2004/12/15

花森安治のエッセイで感じたこと

たまたま入った喫茶店に置いてあった1冊の雑誌。まるまる一冊が花森安治さんの特集だった。様々な方 が花森さんの思い出を語りながら、彼の人となりを評していた。また以前に書かれた花森さんの文章も何編か載っていたので、少しだけのつもりで読み始めた が、気が付くと少し長く読んでしまっていた。花森さんが亡くなられたのは1978年1月なので、既に26年の歳月が流れた事になる。掲載しているエッセイ はそれなりに古い、しかし何故か内容は古さを感じなかった。その中で僕は情報という物を考えてしまった。

子供の時の僕はどちらかというと内向的で、友達もそんなに多くはいなかった。ただ、友達となれば、とことん深く付き合う方でもあったので、自然と親 友と呼べる友人が各時代毎にいた。その中でも一番古くそして長く付き合っている友人のお母さんが、雑誌「暮らしの手帖」の熱心な愛読者だった。彼の家に遊 びに行くと、居間に無造作に積まれた「暮らしの手帖」の姿を思い出す。それも発刊月毎に整理されている訳でもなく、しかも積まれた姿は向きも表裏も関係な かった。それは一種のオブジェのようでもあった。友人のお母さんが「暮らしの手帖」を居間に無造作に積んでいたのは、彼女が無精だからではない。高く積ま れた「暮らしの手帖」に載っている記事の1つ1つが、彼女にって「暮らし」の中で必要な情報でもあった証だったと思っている。それほど「暮らしの手帖」か ら得られる情報は、その当時鮮度が高く、かつ数年で失われる様な内容でもなかった。

それに較べて今の僕たちの情報はどうだろう。人はより新しい情報を求めてネットを彷徨う。勿論その中の1人に僕はいる。毎月何らかの雑誌が創刊さ れ、商業的に利益が得られない場合は即座に廃刊となる。また、雑誌は読むとすぐに価値は失われゴミ箱に捨てられる。それはまるでネットで得られた情報が即 時に鮮度を失い、パソコン上のゴミ箱に捨てられていくのと同じ状態の様に思える。今ではバーチャルもリアルもその点では殆ど区別は付かないかもしれない。

では僕等の暮らしは変わったのであろうか?異様に早い情報の生死サイクルにあわせて僕等の暮らしも同様のサイクルになっているのであろうか?
暮らしは花森さん曰く、休みなくフル稼働を続ける機械のような物だそうだ。フル稼働をし続けているので、一旦停止して改善とかチューニングは簡単にできな い。その事を花森さんは「まずいみそ汁」を作り続ける主婦を例えて話をしていた。「まずいみそ汁」を美味しくするコツは知っているし、改良も可能だ、味噌 も具もダシも色々な種類があり、それらをどう組み合わせればよいかは、人に聞くか料理レシピの本を読めばいい。でもそれを知ったからと言って、明日からの みそ汁が美味くなることは殆どない、と彼は述べて先ほどのフル稼働の機械を使って説明し、それが日々の「暮らし」という物だと言っている。

今では花森さんが述べた事が妥当でないことを僕は知っている。みそ汁のダシは即席で色々なタイプの物が出回っているので、不味ければ明日から違うタ イプの即席ダシを使えばよい。良かれ悪しかれ現代社会はコンビニエンス社会でもあるのだ。それだけであれば、フル稼働中であっても味を変えることが出来 る。ただ、彼が述べた「暮らし」の本質の部分については変わらないように僕は思える。

僕等は毎朝満員の通勤電車に乗り、昨日と同様の仕事場に行き、時には熱く時には醒めて日々に見舞われる様々な仕事の事象に対応し、そして残業の後で 仲間達と酒を飲み、もしくは恋人と語らい、少し疲れた足取りで家に帰る。仕事の悩みを持っている方もいるだろう。もしくは家の問題を抱えた方もいるかもし れない。多かれ少なかれ人が生きていくと言う事は、それなりの問題を抱え込むと言うことだ。そういう「暮らし」から現代の情報の生死のサイクルを見たとき に、なにか得体の知れない不安を感じてしまう。

