場する現実に存在する商品の細やかな描かれ方や空気感を感じさせる風景の描き方などの形式を語るしかない。
2012/03/08
写真家が登場する映画
主人公もしくは登場人物が写真家の映画が多い様に思う。それぞれの映画の設定で写真家であることが求められるのだとは思うが、その写真家である必要性の中にイメージとして視ることそして記憶することもしくは過去への思いなどが含まれているように思う。写真が写すのは常に過去なのだから。写真家のイメージが現代において悪くはないのもあるのかも知れない。現実から少し逸脱しながら現実に受け入れられているようなそんなイメージ。
2012/03/07
「意味」についてあれこれと
高校の時の僕は「意味」は世界から与えられものだと思っていた。ここでいう「意味」とは人が生きる源のようなものを言っている。学園紛争などもなく比較的穏やかな時を過ごしていた僕にとって、逆にその穏やかさこそが世界からの疎外感を感じたのだった。例えばその空気感は幕末の志士達にあこがれ「時代が時代ならば」という吐息にも似たつぶやきに満ちて成り立っているかのようだった。でもそのうちに「意味」は世界から与えられるものではなく、自分自身で自分のために与えるものだと考えるようになった。でもそれも今から思うと一つの時代の空気なのだろう。時は新自由主義の始まりで人々はバブルに浮かれていた頃の話だ。今でも「意味」は自分が自分に与えるという価値観は生きているかも知れない。でもそれは「与える」「与えられる」の、よく言われるように一枚のコインの裏表に過ぎない。「意味」を誰が誰に与えるのかという構図には何の違いもない。そして僕は三番目の「意味」について考える。それは「意味」は至る所にあり、それを自分が見つけるということだ。意味のイデア論とも思えるこの考えにはすぐに疑問を持った。「全てのことには意味がある」も「意味などありはしない」も簡単に語ることが出来る。ただそれだけだと単に言葉遊びにしかならない。おそらく「意味がある」の「意味」と「意味がない」の「意味」は似た言葉でありながら違うものを指しているのだろう。だから両者が対立することはそれこそ何の意味もない。ただ僕でも思うのは、「意味」を求めることは人間の条件の一つだということだ。「意味」は個々がそれぞれに抱え持っているが、それぞれが見せ合うことも、もしかすればそれぞれに持っているものも違うのかも知れない。でも何らかのものとして探すまでもなくそれぞれの人間が(人間だけが)既に持っているものなのだろう。そしてなんであれ人は自分のことがわからないものなのだ。
2012/03/06
2012/03/05
新宿三丁目のフレッシュネスバーガー
新宿三丁目のフレッシュネスバーガーは土日祝日は店内全席禁煙となったらしい。店長と思われる人に話を聞いたが、驚いたことに彼は僕がこの店を時々に利用している事を覚えていてくれていた、試しに行っているとのこと。売上げが落ちたらまた以前のように戻すと言っていた。外のテラスだと吸えるとのことだったので注文したココアを持って移動した。店の前を多くの人が通る。男性よりも若い女性の方が多い。座りながら通り過ぎる人を眺める。案外にこれも楽しい。