別であると思いこんでいたのは、テレビや新聞などで、その様な話を度々していたから、知らず知らずのうちに擦り込まれたのだと思う。
曰く、「叱る」とは「相手を考えて」、「怒る」とは自分の意見を「押しつける」こと。
しかし今では「怒る」も「叱る」も同じだと思っている。少なくともビジネスの世界で2つが違うと云えば笑われる。ビジネスの世界では「怒る」も「叱 る」も自分の意見を通すコミュニケーション手段の1つでしかない。勿論生活の場はビジネスとは違うのはわかる。でも例えば「叱る」の「相手を考えて」何を 言うつもりなのだろうか?
やはり自分の意見を相手に通すことではないのだろうか?
何故今頃になってこういう話をしているかと云えば、先週社内でたまたま他の部署の年配の管理者同士がその様な話をしていたのを聴いたからだった。何か部下が間違いを犯し「叱った」そうだ。その時に「お前の事を考えて叱ったんだ」と話したとも言っていた。
この場合、管理者が「お前のことを考えて・・・・」というのはある意味正しい。それは、彼がその部下の人事評価を決定できる立場の一人だから、叱られた内 容が彼にとって不快な事であれば、今後その部下は同様の事をしないように注意しなければならない。故に部下は彼に気に入られるように、注意深く行動しなけ ればならなくなるが、それだけの意味しかない。その結果、部下の自由な発想も、時として阻害される要因になるかもしれないが、部下の立場では「叱られた 事」と「怒られた事」に何の違いもない。
子供の教育の話にかえてみる、勿論僕は教育者ではないが、子供に必要なことは「叱る」事でもなく、「怒る」事でもなく、認めることと選択肢を出来る だけ多く提示することだと思っている。そして出来れば色々な出来事に対し「考える」仕方を、結論でなく伝えることだとも思っている。子供の行動とか悩みは 時として選択肢の少ないことからおこる事が多いようにも思えるのだ。
僕にとっては、「叱る」も「怒る」も自分の意見を通す手段であり、両者の違いは無いように思える。これはこの両者を否定していることではない。自分の意見を通す手段であれば、それなりの技術が必要だと思っているだけなのだ。
コミュニケーションであれば、当然に相手がいて、その相手に自分の考えを伝わらなければ意味がない。時として相手が怒っていることは見てわかるが、 なんで怒っているかわからない時があるが、それはコミュニケーションとしては悪い例だと思う。そういう怒りからは、対する相手から何も得ることも出来な い。
また、自分が正しいと信念を持って、教え諭す様に「叱る」場合もあるが、その場合相手からの思わぬ反論にあい、「叱った」方がとまどう場合もある。 コミュニケーションだから、言葉のキャッチボールが行われているのである。当然に相手からの反応もあるのであるが、自分が正しいと信じている事で逆に思考 停止の状態になっていることも多い。
怒り方の技術として、重要なのは「自分が怒っている事」と「怒っている内容」の双方を知らせることだと思う。感情的になっているように見せるのも、1つの手段として有効だと思う。
あとは、相手と自分との関係と深さで対応が変わってくるはずだ。短期間の付き合いで、かつ浅い付き合いの相手と、その逆に深く長く付き合う相手とでは、自ずから仕方も違ってくる。
逆に相手が怒っている時の対応についても技術が必要になってくる。それも相手のとの関係で、最初にガス抜きをするか、臨戦態勢で臨むかが決まる。
でも「怒り方」「叱り方」で最も有効な方法は、頻繁に怒らないことにつきると思う。たまに怒るからこそ、その理由が相手に正当である印象を与えやすいからだ。
宗教的なことはわからないが、「神の怒り」と聞くけど、「神が叱る」とは言わないように思う。怒りは瞬間的な場合が多いような気もする。逆に言えば怒りは最初が大事だと言うことかもしれない。
テロの原因は「怨念」とか「憎しみ」からと聴くが、それらは永続的な気がする。それらは「怒り」とは本質的に違う様に思える。理不尽な叱られ方とか 怒られ方を受けると、受けた方は時として相手に憎しみの気持ちを持つことがある様な気もする。それらは人と人だけでなく、国と国との間でも言えることの様 な気もしてくる。
写真はいつも怒り顔の「ジュニア」
追記:
・「叱る」は(目上)から(目下)に向かっている。「怒る」にはそう言う関係はない。
・多くの人は「叱る」「怒る」をする側の立場で見ているように思える。される側の立場で見た時は、どうであろうか?
・今では、「される」側からみて、「叱られている」か「怒られているか」を判断すべきかもしれない。
・例えば世の中の理不尽さに怒る時。それは自分の思いを相手に押し付けることになるのであろうか?
それとも、叱ると怒るは、向かうべき対象によって意味が変わるのであろうか?
(例えば、子供と環境を汚染する企業による「怒る」事の意味の変化)
・戦前において「怒る」事は、今ほど悪く受け取られていなかった。それは三木清の「人生論ノート」を見てもわかる。体制の弾圧に怒り、人を貶める者に怒る 等。なぜ現代では「怒る」はこれほど地位を落としてしまったのだろう?少なくとも戦後に変わってしまった印象を受ける。最初に言い始めた方から、その意図 を聞きたくなる。
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