それは例えて言えば、行き先不明の高速列車の中で日々の生活をしているような感じに近い。列車の中では変わらぬ毎日がある。でも行き先は誰も知らな い。時折、行き先を知りたく列車の窓から表を眺める。高速で移動しているので、遠くの景色ははっきり見えるが、近くの景色は崩れて何がなんだかわからな い。時刻表も地図もない。ある人は一日中列車の窓に顔をつけて外の景色を眺めている。そして時折発見した事を僕に伝える。そしてそれを元にみんなで議論を する。そんな感じに近い。

そのイメージをさらに考えてみると、その列車に乗車したのは僕の意志だろうか、それとも否応も無しに乗せられているのであろうか、と言う疑問がわく。その問いについて、僕は「多分」を前置きにしてだが、自分の選択の結果であると即答できる。

列車の窓から見える景色は、情報としては薄くすぐに価値がなくなる。ただ情報は常に眼前に現れるので、サイクルが短くても問題ではない。勿論、情報 はそこに意味がなければただのデータにしか過ぎない。でも様々な人がデータに触れることにより、誰かしらそこに意味を見いだす。
でも「暮らしの手帖」の情報が、友人のお母さんにとって長く色あせない物であったのは、彼女が暮らしていた時代が今より変化が少ない社会であっただけでなく、元から情報の質がそもそも違っていたからなのではないだろうか。
質が変われば、同一のデータが元であっても、そこから複数の情報が発生する。逆に言うと、現代は過去に較べ、確かに情報の量は膨大になったが、膨大になっ た理由の1つはデータが情報に変換される際に、そこに当然あるだろう意味づけと分析・解析などの処理が薄く、不必要に1つのデータから複数の情報に別れて しまったことも要因としてあるのでないだろうか。
花森さんの一連のエッセイを読んで、漠然と僕はそんなことを考えていた。

「ぼくらの暮しと 企業の利益とが ぶつかったら 企業を倒す ということだ
ぼくらの暮しと 政府の考え方が ぶつかったら 政府を倒す ということだ 」

上記は花森さんの言葉である。暮らしを基準にして物事を考える思想家でもある花森さんは、自らを常にジャーナリストとして位置づけていた。自由な物 言いを行うために「暮らしの手帖」では一切のスポンサー広告を載せていない。それは今に至るまでポリシーとして脈々と流れている。だから、かつて多くの読 者は「暮らしの手帖」が掲載する各種家電の評価テストを信じた。隔月刊のサイクルは情報の質を煮詰めるには短い期間だったことだと思う。

現在の僕は政治家の答弁と同様にメディアの言動にも信頼を置いてはいない。多分多くの方がそうだと思う。TV・新聞などで流れる情報は、一般視聴者 とスポンサー企業にへつらう物ばかりの様に見える。つまりは社会の気分にあわせて造られ、それがさらに視聴者の気分を増長させているかのようにも思える。 それは、ジャーナリストとしての評価より、社内の評価を大切にする方向に流れる現体制では、致し方ない事なのかもしれない。ただ、僕は現代だからこそ「暮 らしの手帖」の商品テストのようなジャーナリズムを望んでしまう。サラリーマン化したジャーナリスト達は自分の暮らしを守るために表現を抑えてきたこと が、結果的に大局で自分の暮らしを脅かす結果になりはしないかと考えていることだろう。嫌々、人のことは言うまい。僕も彼らと同様の輩であることは間違い ないのだから。

そう言う意味では、体制側にいて書けなかった記事、言えなかった言葉をブログというツールを使って表現できるので、今後は本当の意味で情報の取捨選択が出来る時を迎えたのかもしれない。
自分のことを言えば、出来れば自分のブログにおいて、記事をネタと思わずに書いていければと思う。

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